⌘                    2015年04月16日発行 第0843号
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 ■■■    日本国の研究           
 ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
 ■■■                       編集長 猪瀬直樹
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 少年・太宰治は芥川龍之介の写真をカッコイイと思った。文章だけでなく見
た目も真似た。投稿少年だった川端康成、大宅壮一。文豪夏目漱石の機転、菊
池寛の才覚。自己演出の極限を目指した三島由紀夫、その壮絶な死の真実とは。
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 日本近代文学を代表する川端康成が逗子の仕事場でガス自殺したのは1972年
のきょう、4月16日、72歳でした。『作家の誕生』では、文豪川端康成の青春
時代を克明に描きだしています。この作品からお届けします!

          *   *   *

「川端康成の『十六歳の日記』」

 大阪府下の茨木中学3年の川端康成は、それまでは尾崎紅葉を大文豪だと思
っていたが、花袋のほうこそ新しい文学だ、と日記に書いた。そして中学3年
になると、死にいたる祖父を看病しながら事実としての観察記録(「十六歳の
日記」)を綴ったのである。だが、憧れの『文章世界』への投稿は落選がつづ
いた。

 大正5年の歳暮、川端康成は茨木中学5年生、17歳になっている。寄宿舎に
いて孤独を癒す言葉は「男女交際」という新しい流行語であった。「男女交際」
とつぶやくだけで未知の空気を胸いっぱいに吸い込むように思われた。

 川端康成の眼は、少年時代にすでに後年の特徴が顕著であった。少し驚いた
ようにギョロリと眼を剥いている。本ばかり読んでいて運動には興味がない。
旧制茨木中学では5年生が1年生の体操の指導をした。1年生を整列させ、ま
ず5年生が模範的に躯を動かす。すると1年生が、その真似をする。上級生で
あるからには川端にもその役割がまわってきた。身長157センチで38キロと
華奢な川端が体操をやると不格好になった。右眼の視神経の中心に眼底結核の
病痕があり左眼で視力を補おうとするため独特の眼の表情が形成されたばかり
でなく、躯のバランスをも崩すのであろうか。動きがぎこちない、というより
奇妙なかたちになった。

 1年生が笑い出した。川端は、あの眼のまま、表情を変えずに言った。
「笑え、笑え。もっと笑え」

 1年生は気圧されて黙った。小柄で痩せている川端のそんな意想外のところ
が同級生を驚かせた。中学生の坊主頭は五分刈だが、川端は突然、つるつるに
剃ってきたりで、そういう動機も同級生にはわかりにくかった。ほとんど口を
きかないからである。

 1歳で父親に、2歳で母親に死に別れた。たったひとりの姉は伯母の家に預
けられた。川端少年は祖父母に育てられる。小学校入学の年、祖母も亡くなっ
た。伯母の家にいるはずの姉は、その後、一度しか会っていないのに数年後
に死んでいる。伯父や伯母がいたとはいえ、同居している祖父を除けば実質的
に肉親が消滅したのである。

 6歳から祖父川端三八郎ど2人だけの跛行(はこう)的な暮らしがはじまっ
ていた。「朝からししやってもらわんので、うんうん言うて待って、今また西
向きに寝返りすんので、うんうん言うてたんや。西向かしてんか。な。おい」

 川端少年が、「ただいま」と学校から帰宅すると、臥せっている75歳の祖父
がこう訴える。「しし」とは小便のことである。看病をしなければならない。

 少年は訊ねる。
「どうするねや」
「溲瓶(しびん)持って来て、ちんちんを入れてくれんのや」
 少年は「前をまくり、いやいやながら注文通りにしてやる」しかない。
「はいったか。ええか。するで。大丈夫やな」と言うと、祖父は苦しそうに呻
いた。
「ああ、ああ、痛た、いたたったあ、いたたった、あ、ああ」

 さらに祖父のつぎのような、助けを求める悲痛な声が記録されている。

「ああ、まだ具合悪い。やり直して、ええ」
「ああ、楽んなった。ようしとくれた。お茶沸いてるか。後でまた、ししさし
てんか」
「まあ、待ちいな。そないに一ぺんに出来るもんか」
「はあ、分ったはるけど言うとかんとな」

 録音したように、こうした地の会話が連なっている「十六歳の日記」は一種
の介護記録である。のちに川端は「祖父の死の予感におびえて、祖父を写して
おきたくなった」と回想するが、あえて「写生」という言葉を使って説明して
いる。だが、祖父をただそこにいる生き物としてじっと見つめる、冷たい観察
力のほうが印象に残る。

 たとえば祖父に番茶を飲ませる場面。
「一々介抱して飲ませる。骨立った顔、おおかた禿げた白髪の頭。わなわなと
ふるう骨と皮との手。ごくごくと一飲みごとに動く、鶴首の咽仏(のどぼとけ)。
茶3杯」

 日記は中学3年の時点のもので、大正3年(1914年)5月4日付である。1899
年6月14日生まれだから、15歳の誕生日の少し前になる。戦前は生まれたとき
が1歳で、正月がくると2歳と数えた(「十六歳の日記」は『文藝春秋』大正
14年8月号に発表されているので、当時の日記そのままではなく、26歳になっ
た作者によりわずかであろうが註記などを含め、手が加えられている。日記は
5月4日に始まり5月16日まで綴られた。のちに日付不明の記述が見つかり、
追加されている)。

 孤独な川端康成は暗い檻(おり)に閉じ込められた囚人のように、小さな窓
から青空を仰いだ。そこに東京の『少年世界』『文章世界』が浮かんでいる。
日記に、自分は居候(いそうろう)だ、と書いた。祖父とたった二人で暮らし、
孤児になったことを小説に書けば「傑作生ずべし」と考えた。だが投稿すれど
も採用されず、という結果がつづき落胆した。そのころ、大宅壮一という下級
生が、部屋の四方をめぐらす鎖ほどのメダルを投稿で得ていると噂が聞こえて
きた。

 川端と大宅の俳句が同時期の投稿誌に載っている。
 五月雨や湯に通い行く旅役者(川端康成、『文章世界』大正5年8月号)
 ブランコの上りし時や花吹雪(大宅壮一、『日本少年』大正5年3月号)
                                (了)

               *

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■ポリタスに編集長津田大介さんによるインタビュー「必然の偶然”が起こし
 た気仙沼の奇跡――猪瀬直樹が語る『被災地復興』と『日本の未来』」が掲
 載されています。
 → http://politas.jp/features/4/article/338 

■週刊読書人3月6日号で石井光太×猪瀬直樹トークライブ「3.11を語り継ぐ」
 が載録されています。→http://goo.gl/jG9Tnw 

  臨場感―震災当日自分は何をしていたか/一通の緊急SOSを巡る一筋の
 ライン/死を見つめないメディア 報道と現実との乖離――。


「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp

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