第15回 ミッキーのオメパカなお話 〜いまだから言える、3人の女の子への「ありがとう」〜
1976年の夏、オレは最後の「季節労働(夏は海、冬はスキー場)」になった与論島へと向かった。
それまでオレは、冬はまず八方尾根(白馬)スキー場、次に栂池スキー場、最後が妙高高原スキー場。
夏はまず八丈島、次に新島(この新島は2年続けて行った)、そして最後が与論島だった。
いま思い返すと、この「季節労働の時期」は「半ホモ(半分ホモ、バイセクシャル)」を自覚していなくて、オス全開の時期だった。
ひたすら女のケツを追いかけ回していた。
当時は、いまほど女のお股が「オメパカ(友人の小川考案の造語。意味はオメコがパカっとひらくということ)」状態でなく、ペッティングまでは許すが挿入まではマラじゃなくてマレだった。
よく「何十人とやった」なんてほざいているオッサンがいるが、ほとんどがホラ話。それなりにモテモテだったオレ様でさえ、ワンシーズンで一人か二人ぐらい。ペッティングならワンシーズンで5〜7人。そんなもんである。
マジな話、これらの「女あさり」の時期は、オレは人生に向き合うことから逃げていたのだ。
「人生なんて、いっときの快楽」なんていう快楽主義者を気取ってはいても、内心の空虚さは誤魔化しようがなかった。
心の中では「こんなことを続けていて、本当にいいのだろうか?」という悶々地獄の季節でもあったといえる。
なぜ、与論島が季節労働の最後のシーズンになったかは、ここで痛烈な屈辱的体験をしたからであった。
当時、オレの年齢は26歳。
まわりの友人たちの多くは就職をしていて、フリーターなんていう言葉がない時代、旅行客やバイト連中はほとんどがオレより若かった。
たぶん、「このオッサン、いい歳こいて何してんだ」という感覚だったのだろう。
与論島のバイトでのある夜。昼間仲良くなった数人と、子供の頃の駄菓子屋の「お菓子談義」で盛り上がった。
しかーし、オレはいい加減に相槌は打ってはいても、彼らが次々と思い出すお菓子の名前を知らず、完全にカヤの外だった。
彼らが二十歳前後だから、たった5〜6歳の年齢差にもかかわらず、話についていけなかった。
そのとき、ふと「もう、こんなリゾートバイトもそろそろ終わりだな」と思った。
その思いを決定的にしたのが、ビーチでのナンパだった。
お盆を過ぎると、急に客が減り、夏のバイトも終わりが近づいたと感じられる。
8月20日頃。オレは、バイトしていた民宿のバイトを早めに切り上げ、そのバイト代の一部で2日ほど島の観光を楽しもうと考えた。
いざ1日いっぱい自由になったはいいが、これがほんとヒマなんである。バイトしていたときは、わずかの休憩時間に泳いだりナンパしたりしていたが、なんの束縛もないというのが、それなりに苦痛だというのがしみじみわかった。
与論島のメーンは由比ガ浜なのだが、そこにはしょっちゅう行っていたのと、「遠浅(遠くまで浅いビーチ)」なので本格的に潜れないので、まだ行ったことがなかったビーチに向かった。
数は少なくなってきていたが、まだまだ多くのピッチピチギャルがいた。オレはココロの片隅の「野生の呼び声」を表面には出さず、おいしそうな「極楽ランチ(顔も体もゴージャスな女の子)」を求めて、ビーチをうろうろ。
そうそう「極楽ランチ」には出会えず、「スタンダード・ランチ」に切りかえてアタック開始。
ところが、オレは多くの女の子からシカトされてしまうのである。
ヘビーショック!
なかには「うるさいんで、どこかへ言ってくれます」なんて言われる始末なのである。