第17回 格闘技オリンピック
僕の憧れたUWFが1991年に解散。同年3月に藤原組、5月にUWFインター、そしてリングスと3派に分裂して活動を再開した。リングスは前田日明たった一人での旗揚げとなり、日本人選手の不足から正道会館と提携。その結果、偶然なのか考え抜いた結果なのかは分からないけど、他の2団体とは別の内容の試合が行われるようになった。
正道会館との提携が始まったのは、有明コロシアム大会からだった。その興行も僕は偶然観に行った。友人からチケットがあるから行かない?と誘われて何となく出かけ、そして衝撃を受けた。それまでのリングス、そしてUWFとは違った内容の試合が正道会館勢が参戦している中で行われたのだ。ついに総合格闘技のプロの試合が大観衆を前にし、プロ興行として行われたのだ。それは1991年12月のことだった。
僕はいても立ってもいられないような、不思議な感覚に包まれた。1988年8月に有明コロシアムで行われた、UWFとシュートボクシングとの合同興行。真夏の格闘技戦と謳われたその興行。まだ有明コロシアムには屋根が付いていなかった時代。前日まで雨が降り続き、興行開催が懸念された大会。だけど当日には嘘のように晴れ上がり大成功を収めた大会。その頃、僕はまだシュートボクシングの若手だった。
屋根が付いた有明コロシアムで行われたリングスの興行が、僕に再び総合格闘技のプロとしての夢を思い出させた。正道会館の全日本大会に出場した僕はプロとしてワンランク上がって、シュートボクシングのエースとして試合を続けていた。
いまいち燃え上がるものがないまま、プロ選手としてランクが上がった僕はシュートボクシングの興行を支えるのに欠かせない選手になってしまっていた。後楽園ホールに観に来てくれる観客が増えても、僕は相変わらず昼にはアルバイトをやっていた。そうしなければ暮らしていけないのだ。僕はもうすぐ28歳になろうとしていた。そして僕の将来がシュートボクシングで安定するとは思えない状況でもあった。