その2 不思議な道、大いなる道のり。(後半)
太氣拳というのは中国の近代の最高の拳法と呼ばれる意拳が源流。意拳とはまたの名を大成拳と呼ぶ。拳法としてまたとないほど優れた内容ということで、時の北京市長から最大限の賞賛を持って命名されたのが“大成拳”という名称。意拳とか形意拳を学んだ開祖の王老師が、一切の無駄を省き、本当に必要なものだけを残した実戦のための武術。形意拳から型(形)を取り除いたものが意拳なのだ。
その鍛練は独特だ。形を取り除いたという特色そのままに、ただ立つという究極のシンプルな形で鍛練を行う。武術とは見た目では分からない。見た目だけで決して同じことは出来ない。意拳を源流とする太氣拳も同じ鍛練が基本。ただそこに立つという、立禅(りつぜん)と呼ばれる基本功が全ての始まりとなり、立禅を極めることこそが太氣拳を極めることであったりもする。
太氣拳の創始者は澤井健一先生。澤井先生は戦争で大陸に渡り、敵国の武術家と腕試しを繰り返した日本軍の武術教官だった猛者だ。柔道と剣道の高段者でもあり、高専柔道の心得もあったと聞く。日本人でただ一人、中国人以外で王老師から認められ、意拳の正統な継承者として系統図に名を連ねている。中国の意拳の入門書に記されてある系統図には、澤井健一の名前が必ず記されているのだ。
その澤井先生が生前道場を開設することを唯一認めたのが島田道男先生。その島田先生から僕は太氣拳を学ぶことになった。このご縁はまたしても、たまたまが始まりだった。とある格闘技雑誌で僕と島田先生の対談が組まれたのがご縁の始まり。僕は太氣拳の名前は知っていたし興味もあった。
中国武術の内家拳という存在は、謎の存在であり興味があった。身体の内側を動かすという不思議な拳法というのが当時の僕の認識。身体の内側の力を使って闘い、筋力に頼らないのに強い。高校生の頃に流行った漫画『拳児』によって知る人ぞ知る存在であった中国武術の内家拳。好きな人の間では圧倒的に憧れられる謎の身体操作が内家拳。興味津々で島田先生との対談が進んでいったのを覚えている。あの時はホンの少し身体の内側の動きが出て来た頃の対談だった。
そして、意気投合して対談を終えて帰る頃に事件は起こった。島田先生が当たり前のように僕に聞いてきたのだ。「じゃあ、いつから来ます?」。は、はいっ……? いつから来る……? どこに〜? 入会の勧誘ではなかった。これはすでに入会手続きが終了し、初日の練習をいつから始めますか?と尋ねられていたのだ。いつの間に入会したのか? 一体全体いつなんだ? 僕はそんなことを思った(笑)。それでも違和感がなかったのが不思議だった。むしろ僕の気持ちを見透かした感じで先生のほうから話を切り出してくれた感じだった。
それで対談の翌週から僕は太氣拳を学ぶようになった。これも不思議なんだけれども、操体法の時と同じように個人レッスンで学んだ。学びが進み武術の知識が増えてくると、この学び方が古流武術の本来の学び方だったと僕は知ることになる。武術とは師匠の感覚を学ぶこと。師匠の感覚を通じて先人の感覚をも学び感じることが武術の学びの大筋を構成している。武術のご先祖様の感じた感覚と同じ感覚を感じるのが武術の目的の大筋。そのためには、個人的に手取り足取り教えてもらう以外に方法はなかったりする。
武術が武道に変わった時代。明治維新の時代に「柔術」は「柔道」となり、「唐手」は本土に渡り「空手」となった。柔術も唐手も本来は個人的に伝えるものだった。しかし、講道館の嘉納先生の本土への招聘によって普及への足がかりを手にした唐手も、嘉納先生の助力とアドバイスにより集団稽古という新しい方法で普及を図った。
個人的に丁寧に教えれば、武術の深い部分まで伝えることはできる。ところがそれでは教えることが出来る人数が限られてしまう。集団稽古といった新しい手法は柔道と空手にとって、世界中に広めるための新しい手法として大きな力添えとなった。