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[MM日本国の研究815]「『昭和天皇実録』のピンポイント(2)」
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[MM日本国の研究815]「『昭和天皇実録』のピンポイント(2)」

2014-09-25 15:00
    ⌘                  2014年09月25日発行 第0815号 特別
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     ■■■    日本国の研究           
     ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
     ■■■                       編集長 猪瀬直樹
    **********************************************************************

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    「昭和天皇実録のピンポイント(2)」

     これはよく言われていることだが、関東軍が満州事変を起こし、いろいろあ
    るが王道楽土・五族協和の理想国家を目指した、というところまではタテマエ
    があった。国際連盟も、日本を批判しながら、まあ、そこそこにしていれば我
    慢してやるという列強の打算もあった。ところが関東軍は予定外に勝手に満州
    から外へはみ出してしまう。北京のすぐ近くまで、万里長城の手前の熱河省へ、
    侵攻してしまうのである。

     憲法上、軍の統帥権をもっている昭和天皇は、その天皇大権を発動すること
    で関東軍の作戦を阻止することができたはずだ。理論的にはそういうことにな
    るが、このとき昭和天皇は三十一歳である。この年齢は、昭和天皇の不運であ
    り、日本国民の不運でもあった。もし、大権を発動していたら、中国戦線はあ
    のような泥沼には陥らなかったに違いないが、周囲の側近たちがどこを向いて
    いたか。奈良武次侍従武官長は陸軍から来ている。出身母体を向いているので
    ある。いま侍従武官長という職制はないが、陸軍の将官クラスのポストであっ
    た(奈良は陸軍大将)。侍従長は昭和になってから海軍の将官のポストであっ
    た。

     昭和天皇には大権を発動するチャンスはあった。しかし、それを的確にサポ
    ートするシステム(人材を含めて)ではなかった。もうひとつ、決定的な問題
    だが、満州事変の理想が王道楽土・五族協和なら、そのロジックがなければい
    けない。結局、熱河攻略はロジックの破綻であった。タテマエは崩したらおし
    まいである。

     前回の「ピンポイント」は、その一点に絞った。

                     *

     昭和天皇実録に丹念に目を通すと、熱河作戦を裁可してからの激動の日々の
    さなかに、まったく別の災厄(後述)が日本国を襲っていたことが浮かび上が
    る。

     昭和天皇が熱河攻略を「熱河作戦に伴う長城越えは絶対に慎むべきことを参
    謀本部に注意し」て了承したのは二月十二日、五日後の二月十七日に斎藤実内
    閣は閣議で国際連盟の日本軍満州撤退勧告案反対、熱河攻略を決定する。熱河
    攻略というカードを切れば、国際連盟規約違反で除名される恐れがある。だか
    ら内閣は、どうせ除名されるなら、と三日後の二十日には閣議で、国際連盟が
    対日勧告案を可決した場合には連盟を自ら脱退すると決めた。二十三日に熱河
    作戦が発動された。

     国際連盟は二十四日、日本軍が満州の占領地域から撤退するよう勧告する案
    を採択すると、松岡洋右以下日本全権団は議場を退席した。有名なシーンであ
    る。実際のところ松岡は必死で妥協案を模索して本国に打電していたが、採用
    されなかったのである。

     この間、熱河攻略を了承し国際連盟脱退を認めても、昭和天皇は英米列強や
    中国との関係を心配しつづけていた。「実録」を引こう。

    「二月十八日土曜日 午前、侍従武官長奈良武次をお召しになり、熱河作戦に
    よって、支那軍が我が軍の急迫を受けて混乱に陥れば掠奪を行うことはなしと
    せず、このことが英米両国を大いに刺激することに関し、参謀本部の了解の有
    無につき御下問になる」

    「二月二十一日火曜日 午後三時、御学問所において参謀総長載仁親王に謁を
    賜い、熱河作戦計画につき上奏を受けられ、引き続き海軍軍令部長博恭王より、
    熱河作戦に関する海軍の協力準備につき上奏を受けられる。両総長に対し、北
    平・天津地方に軍事行動を及ぼさないよう堅く御希望になる」

     熱河攻略に際し、万里の長城越えはするな、と命じたのを忘れてはいまいな、
    と繰り返し念を押すのである。

    「二月二十四日金曜日 午後、侍従武官石田保秀より、熱河問題を中心とする
    支那情勢につき奏上を受けられる。その際、戦火が北支に波及し、同地方在留
    の列国民を危殆に陥れ、第二の義和団事件を惹起せぬよう、支那駐留軍が自重
    すべき旨を御注意になる」

     国際連盟脱退の報告を受けても、だから戦火が拡大してよい、ということで
    はないと意見を述べている。松岡洋右が議場を退場した日の翌二十五日も、「外
    務大臣内田康哉に謁を賜う。内田に対し、これまでのことはやむを得ないが、
    今後は外交を一層慎重にし、特に英米両国との親善協力に努力すべき旨の御言
    葉を賜う」のである。

     陸軍は面従腹背であった。

    「二月二十八日火曜日 (奈良武官長に)熱河作戦の進捗に伴い、北平・天津
    方面を撹乱し列国の干渉誘発を策せんとする支那側の策略に対し、陸軍が自衛
    の措置を講じるとの決意を新聞に発表したことにつき、北支への出兵に至るこ
    との有無について御下問になる」

     こうしているうちに、日々さまざまな出来事が起きていく。

     三陸地方で大地震が起き、沿岸を大津波が襲った。

    「三月三日金曜日 この日未明、宮城県金華山東方沖合の太平洋を震源とする
    強震あり。地震に伴う大津波の襲来により釜石・女川・宮古・気仙沼・北海道
    襟裳付近に甚大な被害が発生」したのである。

      吉村昭著『三陸海岸大津波』には、明治二十九年(一八九六年)と昭和八年
    (一九三三年)に三陸地方を襲った大津波とその被害状況が詳述されている。
    三年前の東日本大震災であらためて本書を読んだが、名著である。

    「損害は、明治二十九年の津波襲来時と同じように岩手県が最大で、宮城県、
    青森県がそれについだ。三県の被害を合計すると、死者二九九五名、負傷者一
    〇九六名、計四〇九一名に達し、また家屋も流失四八八五戸、倒壊二二五六戸、
    浸水四一四七戸、消失二四九戸、計一一五三七戸、また漁船も岩手県の五八六
    〇艘をはじめとして計七一二二艘が流失するという大参事となった」(文春文
    庫版)

     昭和天皇は皇太子時代の大正十二年(一九二三年)に関東大震災を経験して
    いる。「実録」にはそれについても記されているが、ここでは省略する。

     すぐに侍従の大金益次郎を派遣した。内務省出身だが、のちに戦後最初の侍
    従長を務めることになる人物である。

    「三月四日、天皇・皇后より岩手県に金三万円を、宮城県に金八千円を、青森
    県に千五百円を、北海道庁に金二百円をそれぞれ御救恤として下賜され、また
    侍従大金益次郎を岩手・宮城・青森の各県に差し遣わされる。大金は十二日帰
    京、十五日震災地の状況につき復命を言上する」(実録)
     
     救恤とは、義援金のことである。昭和天皇の名代として被災地に差し向けた
    侍従大金益次郎は、三陸沿岸を慰問してあるいた。各地の記録に残されている。
    東日本大震災で三階建ての防災庁舎が壊滅的な被害を受けた南三陸町(二〇〇
    五年、志津川町と歌津町が合併)では、防災庁舎があった旧志津川町で死傷者
    二十二人、歌津村で八十四人である。旧志津川町史に「昭和八年四月、天皇の
    御名代、大金侍従津波見舞のため来町」と記録されている。

     しかし、昭和天皇は被災地のことが気がかりであっても、三月四日は熱河作
    戦のヤマ場だったのだ。

    「三月四日土曜日 朝、侍従武官長奈良武次より、第八師団の先遣部隊が熱河
    省の承徳(省都)を占領した状況につき言上を受けられる。午後は、侍従武官
    町尻量基より、夜には侍従武官出光万兵衛よりそれぞれ熱河作戦と承徳占領の
    状況につき奏上を受けられる」

     承徳は象徴的な場所であった。清国の副都とも呼ばれ皇帝の避暑山荘と外八
    廟があり、最近(一九九四年)に世界遺産に登録されている。

     承徳を占領したことで関東軍は意気盛んとなり平気で一線を越える。「長城
    越えは絶対に慎むべきこと」としていた昭和天皇の意思をしばしば裏切ること
    になるのだが、昭和天皇は有効な手を打てなかった。

                                    (了)
                   *
                                           
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