闇に消えた帝位継承の〝密約〟
  ――皇室典範の陰画としての帝室大典①


▼日本人の歴史的欠陥という宿命

 心霊の歴史が詐術とマインド・コントロールに満ちていたことは周知であるが、そもそも私たちの足もとにその要素は散りばめられている。19世紀末の為政者は、来たる新世紀に人類の抱え込む問題がまずもって人口の過剰によってもたらされることに気づいていた。ゆえに大掛かりな人口削減を企図することに躊躇はなく、その残酷な政策とパラレルにあらわれたのが、死者の遺族を慰撫するための心霊主義の普及だった。

 人口過剰問題の解決法として、多量の武器による大々的な殺し合いがある。第1次世界大戦時に欧米でスピリチュアリズムが安価な宗教として風靡したとき、日本にその思潮をいち早く取り入れた宗教結社が軍部と癒着したのも偶然ではない。人口過剰問題の対策として、永久に戦争経済政策を続けることは我が国でも有効と見なされた。火種の絶えない満洲を新天地と美化して移民を奨励するのはその有力な手段のひとつであったし、大正デモクラシーの思潮や退廃的娯楽に染まった若者たちを戦場に送って一掃するのも必然的な政策だった。

 満洲の権益問題が存在するかぎり、日本は常に〝自衛戦争〟を続ける理由を保持し得た。この国策の歴史的評価がカメレオンのように色を変えて見せるのは、北方防衛の生命線という大義名分と関東軍の機密をめぐる奇々怪々な内実とが混沌として、いまだに全貌が明らかではないためである。満洲国をギリシャ神話の怪物キメラにたとえたのは政治学者の山室信一氏だが、その著書『キメラ――満洲国の肖像』の増補版によると、氏に満洲国研究をうながしたものは、中国文学者・竹内好(1910-1977)の次の言葉だったという。

日本国家は満洲国の葬式を出していない。
口をぬぐって知らん顔をしている。

「これは歴史および理性に対する背信行為だ……」というのだが、戦後の日本人の多くは国家同様に口をぬぐって知らん顔をしたのである。その結果、過去のないノッペラボウが巷にあふれかえって今日に至る。何も知らないのは教育のせいか? 私は違うと思う。なぜなら、戦後生まれの誰もが似たりよったりの戦後教育を受けながら、ノッペラボウにならなかった人も少なからずいるからだ。戦前の教育を受けた人のすべてが天皇神話に染まったわけではないのと同じで、昔から教育なんぞは常に言い訳の道具にすぎない。

 いろいろ問題がありながらも私が柳田國男や折口信夫を畏敬するのは、少なくとも彼らが戦時に生じた大量の霊魂の行方を真摯に憂えたからにほかならない。戦前に心霊や怪談を娯楽として面白がっていた時代があったが、そんな能天気な季節は日本が現実に焦土と化したことで終わったのである。何も知らないで面白がっていただけの人たちは、いま現実に何が起きているのかも知らないままに炎のなかで滅びていった。彼らには死んだ自覚すらないかもしれない。ところが戦後にまたそのことが忘れられ、あるいは意図的に口をぬぐって知らん顔をしながら、自分の殻のなかに閉じこもる人々は後を絶たない。

 これは批判ではない。ある種の歴史的欠陥が我々にはあるのではないかという疑問である。あるいは、それが果たして欠陥なのかどうかも実のところ定かではない。さしあたり宿命とでも呼ぶほかはない〝未完成の霊魂〟が私たちの心性に巣食っているのではないかという疑惑がある。その正体を歴史上に探ってみると、いくつかのトピックスにたどりつく。究極的には日本人の起源問題になるのだが、それは必ずしも人類学的起源を意味しない。良くも悪くも私たちが〝日本人らしい心性〟と考える心の起源がいつ生まれて定まったかという問題である。


▼満洲国帝位継承のトリック

 いわゆる満洲の特殊権益が日露戦争の結果として得たものであるかぎり、日本はこれを明治天皇の遺産として死守する大義があったと言える。しかし、その領分を逸脱して関東軍が戦線を拡大したとき、作戦を遂行した関東軍参謀・石原莞爾は、いずれ満洲国を日本の支配から切り離して独立させる構想を持っていた。イギリスに対するアメリカと同じモデルを極東に出現させ、〝英・米〟に対する〝日・満〟という世界勢力を実現させる青写真である。

 これがやがて欧米資本に抗する〝日・満・支経済ブロック構想となり、それにともなう大陸の通貨統一の思惑、そして新世界の歴史的・精神的ベースとしての〝心霊〟と〝民族〟の問題を整備することが企図された。五族協和の祭神は天照大神とし、日の神を皇祖とする天皇を日満支の精神的支柱として飾る構想であるから、最終的には満洲国皇帝もいらなくなる。

 つまり、ラスト・エンペラー溥儀が日本帝国の傀儡だったことの最終的な意味合いは、いずれ彼とその一族の存在が不要になることに尽きていた。これは単に関東軍司令部が机上に描いた空想ではなく、何かに引きずられるように突き進んでいた
現実の国策だった。

 いったい何に引きずられていたのか。

 この歌をご存知だろうか。

 若松の一本添へる心地して末頼もしき御世の春かな

 1935年(昭和10年)4月、満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀の訪日を受けて、大正天皇妃・貞明皇后(当時皇太后)が詠んだ歌である。「若松の一本添へる心地」というのは、昭和天皇と3人の弟宮(秩父宮・高松宮・三笠宮)に加えて、もうひとりの息子を授かった心地がするという意味である。溥儀の皇帝即位が、まことに末頼もしいというのである。

 皇室の事実上の主だった貞明皇后は、単なる社交辞令だけではなく、自分の息子たちとほぼ同じ年齢の溥儀に対して、最大限の愛情の言葉を寄せたと見られる。溥儀もまた貞明皇后を日本の母と慕い、昭和天皇を兄のように思ったという。大日本帝国政府および臣民は、若き満洲国皇帝の訪日を慶賀した。両国の関係が絶頂の季節を迎えた瞬間であったが、これだけなら、そういう歴史のひとこまがあったというだけである。

 しかし、ここで本ブロマガvol.44で述べたことを念頭に置いてみると、どうなるか。この風景が、単に日本帝国と傀儡国の友好親善というだけの風景ではなくなることに気づくだろう。貞明皇后が歌った満洲国皇帝との蜜月、すなわち満洲人・溥儀をわが子と思う感慨は、果たして文学的表明にとどまるものだったのか。かかる疑惑が頭をもたげる。

 皇室・公家が、自分たちの出自をどこまで知っていたかは不明だが、戦前の民族学・人類学の水準に照らせば、高句麗・満洲との近親性には気づいていたはずである。それゆえに帝国政府は総力を挙げて東亜諸民族の〝起源〟の研究をおこなった。満洲防衛という近代日本の国是が、いつのまにか〝日満支一体〟構想に変じていく背景にその意識があったのである。

 この〝意識〟というのは、とりあえず〝見なし〟と考えておけばよい。これまでにも本ブロマガで述べてきたが、歴史は〝擬制〟であって、事実の積み重ねではない。〝事実と見なされた事柄〟によって流れを変えていく大河である。昭和天皇は、関東軍の行動が独立性を強めることを懸念しながらも、結果的にその動きを追認していく。それは天皇の背後にいた貞明皇后も同様だろう。そのような心の深層にいかなる〝見なし〟があったかが重要なのである。

 満洲事変この方、日本の世相は暗い話題を提供したが、そのなかで国民が歓喜したのが日本と満洲国の蜜月だった。そして国民の関心は、満洲国皇帝の帝位継承問題に向けられた。私たちは満洲国が13年という短い寿命で消えたことを知っているので、帝位継承も何も、溥儀1代で終わった話としか思わない。だが、実はここにひとつの見逃せない暗示がある。

 満洲国皇帝の帝位継承法には、〝表の法〟と〝裏の法〟があった。〝裏〟というのは、溥儀と関東軍司令官の密約であり、その内容が公表されたのは1980年代になってからである。本来なら歴史の闇に消えたものが、図らずも出てきてしまった。その経緯は後述するが、私はこの〝内実〟について、今日の皇位継承法、すなわち戦後の皇室典範も似たようなものだろうと思っている。つまり、国民の目に触れない〝裏の法〟というのは常にあるものなのだ。

 もとより満洲国の帝位継承法は、戦前の皇室典範をモデルにして作られた。その意味では最初から日本の皇位継承法の陰画とも言うべき要素をはらんでいた。ゆえに満洲国の帝位継承法が内包した〝トリック〟と似たような要素を、今日の皇室典範もはらむ可能性がある。だとすれば、この問題はなかなかショッキングかつ重要な教訓を秘めているわけである。