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[MM日本国の研究819]「『昭和天皇実録』のピンポイント(6)」
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[MM日本国の研究819]「『昭和天皇実録』のピンポイント(6)」

2014-10-23 15:00
    ⌘                  2014年10月23日発行 第0819号 特別
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     ■■■    日本国の研究           
     ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
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    「昭和天皇実録のピンポイント(6)」

    「昭和天皇実録」の公開をきっかけに、昭和天皇の持っていた権限とは何か、
    実際の歴史事象にピンポイントを絞り、制度と個人の問題に焦点をあてていき
    たい。

     昭和天皇の崩御後に『昭和天皇独白録』が公刊されたが、それは戦後、昭和
    二十一年に宮内省御用掛を努めた寺崎英成らに語った言葉が記録されたもので
    ある。その独白録には、この連載の前々回で記した田中義一首相への叱責が反
    発する右翼や軍部の増長を招いた反省から、天皇が「大権」を発動したのは二
    回だけであった、と興味深い発言がある。

    「私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟
    (ま)ち又その進言に逆らわぬ事にしたが、この時(二・二六事件)と終戦の
    時との二回丈けは積極的に自分の考えを実行させた」

     二・二六事件は昭和十一年である。二月二十六日未明、歩兵第一連隊・第三
    連隊を主力とし近衛師団も加わり一六〇〇名の兵が青年将校らに率いられクー
    デターを企てた。岡田啓介首相らが襲撃された。岡田はたまたま押し入れに隠
    れて難を逃れ、義弟が間違えられて殺されるが、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、
    渡辺錠太郎陸軍教育総監は殺された。

     前回、孤立した昭和天皇が麹町警察に電話をして「鈴木侍従長は生きている
    か」と問い質したエピソードを記した。鈴木貫太郎侍従長の官舎はそのすぐ近
    くだった。鈴木侍従長は重傷を負わされた。ほんとうは殺されてもおかしくな
    い状況だった。鈴木自身の生々しい証言(『鈴木貫太郎自伝』)を以下に引用
    したい。

                     *

       二月二十六日の朝四時頃、熟睡中に女中が私を起こして、今兵隊さんが
      来ました、後ろの塀を乗り越えて入って来ましたと告げたから、直覚的に
      いよいよやったなと思って、すぐ跳ね起きて、何か防禦になるものはない
      かと、床の間にあった白鞘の剣をとろうとした。(中略)すると周囲から
      一っ時に二、三十人の兵が入って来て、みな銃剣をつけたままでわれわれ
      のまわりを、構えの姿勢でとりまいた。そのうちに一人進んで出(い)で
      簡単に閣下ですかと、向こうから丁寧な言葉でいう。それで、そうだと答
      えた。

       そこで私は双手を広げて、まあ静かになさいと先ずそういうと、みな私
      の顔を注視した。そこで、何かこういうことがあるについては、理由があ
      るだろうから、どういうことかその理由を聞かせてもらいたいといった。
      けれどもただ私を見ているばかりで、返事する者が一人もない。重ねてま
      た、何か理由があるだろう、それを話してもらいたいといったが、それで
      もみなだまっている。それから三度目に理由のないはずはないからその理
      由を聞かしてもらいたい、というと、そのなかの下士官らしいのが帯剣で
      ピストルをさげ、もう時間がありませんから撃ちますと、こういうから、
      そこで甚だ不審な話で、理由を聞いてもいわないで撃つというのだから、
      そこにいるものは理由が明瞭でなくただ上官の旨を受けて行動するだけの
      者だと考えられたから、それなら止むを得ません、お撃ちなさいというて、
      一間ばかり隔たった距離に直立不動で立った。その背後の欄間には両親の
      額がちょうど私の頭の上にかかっていた。

       すると、そのとたん、最初の一発を放った。ピストルを向けたのは二人
      の下士官であったが、向こうも多少心に動揺を来していたものと見えて、
      その弾丸は左の方を掠めて後方の唐紙を打ち身体にあたらなかった。次の
      弾丸がちょうど股のところを撃った。それから三番目が胸の左乳の五分ば
      かり内側の心臓部に命中してそこで倒れた。

       倒れる時左の眼を下にして倒れたが、その瞬間、頭と肩に一発ずつ弾丸
      が当たった。連続撃っているんだから、どちらが先かわからなかった。

       それで倒れるのを見て、向こうは射撃を止めた。すると大勢のなかから、
      トドメ、トドメ、と連呼する者がある。そこで下士官が私の前に坐った。
      その時に妻は、私の倒れたところから一間もはなれておらん所に、これも
      また数人の兵に銃剣とピストルを突き付けられていたが、止どめの声を聞
      いて、とどめはどうかやめていただきたいということをいった。

                     *

    『自伝』なので当事者としてきわめて臨場感あふれる描写である。最後のとこ
    ろに登場する気丈な妻鈴木たかという女性の存在を忘れてはならない。このあ
    たりは時代のうねりとどこか運命的な行きがかりを感じる。

     なぜならば、鈴木たかは昭和天皇が幼少時代に養育掛の女官として四歳から
    十五歳まで十一年間も勤めた。その幼少時の記録は「昭和天皇実録」に反映さ
    れているからだ。これについては後日、触れるとしたい。

     運命的というのは、『独白録』の「終戦の時との二回」である。昭和二十年
    四月七日に成立した鈴木貫太郎内閣のときに昭和天皇は陸軍の反対を押し切っ
    てポツダム宣言の受諾を御前会議で決めることになるからだ。鈴木貫太郎は七
    十七歳の高齢だった。ここで鈴木貫太郎が殺されていたら、終戦はさらに遠の
    き多くの犠牲者が出たであろう。もし、鈴木たかの「とどめはどうかやめてい
    ただきたい」がなかったら、歴史はどう変わっていただろう。一声が歴史をつ
    くるのである。

     二・二六事件については「昭和天皇実録」は二十六日から二十九日まで分刻
    みで昭和天皇の動静、言動を記してあり、じつに十六ページに及ぶ。「速やか
    な鎮定を命じられる」など、怒りの爆発の連続である。       (了)

                                   *
                                           
    「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp

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