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[MM日本国の研究813]「『昭和天皇実録』のピンポイント」
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[MM日本国の研究813]「『昭和天皇実録』のピンポイント」

2014-09-11 15:15
    ⌘                  2014年09月11日発行 第0813号 特別
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     ■■■    日本国の研究           
     ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
     ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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    「『昭和天皇実録』のピンポイント」

     和綴六十一巻、刊行すると全十九巻になるという実録について、九月九日付
    の新聞各紙が要点を記しているが、取り上げている箇所はさまざまである。宮
    内庁記者クラブには二週間以上前にコピーが渡されているので彼らの特権とし
    て全文を読むことができるのだ。新聞紙面に載った九日が情報公開の開始日に
    なっている。

     いますべてに眼を通すことは時間的に不可能なので、歴史の分岐点としてこ
    こがポイントと考えられる昭和八年(一九三三年)一月から二月の記述につい
    て紹介しておきたい。

     戦前と戦後では憲法における天皇の地位は異なる。昭和天皇は英国型の立憲
    君主制を志向しており(天皇機関説)、象徴天皇制に似ている側面もあった。
    そうはいえども「統帥権」と呼ばれる軍隊の最高指揮権を持っていた。この「天
    皇の大権」は国務からは独立していた。

     昭和前期は戦争の時代である。どこでこの大権、伝家の宝刀を抜くべきであ
    ったか。昭和十六年九月六日の御前会議では日米戦争に消極的な歌、明治天皇
    の御製「四方の海……などて波風の立ち騒ぐらむ」を詠むに留めた。この時点
    ではすでに既成事実が積み重ねられ、開戦を止める実効力は薄くなっていた。
    それならどの時点で伝家の宝刀を抜けばよかったか。歴史のルールにifはない
    が、ごく手短に実録を原文のまま引用しておきたい。

     昭和六年に満州事変があり、国際連盟で日本は批判されるが、いまのロシア
    のウクライナ東部への軍事介入同様に、日本の国際的孤立の決定打にはいたら
    なかった。リットン調査団が作成した報告書も、当時の日本の新聞はさんざん
    に批判したが、いまから振り返れば日本にとってそれほど厳しいものとは言え
    ない。

     ところが関東軍は満州から北京のすぐ北に位置する熱河(ねっか)省へ侵攻
    しようとしていた。もし熱河省へ進軍すれば国際連盟の対日勧告はきわめて厳
    しいものになり経済制裁も視野に入る。日本は完全に国際世論を敵に回すこと
    になる、という情勢であった。

     関東軍は二月に熱河作戦を展開する計画だった。以下は昭和八年一月十四日
    の「実録」。参謀総長の(閑院宮)載仁親王から報告を受けた。

    「満州事変勃発以来、張学良軍が失地回復を目的に満州国領内の熱河省へ進軍
    したこと等に対し、関東軍は同国の独立完成のため、翌月より熱河作戦を実施
    することを計画する。この日午後、参邸の参謀総長(閑院宮)載仁親王に謁を
    賜い、第八・第十・第十四各師団の留守もしくは残置部隊より歩兵四大隊その
    他を満州に増派する件につき上奏を受けられる」

     その報告を受けると昭和天皇は「その際、熱河進入に関しては慎重に考慮す
    べき旨を御注意になる」と、反対の意向を示している。

     一月二十日に斎藤実首相の上奏を受けた。「その際、首相には、去る十四日
    に参謀総長載仁親王に対し、熱河への出兵問題に関し慎重な態度を取るよう御
    注意になった旨を参考としてお伝えになる」。昭和天皇は首相に対して、参謀
    総長に注意したと伝えている。

     一月二十一日の歌会始での御製は「天地の神にそいのる朝なき海のことくに
    波たゝぬ世を」であった。立憲君主制では御製は、意思表示と受け止められて
    いた。

     一月二十三日に内田康哉外相から「場合によっては連盟脱退の必要が生じる
    虞ありとの言上あり」、翌週の一月三十日に再び内田外相が「英国政府より提
    議の対連盟妥協案の拒否を内定した旨の奏上を受けられる」。事態は緊急を要
    すると理解したのだろう。「ついで内大臣牧野伸顕をお召しになり、英国政府
    の提案を受諾することが日本とって有利と考えるとの御意見を示される」ので
    ある。このまま行けば国際連盟脱退になってしまうので英国の提案を受諾すべ
    きだという意思表示だが、宮中の側近に漏らしただけでは政府の外交の流れは
    止められない。

     二月三日に「宮内省御用掛真崎甚三郎(参謀次長)より、この年最初の陸軍
    軍事学に関する定例進講を御聴取になる。この日は熱河省の事情についての進
    講が行われる」。陸軍は侵攻するつもりである。翌日の二月四日に「参謀総長
    載仁親王に謁を賜い、殊に熱河省の事情及び熱河作戦の準備としての関東軍の
    配置変更の状況」の奏上を受けると、それに対して「熱河作戦については、長
    城を越えて関内に進出しないことが裁可の条件である」と述べた。

     ここからが重要である。二月八日に斎藤首相が「国際連盟とその関係上、内
    閣としては熱河攻略に同意し難く、本日午後の閣議において協議すべき旨」の
    奏上を受けた。内閣が反対している。そこで内大臣牧野伸顕と、侍従武官長奈
    良武次を呼んだ。二月四日に「載仁親王に対し、熱河攻略はやむを得ざるもの
    として諒解を与えたことに関し、これを取り消したき旨を述べられる」のだ。
    奈良武官長は明後日の二月十日に「参謀総長の拝謁時に仰せられたき旨」をお
    伝え下さいと言った。

     二月十日に「参謀総長載仁親王に謁を賜い、(略)熱河作戦発動の中止が可
    能か否かを御下問になる」。作戦中止をご下問、訊ねたのだ。毅然として中止
    せよ、という選択肢、大権の発動があり得たとしたらここである。

     二月十一日は紀元節である。「賢所・皇霊殿・神殿において御礼拝」などの
    行事がつづいた。午後に「侍従武官奈良武次をお召しになり、午後一時四十五
    分より二時二十五分にかけて謁を賜う。その際、本日内閣総理大臣が、国際連
    盟からの除名回避のため熱河作戦発動を中止したきも、軍部が御裁可済みの事
    項として敢行を強く主張するため、これを実行できずと話していることを述べ
    られ、統帥最高命令によって作戦発動を中止することが可能かを御下問になる。
    奈良よりは、慎重に熟慮されるべき旨の言上あり」

     軍部の熱河作戦に内閣が反対している。天皇の大権(統帥最高命令)を発動
    して作戦を中止したいが、可能かどうかと奈良武官長に訊ねた。奈良は「慎重
    に熟慮されるべき」と不服従であった。

     その夜、昭和天皇は悩んだ。満州国と熱河省は異なる、そこを武官長に書面
    で問い質したいと側近に述べる。

    「しかるに天皇はなお承知されず、夜に至り、侍従徳大寺実厚をお召しになり、
    熱河省を満州国と同一視することが国際関係を紛擾せしむ原因にして、満州国
    と熱河省を切り離して考えることが適切ではないかとのお考えを示され、武官
    長に対して書面を以て意見を尋ぬるよう御下命になる」

     ここで奈良武官長から、大権を発動すれば「紛擾を惹起し、政変の原因とな
    る」と脅される。極端に解釈するとクーデターも起きかねない、という意味で
    ある。

    「午後十時三十分頃、武官長より、天皇の御命令を以て熱河作戦を中止させよ
    うとすれば、動もすれば大なる紛擾を惹起し、政変の原因となるかもしれず、
    国策の決定は内閣の仕事であるため内閣以外にてこれを中止せしめることは不
    適当と考える旨の返書到達」

     翌二月十二日、奈良武官長を呼んだ。万里の長城を越えるな、と妥協してし
    まう。

    「熱河作戦に伴う長城越えは絶対に慎むべきことを参謀本部に注意し、これを
    聞かなければ作戦の発動中止を命じるつもりにて、その旨を伝達することを命
    じられる」

     二月十七日には内閣でも熱河作戦の実施が同意され、日本は国際連盟脱退へ
    の道を進むしかなくなるのである。

      昭和天皇は三十一歳だった。手練の軍幹部は面従腹背であった。有能な側近
    がいれば、大権の発動もあり、であったかもしれない。昭和天皇には国際社会
    の動向についての見識があった。ここで関東軍の暴走を許したことで軍部自身
    が規律を失って、二・二六事件へと向かい、中国戦線も泥沼化していったので
    ある。                             
                                    (了)


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    連載「断章 妻ゆり子の思い出」は今週は、お休みします。

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