第18回 熱意&ヤケクソ&スケベ根性で完売! ミニコミ革命!『カジノフォーリー』旗揚げ!!
1983年、春、3月。
オレはタウン新聞「北都朝日」の記者を辞める。
当時、31歳。夏には32歳を迎えようとしていた。
「ミニコミの新雑誌を発行する」という大目標を決意したものの、どんな内容の雑誌にするか、スタッフを誰にするか、具体的な問題が山積していた。
資金は苦労して貯めた100万円しかなかった。
スポンサーを探すにも、どんな雑誌かわからないのでは探しようもなかった。
まずは、前回書いた「風プロダクション」の仲間二人に相談した。
これが、絵に描いたようにアテにならなかった。
「そんなこと、俺たちでできるわけがない」
「どんな雑誌になるかわからないのに協力できない」
果ては「今は忙しいから無理だ」などなど、クソの役にも立たなかった。
持ち前の「河内根性(生まれた大阪府八尾市近辺を“かわち”といい、気が荒くて喧嘩好きだが、勝新太郎演じる映画『悪名』の“八尾の朝吉”のように頑固で常識破りであきらめない根性)」がムクムクと湧きあがり、二人に宣言した。
「お前らがいなくても、オレは一人でもやったるわい!」
オレを捨てて結婚してしまった彼女にも“落とし前”をつけたかった。もう、後戻りはできなかった。
資金不足を補うために、半年の失業保険をもらいながら、焼き鳥屋のウエイターのバイトにつく。
空き時間に、ミニコミを出した人たち10人ぐらいに会いにいった。
「雑誌の作り方」「販売方法」「宣伝告知のしかた」など、質問をしまくり、リサーチを続けた。
当初、最初にやりたかったのは「犯罪の雑誌」だった。
大事件の裏側から、笑える犯罪まで網羅する雑誌。
でも、犯罪の専門ライターに相談すると、「まず無理だろうね。キミには警察関係のコネや情報提供者がいるの? どうやってネタを集めるわけ?」。
そう問い詰められて、オレは「う〜ん」と黙り込むしかなかった。
《※編集部注:そこは相談しなくてもわかるはずですが……。》
そこで、オレ自身が何に興味があって、なおかつ、読者を獲得できるテーマは何かをノートに書き出した。それを1週間ぐらい続けていたら、だんだんと明確になっていった。
「そうだ! “人間くさいこと”と“笑い”をドッキングした、アメリカの『MAD』(当時、米国で大人気だったコミック主体の風刺マガジン)の日本版を作ろう!」
初期の『カジノフォーリー』はこうやって、ようやく「はじめの一歩」を歩みだした。
よく誤解されているが、第二次カジノフォーリーがお笑い専門誌だったので、この第一次カジノフォ-リーもお笑い雑誌と勘違いされがちだが、オレからいうと、このふたつは全く別物に近い。
《※編集部注:初耳です!》
たしかに、最初のカジノ〜も芸人を紹介しているが、それはあくまで「添え物」で、コンセプトは「人間や人生を笑いというフォーカスで風刺しょう」というものだった。
《※編集部注:芸人の皆さん、添え物だそうですっ!》
まあいえば、四角四面の役人を代表とする日本及び日本人をオチョクルことが目的だった。
《※編集部注:日本の皆さん、オチョクルんだそうですっ!》
でも、いい加減なダジャレっぽい漫才的なものではなく、それなりに識者が読めばけっこう本質をついたラジカル(根源的)なものにしたかった。
いまから読み返すと、エエ加減で幼稚な部分もあり、不徳のいたすところでありんす。
《※編集部注:というか、現在ならさしずめ“炎上”の材料の宝庫。》
さて、新雑誌のコンセプトはできあがったが、今度は誰に書いてもらうかという問題にぶち当たる。
ここで大いに助かったのが、ジャーナリスト学院の恩師・上野昂志(うえの・こうし)先生の人脈だった。
ジャナ専の講師で好きだった玉川しんめい先生にも「辻潤」の評伝を書いていただいた。
あと半分はオレのお笑い人脈で、表紙に竹中直人を起用したことから、竹中の友人だった「宮沢章夫」にも参加してもらった。
でも、編集スタッフは限りなくゼロに近く、創刊号は8〜9割はオレひとりで踏んばった。
いまでも、自分ながらよくやったなあと思う。
スタッフが揃うのは、2号以後で、創刊号を見て、応募してくれたお笑い好きだった(この辺のことも、別の回で詳細を)。
つぎに問題になったのが、どこの印刷所で作ってもらうかの問題だった。
ミニコミ関係者が紹介してくれた所は、都内で予算が高かった。
このときも、上野先生の知り合いの「東考社」を紹介してもらい、破格の予算だった。