小説『神神化身』第二部 
第三十四話

邂逅(かいこう)前夜の誰ぞ彼 


 水鵠衆(みずまとしゅう)の結成が電撃的に認められた後、程なくして水鵠衆の舞奏競(まいかなずくらべ)が決まった。今回の場合も横瀬(よこせ)が社人(やしろびと)を通して水鵠衆に通達し、阿城木(あしろぎ)達はそれを粛々と受け容れる形になった。何から何まで戸惑うことばかりだったが、これが上野國(こうずけのくに)公認の舞奏衆(まいかなずしゅう)になる為のことなのであれば、自分達は──というより、阿城木はなおのこと従うしかないのだった。
 戦う相手である舞奏衆の名前は、上野國舞奏社(まいかなずのやしろ)で水鵠衆覡主(げきしゅ)である七生(ななみ)が聞くこととなった。本来ならば舞奏衆三人で話を受けるのが普通らしいが、化身(けしん)持ちでは無い阿城木が上野國舞奏社で宣示の儀を受けることは……──率直に言えば好まれなかった。その空気を察したからこそ、阿城木の方から辞退したのだ。
「ならば、我もご遠慮しようかな。入彦(いりひこ)と待っておくぞ!」
 そう言ったのは去記(いぬき)だった。くりくりと丸い目には、コンタクトレンズに隠れた化身がある。拝島(はいじま)家の人間であるとはいえ、阿城木よりは舞奏社に足を踏み入れる権利があるだろう。だが、微妙な顔をしている阿城木に気がついたのか、去記が先に言う。
「我は九尾の狐であるからな。形式張ったところは合わぬのだ。我らは尻尾を伸ばして待っておこうぞ。千慧(ちさと)を一人で行かせるのは少し心配だが……」
「そんなの全然大丈夫! 僕だってたまにはリーダーっぽいところ見せないと締まらないでしょ? 最近阿城木ばっかいいとこ見せてるし!」
 七生が胸を張って言う。大船に乗った気で頼れるわけじゃないが、虚勢を張っているようにも見えない。
 なら、今回くらいは水鵠衆のリーダーに頼ってもいいかもしれない。
「……まあ、こういう時くらいお前に任せてもいいかもな。はじめてのおつかいって感じで」
「ちょっと! 馬鹿にしてるでしょ!」
「してねーよ。むしろ尊重してるわ。ほら、キャラメルやるよ。口開けろ」
「ぐ……ありがとう……」
 七生が渋々口を開ける。そこにバニラ味のキャラメルを放り込むと、七生は表情を綻ばせてキャラメルを食み始めた。そして、十数秒と経たない内にもう一度口を開ける。そこにはもうキャラメルが影も形も無い。一体どうなっているんだろうか。吞んでいるのか?
 阿城木は黙ってもう一度抹茶キャラメルを放り込む。このキャラメルは中にクリームが入っているタイプのもので、三種類の味がある。バニラとチョコと抹茶だ。食べるスピードでどれが好きかを判別してやることにしよう。……と、思っていたら、同じスピードで消化され、また口が開いた。今度はチョコ味のキャラメルを放り込む。
「二人は水鵠衆として、舞奏競を勝つことだけを考えてくれればいいから。任せておいてよ。そもそも対戦相手を聞くのって準備含めても三十分くらいだからさ」
 既にチョコ味のキャラメルを食べ終えた七生が、小さな手で胸を叩く。全部同じくらいの時間で呑み込まれてしまった。
「で、どれが一番美味かったんだよ」
「へ? どれが……? キャラメルは美味しいけど、なんか今の気分的にシュークリームも食べたい……?」
「そうじゃねーよ」
 自我無く甘味を食べているらしい七生に溜息を吐きながら言う。このままだと、七生は自覚の無いままこの世の菓子屋を滅亡させることになるんじゃないだろうか。
「もしお前が無事に帰って来れたら、ケーキ二個までは奢ってやるよ」
 阿城木はそう言って、七生にキャラメルを袋ごと投げ渡した。七生はそれを受け取ると、袋をまじまじと見てからキャラメルを機械的に口に放り込み始めた。


 そしてその翌週には、宣言通り七生が一人で舞奏社に向かった。阿城木と去記は、いつもの居間で七生のことを待っていた。ドーナツを大量に揚げて待っていたのは、七生を喜ばそうとしているわけじゃない。手持ち無沙汰だったからだ。
「おお、千慧の帰りが待ち遠しくてどーなつをこしらえるとは、入彦もなかなか健気だの」
「別に待ち遠しくて作ってるわけじゃねーよ。暇だからやってんだ。戻ってきたら腹減ったってピーピー言いそうだしな」
「我もどーなつは大好きであるぞ。揚げ物だからな」
「それ、油揚げの代わりって話じゃねーだろうな。そんなんじゃ納得しねーぞ、俺は」
「こぉん……」
「新手のリアクションを出してくんな。油跳ねるから気を付けろ」
「我は九尾だから平気だもん」
 そう言って、去記が阿城木の後ろでゆらゆら揺れる。鬱陶しくはあったが害は無いので放っておくことにした。どうせ、あとは揚げるだけなのだ。
 ドーナツが狐色になる頃、去記が言った。
「ふふふ、幸せだな」
「何だ急に」
「幸せだからそう言ったのだ」
「……そりゃまあ何よりだけどよ」
「この幸せは損なわれることがない。我はそれが嬉しくてたまらないのだ」
 去記の声が本当に幸せそうなので、阿城木は思わず言葉に詰まる。こんな他愛の無いことを幸福だと呼ばれるのは、それはそれで困ってしまう。阿城木の躊躇いを余所に、去記は続けた。
「我はその……伯父さんがいなくなって本当に悲しかったのだ。罪深くはあるし、赦されぬことではあると思っているが……それでも失われたことを辛く思った」
「……まあ、そりゃそうだろうな」
「それは、我が愚かにもその偽りの安寧を永遠だと思っていたからなのだな」
 去記が何を言いたいのか分からなかったので、とりあえず好きに話させておく。何故か胸騒ぎがしたが、幸せそうな去記の顔にはそぐわない不安だ。
「我は今ある幸せが消えて無くなってしまうことをちゃーんと覚悟しているのだ。たとえ無くなってしまったとしても、我が嬉しかったことや、千慧と入彦と水鵠衆になれたことは確かに在ったことなのだからな! そうであろう?」
「ああ……うん、まあ、そりゃそうだけどな……?」
「どうして疑問形なのだ! つれないぞ入彦!」
「つれないって言ってもな……」
 前向きな言葉ではあるし、去記の顔は喜色満面(きしょくまんめん)だ。だから、無闇に突っ込みづらいところではある。
 だが、どうして去記がこの生活が終わる前提で話しているのか分からない。確かに、舞奏競が終わった後のことを想像してみたことはない。だが、舞奏競が終わればそれで関係もおしまい、二度とこの家の敷居を跨がせない……なんてことを敢えて言うつもりもない。
 まさか去記は、まともな人間関係が築けていなさすぎて、その先が想像出来ないのだろうか。そうだとしたら悲しすぎる。……だが、それ以外に去記がそんなことを言う理由が思いつかない。
 後は……何かあるだろうか。去記がそんなことを言う理由。
 阿城木が知らない、拝島去記加入前夜のこと。
 あの時、去記は七生と話して考えを変えたのだった。朝になったら、状況が変わっていた。七生は去記と何を話したのだろうか。
 そんなことを考えていると、うっかりドーナツを焦がしかけた。ドーナツを疎かにするのはよくない。一旦思考を止めて、ドーナツに集中する。
「入彦~。どうしてこのドーナツとこのドーナツは分けてあるのだ?」
「あー、まあ気にすんな。九尾用と人間用だ。お前はこっちの九尾用食えな」
「ええっ、入彦なんだか優しくてびっくりする……」
「俺はいつも優しいだろが」
 そうしてドーナツを揚げ終えるのと、七生が帰ってくるのは殆ど同時だった。玄関の方から音がするなり、去記は飼い犬のように駆け出して行った。
「おっかえりだぞ千慧ー!」
「うん、ただいま去記。……阿城木は?」
「入彦なら、千慧の為にドーナツを揚げているぞ!」
「別にこいつの為ってわけでもねーよ」
 二皿に分けたドーナツをテーブルに運びながら、阿城木は一応言っておく。
「それで、どこだったんだ? 対戦相手」
 七生は浮かない顔のまま、静かに言った。
「遠江國(とおとうみのくに)の……御斯葉衆(みこしばしゅう)」
「御斯葉衆? でもまあ、遠江の舞奏(まいかなず)は有名だもんな」
 遠江國といえば、舞奏の長い歴史があるところだ。阿城木も映像で遠江國の有名な舞奏──夜叉憑きの舞奏を観たことがある。その類を見ない激しさは、今でも忘れられない。それでいて、御斯葉衆の舞奏はどこまでも静かなのである。動と静のせめぎ合いが、遠江國の特色なのかもしれない。
「ただ、遠江ってしばらく舞奏やってなかったよな? 栄柴(さかしば)の家の長男が舞奏辞めたとかで。ノノウはちらほら出てた気もするけど」
「そうなのか? もしかして、その……入彦のような事情なのか?」
 去記が恐る恐る尋ねてくる。
「化身持ちじゃなかったわけじゃねーよ。そもそも、栄柴家の長男が産まれた時、お祭り騒ぎだった気がするしな……。なのに、なんで辞めちまったんだろうな」
 化身という確かな才能の証があり、誰からも認められる血統があってもなお、舞奏から離れてしまったのは何故なのだろう。……もしかすると、栄柴の長男は舞奏以外にやりたいものがあったのかもしれない。阿城木からしてみれば贅沢な話ではあるが、……そして憎らしくもあるが、どうこう言える立場でもない。
「でも、遠江國の御斯葉衆にはその……栄柴巡(めぎり)も出ているよ。覡(げき)として復帰したみたいだ」
「じゃあ、そいつがリーダーってことか」
「いや、違う」
 七生の顔面は殆ど蒼白になっていた。そのまま、彼が小さな声で言う。
「……リーダーは、九条鵺雲(くじょうやくも)だよ」
「九条? ……って、相模國(さがみのくに)の九条家だろ。なんで九条家の人間が遠江國の舞奏衆で出てんだよ。それ、おかしくねーか」
「おかしい……。でも、他國の舞奏社に所属出来ないわけじゃない……。だって、僕も同じことをしてるんだから」
「そう言われりゃそうだけどな」
 そうなると、水鵠衆も御斯葉衆も、共に他國の覡をリーダーに据えた舞奏衆になるのだろうか。それはそれで数奇な話だ。おまけに、九条家といえば数ある舞奏の名家の中でも随一と言っていい家である。だから七生はこんなに不安そうな顔をしているのだろうか。
 そうではないような気がした。
「……千慧? 緊張しているのか? なんだか顔が強張っているぞ」
 去記が心配そうに眉を寄せる。それに合わせて、阿城木も言った。
「おい、どうしてそんなビビッてんだよ。九条鵺雲だの栄柴巡だのになんか嫌な思い出でもあんのか?」
「…………そうだって言ったらどうする?」
「はあ? お前マジでそうなの?」
「いや、そうじゃない。嫌な思い出が出来るとしたら、これからだ。まさか、……こういう展開に……でも、そうだ、そうなるしかないんだ……」
 七生は独り言のように呟き、虚ろな表情を晒している。目の前のドーナツにも意識が向いていないようだ。甘い物に目が無いはずの七生の態度に、余計に不安を煽られる。七生はどうしてしまったのだろうか。
「おい、とりあえず甘いもんでも食えよ。かしこまった場に行って疲れただろ?」
 意識がこちらに向いていない七生に、半ば強引にドーナツの載った皿を渡す。すると、七生はようやく自分のやるべきことを思い出したかのような態度で、表情を和らげた。
「これ、僕の為に揚げたの? 阿城木にしては気が利くじゃん。うん……もらうね」
 七生が丸いドーナツを摘まみ上げる。それを見ながら、阿城木は小さく息を吞んだ。阿城木の考えていることを悟られないよう、じっとその瞬間を待つ。
「美味いか?」
 阿城木は確かめるように、しっかりとした口調で尋ねた。
「うん? 美味しいけど……サクサクしてて、阿城木こういう揚げ物系上手だよね」
 正面切って尋ねられたことがあまりないからだろう。七生が不思議そうに言う。
 その瞬間、背筋が冷える感覚があった。恐ろしいからじゃない。悲しかったからだ。
 体温の無い手に触れた時のことを思い出す。あの時だって今だって、もう少し早く言ってくれていたら。あるいは、気づけていたら。こんな思いをすることもなかっただろう。
「阿城木……? どうしたの? もしかして、最近お菓子作りに凝り過ぎて変に思い詰めちゃってるんじゃ」
「お前、味分かってないだろ」
 七生の目が丸くなる。ドーナツを手に持ったまま、七生は固い声で言った。
「は? え……どういう意味? 俺のドーナツの本当の美味さは僕には分からない……的な?」
「そういうことなのか? 入彦!?」
「そういうことじゃねーよ。ほら、お前も食ってみろ」
 七生と同じように目を白黒させている去記に、皿からドーナツを取って押しつける。不思議そうにそれを囓った瞬間、去記が顔を顰めた。
「ぐぐぐ、何これ……に、酸っぱ苦いぞ! 何なのだこれ!」
「えっ、どういう……」
「どういうもこういうもねーよ。そっちの皿のドーナツには、クエン酸が大量に練り込んであったんだわ。一つまみ程度なら隠し味に良いんだけどな。それだけ入ってると効くだろ。苦いししょっぱいし、俺も味見したから分かるわ」
「ううううう、九尾の狐退治用……?」
「そうじゃねえって。だからこれは──」
 阿城木の視線が、七生の方へ向く。
「……騙したわけ?」
「騙したわけじゃねえよ。お前、体温の時もそうだけど、自分じゃ言わねえだろ。舌がおかしくなってんのはいつからだ? いや、いつからじゃねえのか」
 思い返してみれば、七生は不自然なほど味そのものに言及していなかった。いつも香りがどうとか食感がどうとか、後は甘い物を食べているという事実そのものに喜んでいた節がある。なら、味覚の欠如は最初からだ。
「よくもまあ長いこと黙ってたもんだな。お前が肝心なこと言わねえのは分かってたけど、これはマジでとんでもねーよな。あんだけ食うのにご執心だと流石に気がつけねーよ」
「……ひどい」
「あ? 何が酷いんだよ。ちゃんと話せって」
「ち、千慧……? そうなのか? 千慧は味が……わからないのか?」
 去記が恐る恐る尋ねる。
「何で……こんなことしたの?」
 果たして、七生は静かに言った。
「わざわざ、僕を試すようなことをしたの? どうして?」
「試す……ような真似したわけじゃねえよ。直接聞いたって、お前誤魔化すだろと思って……こうして暴かれたくないんだったらもっと早くに言えよ!」
「どうして?」
 七生の声は普段とは比べものにならないほど冷たかった。
「僕の味覚のことは舞奏に──水鵠衆に関係が無い。わざわざ指摘するようなことかな。それとも、居候の分際で味すらまともに分からないのにあれこれ食べてたことに怒り心頭ってこと?」
「別にそんなこと言ってねえだろ!」
 だが阿城木は阿城木で、どうしてこんなことまでして七生の秘密を暴きたかったのかわからないのだ。心の内には、ただただ「もっと早く言ってほしかった」という焦燥に似た思いがある。そうすれば、もっと別のことをしてやれたのに。他に七生にしてやれることが──掛けてやれる言葉があったはずなのに。
 そんな阿城木に対し、七生は顔を伏せたまま冷たく続けた。
「はーあ、何だかがっかりだよ。まあ、阿城木がこういうことしてくる人間だって知れたことは良かったけどね。やっぱりお前とは性格が合わないのかも。折角の舞奏競前なんだから、余計なことするなよ! これじゃあ余計なことを言ってこない、そこらのノノウを集めて組んだ方がまだマシだったかも──」
「おい!」
 余りの言い草に、思わず七生の手を掴む。相変わらず体温というものが感じられないその肌よりも、こちらを向いた七生の、今にも泣き出しそうな目に怯んだ。
「余計なことするから……。これじゃ、お前の作ってくれたもの全部、美味しいって言ってた僕が嘘吐きみたいだろ……」
 ややあって、七生が阿城木の手を乱暴に振り払う。
「……来週、御斯葉衆との修祓(しゅばつ)の儀(ぎ)があるから。僕が伝えるべき言葉はそれだけ」
「話はまだ終わってないだろ」
「うるさい! 阿城木と話すことなんか何も無いから!」
 そう言って、七生は部屋を出て行ってしまった。後には大量に残ったドーナツと阿城木、そしておろおろとした去記だけが残された。
「……その、入彦。我、少し時間かかるかもだけど、全部食べるぞ。これ……」
「……いーよ。俺がどうにかする。空気悪くしてごめんな」
「それは……それはいいけど……」
「……俺の所為だわ」
 七生は何も語らない。だから、敢えてこういうやり方で引き出してやろうと思ったのだ。それが、完全に裏目に出てしまった。
 助けを求められたら助け、語られたら耳を傾けるのが阿城木家のやり方だ。それに反した阿城木入彦が、いつものように上手くやれるはずがない。
 このまま自分達は修祓の儀を迎えることになるのだろうか。御斯葉衆に対し、七生はあんなに不安げだったというのに?
 けれど、今の阿城木にはどうすることも出来なかった。


 *


 その日の巡は、あまり機嫌が良くなかった。長い廊下を歩きながら、佐久夜(さくや)は彼の表情を窺う。やはり、やや怒っているらしい。すると、溜息を吐いて巡が説明を始めた。
「舞奏競のあれやこれやで鵺雲さんが舞奏社に滞在するっていうのは佐久(さく)ちゃんから聞いた。まあ、よく分かんないけど色々話すことがあるってことで」
「そうだな。俺が話した。鵺雲さんの用事については、俺も把握しているわけではないが」
「まあ、そこはいいよ。鵺雲さんの存在自体が訳わかんないもんね。俺が引っかかってるのは、正直そこじゃないの」
 巡の目がいつになく冷たい。これは機嫌を損ねている証拠だ。だが、佐久夜にはその原因が分からなかった。巡に命じられて、ある程度のことまでは情報共有をすることになった。
 そういうわけで、鵺雲の動向やそれに対しての佐久夜の対応などを、一応報告しているのである。一体、何が不満なのだろうか。
「そこじゃないならどこなんだ」
「佐久ちゃんさあ、鵺雲さんが舞奏社に滞在するとしか言ってなかったじゃん! ここ正確には舞奏社じゃなくて佐久ちゃん家だよねえ!? 何で鵺雲さんのこと泊めてんの!?」
「舞奏社には十分な宿泊設備が無い。客人をもてなせるよう、秘上(ひめがみ)家の離れは宿泊用に整備されている。鵺雲さんがそこに泊まることになるのは、当然のことだと思うが……」
「あーもう分かってるけどなんかやだ! だったら俺ん家に泊めた方がまだ良かった! 俺ん家だって部屋余ってるもん!」
「お前が鵺雲さんの身の回りの世話をするのか?」
「は? 佐久ちゃんが身の回りの世話をするわけ? そっちも聞き捨てならないんだけど」
 巡の表情がくるくると変わっていく。その様は見ていて飽きないが、これを楽しんでいると悟られれば余計に不興を買いそうだ、と佐久夜は思う。そんな佐久夜に対し、巡はビシッと人差し指を突きつけた。
「これからの俺は気に食わないことは気に食わないって言ってくからね!」
「……ああ、そうしてもらえると助かる」
「なーにが助かるだよ。お前を助ける為じゃないんだからな。これ」
 そんなことを話している内に、鵺雲が泊まっている離れに辿り着いた。御斯葉衆覡主となった彼が、初めて自分達をミーティングに招集したのだ。
「始まるね、舞奏競」
 襖を開ける前に、巡はぽつりとそう呟いた。
「……そうだな」
 どう答えていいか分からず、佐久夜はそれだけ返した。
 叶わないと思っていた栄柴巡の舞奏競。それが間近に迫っている。舞台上に自分がいる状況で、観られる。そのことが、佐久夜にはまるで奇跡のように思われるのだった。
「お前が選んで、お前が求めた舞台だよ」
 まだ修祓の儀を終えてもいない。実際に舞台に立ったわけでもない。だが、二人で九条鵺雲の前に──御斯葉衆の覡として立つこの瞬間こそが、自分達の舞奏競の始まりであると、佐久夜も心底理解していた。
「……ああ、そうだ」
 今度は巡の目をまっすぐに見て言う。襖を一枚隔てた向こうには九条鵺雲がいる。そのまま、巡が佐久夜の襟元を掴み、頭をそちらに下げさせた。
「お前は本当に強欲だな」
 耳元で巡が言う。そうして手を離すと、何事も無かったかのように、巡が襖を開いた。

「来てくれてありがとう、二人とも。僕なんかの雑談で時間を浪費してしまうのも申し訳無いから、本題から入ろう。水鵠衆との修祓の儀が来週に決まったんだ」
 鵺雲はいつも通りの笑みを浮かべながら、穏やかに言った。
 対戦相手である水鵠衆については、先日社から三人で通達を受けた。長らく舞奏衆を出していなかった上野國の舞奏衆。化身持ちが二人に化身の無い者が一人の、およそ上野國とは思えないような構成をしているのが特徴である。
 どんな相手であろうと、佐久夜が御斯葉衆の一員として力を尽くすのには違いが無い。その一方で、些か奇妙な舞奏衆と引き合わされることになったことに戸惑ってもいる。ちゃんと、上手くやれるだろうか。
 修祓の儀は、その不思議な舞奏衆との初めての邂逅となる。社人として段取りは一通り頭に入っているが、自分が覡として修祓の儀に出るのは当然ながら初めてだ。ちゃんと巡や鵺雲のことをサポートしつつ、覡として振る舞えるだろうか。
 そんなことを考えていると、巡が不意に口を開いた。
「化身持ちじゃない覡が化身持ちのいる舞奏衆に混じってるなんて珍しいね。大抵は上手くいかないもんだけど」
「……そうか」
 巡がそういったことを言うとは思わなかったので、佐久夜は内心で少し驚く。巡はそれこそ化身を持たないノノウ達を覡と認め、真摯に指導していた側なのだ。すると、巡は何とも言えない表情で言った。
「だって、しんどいと思うわ。こんなんよっぽどじゃない限り気にしちゃうでしょ」
「巡くんは化身を持っていない側に寄り添ってあげてとっても優しいね」
「鵺雲さんが言ってる優しいかどうかは分かりませんけどね。ただ、俺は持ってる側の人間だったから」
 持っているが故に苦しんできた巡がそんなことを言うのは、佐久夜からすれば胸の痛む話だ。巡はいつも、持っている側の人間に相応しい優しさを与える人間だった。
「本気で勝ちたいと思っているのなら、化身持ちではない人間を入れるなんて正気の沙汰ではないと思っているけれど……」
「鵺雲さん的には、化身持ちじゃなきゃ良い舞奏は奉じられないってことですか?」
「少し違うかな。素晴らしい舞奏が奉じられるなら、当然カミが化身を与えるだろう、ということだよ」
 一方の鵺雲は、当たり前のようにそう言った。鵺雲は鵺雲で、それを悪意によって口にしているわけでもないのだろう。彼にとっての舞奏とは──そして、化身とはそういうものなのだ。彼のそういう価値観によって、佐久夜は御斯葉衆に迎え入れられた。だから、そちらも否定することは出来なかった。
 その時、鵺雲が意味ありげな笑みを浮かべる。
「でもまあ、無理も無いのかもしれないね。水鵠衆は恐らく、勝とうとは思っていないだろうから」
「……それは、どういうことですか?」
 思わずそう尋ねてしまう。舞奏競は自らの技を尽くし、最上の舞奏を奉じるものであるはずだ。なのに、対戦相手である水鵠衆が勝とうと思っていないというのはどういうことだろうか? まさか、遠江國の御斯葉衆の名に恐れをなして戦意を喪失しているわけでもないだろう。すると、鵺雲は慈悲深さすら感じさせる笑みを浮かべながら、目を細めた。
「実を言うと、僕は相手の覡主である七生千慧くんとは面識があるんだ」
 やや訝(いぶか)しげに「知り合いなんですか?」と、巡が尋ねる。
「……恐らくは、今の彼の唯一の知り合いと言えるだろうね」
「そうなのですか」
 今度は佐久夜が言う。遠江國に来るまでの鵺雲の足取りは、極めて謎が多い。弟の九条比鷺を除けば、鵺雲の口から出る数少ない他人が彼だ。
「だから、修祓の儀の前にそれだけは言っておこうと思って。突然修祓の儀で旧交を深めているところを見られたら、ちょっとどういうことか気になっちゃうかもしれないしね」
 そこで、鵺雲は何故か佐久夜の方を見た。自身の奥底にあるものを見透かされたような気がして、一瞬気まずい思いをする。確かに、何も報されずに七生千慧と九条鵺雲の会話を聞けば、佐久夜は落ち着かない気持ちになっただろう。あるいは、嫉妬に似た感情を覚えたかもしれない。
「じゃー、今回は知り合い対決ってことなんですか? なんか熱いですねー。俺はそれでもバッチリ勝っておこうって思いますけど」
「ある意味では同窓会のようなものなのかもしれない。再会までとても長くかかったから。尤(もっと)も、僕は同窓会に出たことがないんだけど!」
「はは、鵺雲さんは同窓会呼ばれなさそー。俺もそうだからさ~」
 巡が妙なところで同調して笑う。たとえ呼ばれたとしても、お前がそうそう行かないんだろう、と佐久夜は心の中で思う。
「そういうわけで、修祓の儀が翌週にあるよということと、僕のよく知っている相手が水鵠衆の覡主であることだけが特記事項かな。勿論、やるべきことは変わらない。僕らは僕らの舞奏をカミに奉じるだけ。そして、きっと大祝宴(だいしゅくえん)に辿り着こう」
 鵺雲は御斯葉衆の覡主に相応しい顔をして、佐久夜と巡に語りかける。
「……そうですね。ま、俺の相手は水鵠衆っていうより、鵺雲さんなのかもしれないけど」
 巡は器用で懐っこい笑みを浮かべたまま、鵺雲に言う。
「御斯葉衆の覡主は鵺雲さんだし、俺は舞台を下りてしまった以上、それにどうこう言うつもりはない。けど、何も語らずここに来たあんたに、自分の思うままに振る舞わせるつもりはない」
 巡の声はあくまでいつもの通りだ。だが、その魂の震えが──消えぬ闘志が、佐久夜には伝わっている。
「舞奏はその人間を映し出すものだ。何も語らない鵺雲さんの、語りたくはなかったところまで見せてもらっちゃおうかな。あんたが一体、誰なのかとか。なーんてね」
「僕はずっと九条家の嫡男、九条鵺雲だよ」
 鵺雲の回答をどう思ったのかは知らないが、巡が大きく頷く。部屋の温度すら下げるような緊張が走った。ややあって、巡がパッと表情を変えて言う。
「そんじゃまあ、ミーティングはこんなもん?」
「こんなものだね。付き合ってくれてありがとう!」
「全然いいですよって。割と楽しかったし! ね、佐久ちゃん」
「…………ああ、そうだな」
 何と言っていいものか分からず、差し当たってそう答えておく。
「あ、そうだ。佐久夜くんにお願いなんだけど……少しお部屋の整理をお願いしてもいいかな?」
 巡と共に部屋を出ようとした瞬間、鵺雲がそう言ってきた。巡を見つめ、許可を求める。
「佐久ちゃん、いいよ」
 許可が出たので、佐久夜は部屋に残った。
 一応は幼い頃から自分が馴染んでいた部屋に、鵺雲がいる。そのことが何だか妙に感じられた。
「整理するほど部屋が荒れているようには見えませんが」
「こうするより他に引き留める方法を知らないものだから」
 鵺雲が悪戯(いたずら)っぽく言う。そんなはずもないだろう、と佐久夜は思う。
「少し話をしたくて」
「ならそう仰ってくださればいいんですよ」
「そうだね、次からそうする」
 鵺雲は素直に言うと、佐久夜のことを見た。
「いよいよ舞奏競だね。その前に修祓の儀があるけれど」
「七生千慧と──水鵠衆の覡主と面識があるというのは本当ですか」
「本当だよ。昔は……彼ともとても上手くやっていたんだ。尤も、今の七生くんは僕のことを嫌っているかもしれないけどね」
「何故ですか?」
「考え方の違いかな」
 鵺雲が小さく首を傾げる。
「本当は、もう僕なんかには会いたくないかもしれない。そのくらい、今の僕と七生くんは隔てられている」
 鵺雲は遙か遠くを見ているかのような目をして呟く。
「でも、僕は七生くんを救いたいんだ。誰でもなくなってしまった彼を助けられるのは、もう僕くらいしかいないだろうから」
「そうなのですか」
「そうだよ。僕は不出来な人間だけど、過ちを犯そうとしている彼を止めることくらいは──まだ、出来るかもしれない。僕はその為にここまで来たんだ」
 不意に、佐久夜は巡の言葉を思い出した。巡はさっき、鵺雲に対し、誰なのかと尋ねた。九条家の嫡男、九条鵺雲。
 目の前の彼は、本当に『そう』なのだろうか。
「それでね。舞奏競が始まる前に、佐久夜くんに一つお願いがあるんだ」
「お願い?」
「そう。佐久夜くんにしか頼めないことだよ」
 そして、鵺雲が佐久夜の耳元に口を寄せた。その願いは奇妙で、今の佐久夜にはまるで理解が出来ないものだ。だが、佐久夜はその願いを受け容れるしかなかった。
 何故なら、彼の願いを叶えることは、秘上佐久夜が御斯葉衆で為すべきことであるからだ。
「人は空に星を見る。なら翔る鳥は何を見る?」
 最後に鵺雲は歌うように言った。その答えを、佐久夜は密やかに探している。





著:斜線堂有紀

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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