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著:古樹佳夜

絵:花篠
吽野:浅沼晋太郎
阿文:土田玲央

★第五話はこちら
https://ch.nicovideo.jp/kuroineko/blomaga/ar2149215
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第四話序章「狛犬」

 
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
 
その日、吽野は上機嫌で、阿文に話しかけた。
 
吽野「阿文クン、春だね」
阿文「ああ。そうだな」
 
店内の片付けをしていた阿文は、
手を止めることなく受け答えした。
 
吽野「春といえば、なんの季節かわかるかな?」
阿文「そうだな……うーん、桜の季節……かな?」
吽野「それ! いやー俺たち気持ち通じ合っちゃってるよね〜」
阿文「それはよくわからないが」
吽野「あらそうなの?」
阿文「そういえば、ちょうど今、裏手の神社は桜が満開だったな」
吽野「そうだよね! てなわけで、今からお花見に行きたいなと、思いまーす!」
 
春の陽気に当てられて、
開放的にでもなっているのか。
阿文はいつもと違う様子の吽野にギョッとしつつも
素晴らしい提案に乗り気になった。
 
阿文「いいじゃないか。じゃ、僕はおむすびでも握ってこようか。先生、具は何にする? おかか? 梅?」
吽野「あ、待って。その前に、君に力仕事を手伝って欲しいんだ」
阿文「はぁ? 力仕事? 花見に行くんじゃないのか?」
吽野「花見だよ。花見のついでに店番も手伝って欲しいのよ。そういうの、得意でしょ?」
阿文「店番……? なんのことだ」
 
 
◆◆◆◆◆神社◆◆◆◆◆
 
吽野と阿文は今、桜の下にいる。
花びらが暖かい風に舞い、
頭上では鳥が囀っている。
 
吽野「いや、本当にいい天気。雲ひとつない快晴、桜は満開、絶好の蚤の市日和だね!ほらご覧? 参道に骨董がずら〜り並んでいるじゃないか!」
阿文「神社の蚤の市に出店するなんて、聞いてなかったぞ!」
吽野「ごめんごめん。伝えるの忘れてたんだ。怒んないで」
阿文「不思議堂から商品を運び出すのは骨が折れたぞ……」
吽野「おかげさまで露天に商品も並べられた。いや、よかったな〜。阿文クンは俺より手際がいいから」
阿文「少しは反省してくれ。前もって準備をしておいてくれたら、こんな苦労しなかったんだぞ」
吽野「はいはい、そんなぐちぐち言わないで。もしかしてお腹減ってるのかな? ほら、おにぎりでも食べて、一休みするといい」
阿文「それは僕が握ったものだ!」
 
吽野は阿文を宥めるように言ったつもりだった。
けれど、阿文の返事は手厳しかった。
仕方なしに、吽野は風呂敷を解いて、
おにぎりを取り出し、頬張った。
 
吽野「(もぐもぐ)あ、これ梅だ。すっぱい」
阿文「はぁ、まったく、先生の計画性のなさは直らないな」
 
阿文の小言は、すでに吽野の耳には入っていない。
吽野の興味はすでにおにぎりからは逸れていて
先ほど広げたばかりの、不思議堂の商品に移っていた。
 
吽野「(もぐもぐ)ねえ、この持ってきた皿、売れるかな?」
阿文「うーん、店でも売れ残ってるからな。値引きしたらどうだ」
吽野「だよね……こだわりの品だけど、もう店内は在庫でパンパンだし……」
阿文「大して売れないからな」
吽野「もう、失礼だな」
阿文「せっかくたくさん運んだんだ、できるだけ売って、帰りの荷物を減らそう」
吽野「あ、」
阿文「あ?」
吽野「あっちの露天商が売ってる置物。気になるな。店に仕入れたい」
阿文「はぁ? まだ1つも売れてないのに、仕入れるなんて!」
阿文「ごめん、ちょっと行ってくる」
 
吽野は素早く立ち上がった。
 
阿文「あ、ちょっと!」
吽野「すぐ戻るから、店番よろしく」
 
吽野は人混みを避けながら
露天商が広げている商品に向かって歩んでいた。
あっという間に姿が見えなくなる。
 
阿文「ったく! 」
 
阿文は苛立ちを隠さなかった。
少しでも気分を散らそうと空を見上げ、
独り言を口にする。
 
阿文「はあ、ただの花見だと思ったのになぁ……いつも先生の行き当たりばったりで調子が狂いっぱなしだ」
 
話し相手もいなくなり、
阿文は春の陽気と、のどかな風景を前に、
ぼんやりするしかなくなった。
 
阿文「それにしても桜が満開で綺麗だな。青い空に薄桃色の桜の花びらが映えて……」
 
阿文「ん? あの像……」
 
ふと、阿文の目に入ったものがあった。
 
吽野「ただいま〜」
 
そこに、吽野が嬉しげな笑みを浮かべて帰ってきた。
どうやら、いいものが買えたようだ。
一方の阿文は、見つけたものに目を奪われていた。
 
阿文「先生、あそこの社殿の前に並んでいる像は……」
吽野「ああ、狛犬だね。阿吽像だよ」
阿文「だよな? 阿吽像は対のはずだ。でも、あれは右側の像がない」
吽野「ああ、そのことね。ずいぶん前からなんだよ。気づかなかった?」
阿文「……そうだな、今初めて気づいた」
吽野「……本当?」
阿文「先生は理由を知っているのか?」
吽野「……さてねぇ」
 
吽野は、懐に携帯していた煙管を取り出し
一服しようとしていた。
 
阿文「……あ! 先生! 何体置物を買ってるんだ!」
 
阿文はようやく、吽野が仕入れた品に気づいた。
 
吽野「かわいいでしょ。獅子の像だよ」
阿文「似たような置物が不思議堂にもたくさんあるじゃないか」
吽野「しっくりくる感じを探してんの。まだまだ修復には時間かかるからね」
阿文「しっくり? 修復? 一体なんのこと言ってるんだ」
吽野「ん、ナイショ。こっちの話だから、気にしないで」
阿文「怪しい……」
 
吽野のはぐらかしが気になりつつも、
阿文はそれ以上を追求しなかった。

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第四話第一章「虚舟」


◆◆◆◆◆神社◆◆◆◆◆

光のどけき春の日
風に煽られた桜の花びらが、さらさらと音を立てて宙を舞う。
花びらは忙しなく地面に降り積もり
赤い鳥居や、小さな境内社を、白のまだら模様にかえる。
神社には誰もいなかった。
麗かな春の風景を見つめているのは、
鳥居の前の二匹の狛犬だけだ。
右の狛犬は口を大きく開け、
左の狛犬は口を閉じていた。
と、思いきや……

吽行「ふわ〜……」

左の狛犬が、大きな欠伸をしたのだった。

阿行「吽行。人の子が見ていたらどうする」
吽行「居ない、大丈夫だ」
阿行「まったく、石像が欠伸をするな。おかしいだろう」
吽行「阿行はいいな。いつも口を開けていられるのだから。私だって、たまには口を開けたくなる」
阿行「閉じておけ。それがお前の仕事だ」
吽行「ふん……」

苦言を呈された狛犬は不満そうに口を閉じた。

魚売り「ふう、ふう」

神社の階段を、棒手振りの魚売りが息を切らせながら登ってきた。

まずい、と狛犬たちは背筋をいっそう伸ばして、
微動だにしないように努めた。

境内に近づいてきた魚売りは狛犬たちの前で一礼し、
鳥居を潜ってまた礼をする。
それからパンパンと、柏手を打った。

魚売り「神様、今日も河岸で仕入れた魚は、全部売り切れました! 長屋のおかみさんたちも喜んでたし、感謝感謝です」

大きな声で、今日の成果を報告している。
その横で、狛犬たちは男をチラリと横目で見た。
吽行(……またこいつ来たんだな。毎日お参りして、ご苦労なことだ)
阿行(信心深いのはいいことだろ)
吽行(でもさ、毎度賽銭は入れないんだ。昨日のお侍さんはたくさん入れてくれたのに……)
阿行(我々に挨拶するだけマシだと思うが)
吽行(おや……? この男から変な臭いがする。物騒なものをくっつけてきたかな……?)
阿行(吽行、いい加減、静かに。これ以上は人間が去った後で話せばいい)
吽行(はいはいはーい)

魚売り「はあ、どっこいしょ。ここで少し休ませてもらいますよーっと。家帰ったら、ガキとかかあが、ピーチクうるせぇからなぁ……」

魚売りは境内社の階段端に腰掛け、懐から握り飯を取り出した。

黒猫「にゃー」

そこに、小さな黒い猫が一匹、どこからともなく姿を表す。
黒猫は男にジャレついた。

魚売り「よう、野良くん。今日も来たね。そりゃそうか。ここを寝ぐらにしてんだもんな?」
黒猫「にゃー!」
魚売り「わかってるよ、そら、お前の分だ。ありがたく食えよ」

魚売りは桶の中から小魚を摘み上げ、猫の方に放った。
猫はそれを咥えて、男の足元でガツガツと食べ始めた。
呑気な一人と一匹を見守る狛犬たちは、
息を潜めて微動だにしなかった。

そして、魚売りと猫が散り散りになって、
神社が元の静けさを取り戻した頃、

吽行「もうあいつ、行ったかな?」
阿行「ああ、行ったようだ」

狛犬たちはふう、とため息を吐いた。

吽行「我々も、何か食べたいな。お供えはあるか?」
阿行「うーん……今日はないようだ」
吽行「ちぇ……」

文句を言った狛犬は舌打ちをしたのだった。

??? 「阿行、吽行」

境内から、小さな囁き声がした。
その声は、女のような、男のような。鈴を転がす音に似ていた。

阿行「はい、主様」
吽行「いかがしましたか」

狛犬たちはまた、シャキリと背筋を伸ばす。

主人「南から禍々しい気配がするのだ」
吽行「やはり気のせいではなかったのですね」
阿行「海を渡って来たのでしょうか」
主人「かもしれぬ。お前たち、様子を見て来てくれぬか?」
吽行「我々が、ですか?」
阿行「私たちがこの場を離れたら、主様をお守りできなくなります」
主人「問題ない。それよりも、あの気配に近づかれては、この神域が穢れる」
阿行「それはあってはならぬことです」
吽行「わかりました。穢れを遠ざけましょう」
主人「ああ、頼んだぞ」
阿行吽行「御意」

主人の命を受けた阿吽像は、依代である石像から抜け出し、
二人の青年に姿を変えた。


◆◆◆◆◆浜◆◆◆◆◆


阿行と吽行は道中、こそこそと話し合っていた。

阿行「人の世に紛れるのだから、浮いた行動は避けてくれよ」
吽行「私は大丈夫だ。それより、問題は阿行、お前だろう。取り澄ましたふりで、何かとはしゃぐじゃないか」
阿行「そんなことは……私だって人間のフリくらい出来……」
吽行「しっ……! 静かにしろ。人間だ」

松林を抜けた先に、人だかりができていた。
人々の驚く声、恐怖する声が聞こえる。
二人は早速、駆け寄った。

男「なんだあれは? でかい椀のようだ」

漁師と思しき老人が、
愉快そうに、げたげたと笑っている。

老人「椀じゃない。蓋があるから丼鉢だ」


人々が見つめる先には、まさに、丼鉢が転がっていた。
ただし、人が十人は乗り込めそうなほど大きい。
小さな舟くらいの大きさで砂浜に乗り上げている。
しかし、乗り込もうにも、それはとりつく部分が全くない。
表面はツルツルしているし、扉も窓もない。
これが海を浮いて流れ着いたと言うのだから、
相当な浮力があるのだろう。

阿行「吽行、あれから邪気を感じないか」
吽行「ああ。人間には見えてないのかね」

遠巻きに見つめる阿行と吽行はつぶやいた。
漂着物の周りに攻撃的な禍々しい気配。
それは二人の目に黒のモヤとなって映っている。

阿行「妖怪変化か……?」
吽行「うーん、我々だけでは判断できないな。主様ならお分かりだろうが……」
阿行「そうだな。このこと、まずは報告しなければ……」

二人がこそこそと会話をする横を
好奇心旺盛な子供がすり抜けていった。

子供「母ちゃん! 丼鉢の隙間から中が見える!」

子供は躊躇いもなく、どんぶりに近づいて中を覗き込んだ。

子供「なーんも入ってない! 空っぽだ〜!」

子供は嬉々として叫んだ。
母親が慌てて子供の着物を引っ掴み、引き寄せる。
得体のしれない物に無用心に近づいた息子に、
母親は顔面蒼白になっている。

母親「この馬鹿! こっちおいで!」

容赦無く頭を叩かれた子供がワッと泣き出した。
阿行はそれを気の毒に思って、眉根を寄せた。
一方、吽行は子供の言った言葉に首を捻った。

吽行「中が……空っぽだって?」

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第四話第二章「長屋の暮らし」

◆◆◆◆◆長屋◆◆◆◆◆

阿行「ここが長屋と言うものか」
吽行「なんだか手狭だねぇ?」
阿行「四畳半に二人だからなぁ。でも、裏店(うらだな)はここよりも狭いはずだ」

阿行と吽行の二人は、長屋の戸を開け、
そろりと足を踏み入れた。
中は片付いていて、新たに居を構える者を
受け入れる準備は整っているようだ。
備え付けの茶箪笥に空の行李。
箪笥の横には文机、小さな行灯が、
行儀良く寄せられ、並べてあった。

吽行「確か、大屋さんが裏店は九尺二間(くしゃくにけん)と言っていたっけ?江戸長屋ってのは、せせこましいものだ」
阿行「確かにな。いつの間にこんなに立て込んだのやら……」
吽行「人間の住む場所というのは、窮屈だ。こんなところで本当に生活ができるのか?」

吽行は文句を言いつつも、畳の上に腰をおろして、寝転んでみた。

吽行「あ……」
寝転んだ拍子に、茶箪笥の真上、
天井に違い場所に、神棚があるのを、吽行は発見した。

吽行『しまった。ここに神棚があるとは。家の悪口を散々言ってしまったぞ……』

吽行は「ううん!」と咳払いをして
言い訳めいた言葉を付け足した。

吽行「うん……でも、存外、居心地はいい」
阿行「取り繕うなよ」
吽行「へへへ……」
阿行「まあ、しばらくの辛抱だ。主人様の命を遂行するまでの、な」

そう言って阿行は寝転んだ吽行に目配せした。

吽行「そうだね。ま、ぼちぼち、調べていくとするかね〜……」

先ほど、浜で観察した怪異の正体は、未だ不明だ。
異様な気配は感じるが、その場に実態はなかった。
阿行と吽行は、神社に帰るなり
観察したことをつぶさに主人に伝えた。
すると、
『市井の中で暮らし、浜の怪異にまつわる情報を集めろ』
と、神社の主人は二人に命令したのだった。

吽行「主人様も『狛』遣いの荒いことだ」
阿行「文句を言うもんじゃない。我らは神の使い。主人様の言いつけに従うのが仕事だ」
吽行「文句じゃないさ。懸念だよ」
阿行「懸念?」
吽行「だって、人間のフリを長いことしなくちゃいけなくなるんだぞ?」

吽行は眉間に皺を寄せた。

吽行「その上、人間の姿をしている時は、こうして、神通力でもって、頭の中で主人様と会話ができない」
阿行「経過報告はお社に帰ればできる」
吽行「面倒だろう。狛犬の姿なら、いつでもどこでも、口を動かさなくたって会話できるのに。人間は不便だな」

吽行はぶちぶちと文句を言った。
いつものことだと、呆れ顔の阿行は
ふう、とため息を着いた。

その時だった。

長屋の戸が勢いよくガラリと開いた。
間口に立っていた阿行は肩をびくつかせ、
寝転んでいた吽行は体を跳ね上がらせた。

大屋「お兄さんがた、部屋はどうだい?」
阿行「ああ、はい。とても気に入りました」
大屋「そうだろ?」 

扉を開けたのは長屋の大屋であった。
大屋はごま塩頭の四十そこそこの町人だ。
この男、どうみても堅気ではなさそうな
阿行と吽行に怯むこともなく
気さくに話しかけている。

大屋「この一角はな、元は煙管屋のじいさんが使ってたんだ」
吽行「煙管屋? って、あのー……煙吐くやつ?」
大屋「ハハハ! なんだい兄ちゃん、煙草吸ったことないの?」

吽行は、うん、と軽くうなずく。
神社に参拝に来る者が、
時折石段に腰掛けて吸っているのを見たことがあった。
白い煙は独特な香りがして、
吽行は少しその香りが好きであった。
まさか、あの長い管が、こんな場所で売られていたとは。
吽行は興味をそそられた。

大屋「いろんな柄の、綺麗な珍品を集めてたようだよ。まあ、吸いすぎて去年の冬に肺の病でおっちんでな。それ以来空き家だったんだ。ほら、ここ、店賃(たなちん)が高いから。あんたらに店貸(たながし)できてよかったよ〜」

大屋は満足げな笑みを浮かべた。
実の所、この部屋を借りるには少々金がかかる。
普通の長屋の裏店が一〇匁(約一万六千円)のところ、
この部屋は二分二朱(六万円)もするのだ。
しかし、そんなことは阿行も吽行も気にしていない。
二人の主人からは調査にあたって使うようにと、
金子を持たされていたからだ。
その金子の正体は神社の賽銭。布袋いっぱいに詰め込んだそれを、
大屋に見せて、二人は部屋を借りたのだった。

大屋「これからよろしくな! えーと……あんたら、何さん、だっけな?」

名を尋ねられて、二人は顔を見合わせた。
「阿行」に「吽行」など、
人の名前にしては、妙な響きだ。

阿行「あー……えー……私は……」
吽行「私は吽野。こっちは阿文だ」

大屋「ああ、そうかい。よろしくな。吽野さんに、阿文さん」

大屋は丁寧に頭を下げた。

大屋「ところで、あんたらは何の商売をやるんだい?」
阿文「へ? 商売、ですか?」

阿行……今は阿文だが、
彼が素っ頓狂な声を出し、目を丸くしたので、
大屋は笑いながら答えた。

大屋「さっきも言っただろう? この部屋は表店(おもてだな)って言って、日当たりの良い、通りに面した一等地なのよ。ここは商売をやる人が入る場所だ。あんたらも、何某かの商いをここでやりな。じゃないと割りに合わないと思うよ?なんせ、この部屋の店賃は高いからね」

それを聞いていた吽行……今は吽野が、
ふむ、と言って腕組みをした。

吽野「そうしたら、何か考えとくよ。今日の夜にでもね」

今度は大家が不思議そうに首を傾げた。
てっきり商売人の二人だと思っていたのに、
今日の夜に考えるとは?
大屋の顔には言いたいことが書いてあったが、
それ以上は突っ込まなかった。

吽野「ところで大屋さん」
大屋「ん?」
吽野「さっき言ってた煙管って、いったいどこで買えるんだい?」

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第四話第三章「不思議屋」

◆◆◆◆◆人間の暮らし◆◆◆◆◆

阿行と吽行が名を阿文と吽野に改め、
長屋で暮らし始めてから数ヶ月。
阿文は、長屋の一室で二人の少女に囲まれていた。

梅「阿文さん、今日は私の髪を結綿(ゆいわた)じゃなくて銀杏返し(いちょうがえし)で結ってちょうだい」
阿文「わかりました」

阿文は髪結として働いていた。
少女たちは、うっとりとした表情で
彼が髪結道具を取り出す仕草を見つめている。

この少女たちは桜と梅という。武家屋敷の令嬢たちだ。

梅「ねえ、阿文さんの長屋に押しかけちゃってごめんなさいね。怒ってる?」
阿文「いいですよ。梅さんのお宅には、明日伺う予定でしたし」

本来、阿文は「廻り髪結い」と言って、
客の家に通うのが普通だ。
この部屋は髪結床ではない。
ところがこの二人、美丈夫の阿文を気に入って、
部屋に押しかけてきたのだった。

桜「私のところにはいつ来てくれるの?」
阿文「桜さんのお宅には明後日に。旦那様からお母様の髪結いと一緒にお願いされてますよ」
桜「やった! じゃあ、また二日後も阿文さんに会えるのね」
梅「もう! 桜ったら、ずるい!」 

子犬が目の前で喧嘩を始めた。
可愛らしいな、と、阿文は穏やかな気持ちになりつつ、
梅の頭からかんざしを抜き取った。
それから鮮やかな手つきで髪を櫛で梳かした。
最近要領を得たばかりだが、なかなか様になっている。

桜「ねえねえ、阿文さん、あなた怖い話って好き?」
阿文「怖い話ですか?」

少しでも阿文の興味をひきたいと、
桜は話を持ち出した。
連れの髪が結い終わるまで、
桜は手持ちぶさただったのかもしれない。

梅「桜ったら、またあの話をするの?」
桜「いいでしょ別に!」
阿文「いいですよ、聞かせてください」
微笑む阿文は、心の中で「しめた」とひとりごちた。
阿文が髪結になったのも、
女子たちの噂話を当てにしてのことだった。
しかも、『怖い話』や『身の回りの異様な出来事』は
阿文と吽野にとって、もっとも求めている情報である。
阿文は気づかれないように前のめりになった。

桜「この前、浜に上がった、変な形のどんぶりだけど、 阿文さんはもちろん知ってるわよね?」
阿文「ええ。知ってますよ。僕も観に行きましたから」
桜「あれ、私の父上が『虚舟』じゃないか? っておっしゃったの」
阿文「『虚舟』……?」
桜「そう。父曰く『異界からの神』が乗ってきたものなんだって!」
阿文「それ、本当ですか?」
梅「多分本当よ。桜の父上って怪異を探っている学者さんなの」
阿文「へぇ」

有力な情報に心躍っていたのだが、
阿文はあえて、気のない返事をした。

阿文「……ところで、神様ってどんな方なんですか?」
桜「うーん、それはわからない」
阿文「お父上もわからないと?」
桜「ええ。詳しいことは」
阿文「そう……ですか」

阿文が声を落としたことを桜は敏感に感じ取ったようで、
矢継ぎ早に言葉を続けた。

桜「でもね、江戸の街に紛れて生活してるんじゃないかしら? 人間の姿をして……」
梅「もう、そんなことばっかり言って。やめてよ」
阿文「あはは」

阿文は内心でぎくりとした。
まるで自分の正体を言い当てられたように感じた。

阿文「はい、結えましたよ」

阿文は鏡を差し出し、梅に手渡した。

梅「ありがとうっ」

梅は結い上がった髪を確かめて、
右手を頭にかざしながら、うっとりした。

梅「阿文さんて本当に上手ね」
阿文「そうですか?」
桜「いいなー。明後日、私も同じようにしてね? 阿文さん」
阿文「もちろん、そうします」

阿文は有力な情報を教えてくれた二人に、
心の底から感謝し、
満面の笑顔を作った。
その時だった。
ガラリと土間の戸を開けて、吽野が部屋に入ってきた。


吽野「おやおや、ずいぶんモテちゃってますね、阿文クン?」

阿文「ああ、帰ったのか」

阿文が振り返って出迎える。
吽野は後ろ手に戸を閉めた。

桜「あら、貸本屋の吽野さんじゃない」

見知った顔が部屋に入ってきて、
桜は驚きの声をあげた。
吽野は三日と空けずに屋敷に出入りする行商の一人だった。
持ってくる本は屋敷の女中から大人気で、
吽野が来るのを心待ちにしている者も多い。

梅「ええ? 吽野さんは小間物屋でしょ」

今度は梅が驚いた。
同じく、梅の屋敷にも吽野はやってきて、
化粧や薬なんかを売ってくれる。

吽野「どっちも生業にしてるんです」
梅・桜「そうなんですか?」
吽野「ええ。言ってなかったですか?」
桜「ちっとも」
梅「ところで、どうして吽野さんはこちらの部屋に入ってきたの? 二人は知り合い?」
吽野「だってここは俺の家ですし」
梅・桜「ええ!」

梅は手元の鏡を畳に置いて、
吽野と阿文を不思議そうに交互に見た。
吽野はその様子がおかしくて吹き出しそうになった。

桜「二人一緒に住んでいるの?」
吽野「そうですよ、お嬢さんがた」

梅と桜は目を丸くしながら。
また、「ええー!」と叫んだ。
それから、今度は嬉しそうにこ
そこそと話しているようだったが、
阿文と吽野にはよく聞き取れなかった。

桜「ねえ、吽野さん。お化粧の紅がなくなってしまったの。今度売りに来てよ」
吽野「はいはい、喜んで」

目を細めて、吽野は返事した。
それから背負っていた木箱を土間に下ろし、
中から煙管を取り出した。

吽野「はあ、よっこいしょっと」

吽野は緩慢な動作で草履を脱いで畳に這いあがり、
取り出した煙管に火をつけた。
そして、歩いた疲れを癒すために畳に寝っ転がった。

阿文「おい、お客さんの前で、失礼だろう」

阿文は慌てたが、
吽野は二人に臆することもなく意に介さなかった。
ただプカリと煙を燻らせて、
流れるように煙草盆に灰を落とす。

吽野「それじゃあ、お二人さん、俺は今から昼寝をしますから……」

様子を硬直して見守っていた二人に
吽野は張り付いた笑顔を向ける。
さっさと出ていけと言わんばかりだ。

桜「え、ええ、わかったわ」
梅「それじゃあ、また……」

邪険にされたというのに、
二人の表情はどこか嬉しそうであった。
土間の戸を閉めた外側で少女たちは、
キャアキャアと黄色い声をあげている。


吽野「元気だなぁ、あの子ら」
阿文「吽行……気を抜きすぎだぞ」
吽野「阿行だって。お客を部屋にあげないでよ。約束でしょうが」
阿文「それは……すまない」

ふん、と吽野は鼻を鳴らした。

吽野「ところでさ、さっき話してた、『虚舟』の話なんだけど」

吽野が切り出し、阿文は怪訝な顔をする。
ずいぶん前の話題を持ち出して……と言いかけて、

阿文「吽行、もしかしてお前、戸の外で聞き耳を立てていたのか?」
吽野「そうだよ。随分楽しそうだったから、邪魔しちゃ悪いと思ってね」

吽野は拗ねたような口調で煙草盆に煙管を打ちつけた。
そして、身を起こして、阿文に向き直った。

吽野「『異界の神が人間のフリをしている』ってね……俺もその説に同意する」
阿文「ほう? なぜ?」
吽野「最近この近くの長屋で、死んだ人間が生き返ったらしい」
阿文「はぁ?」
吽野「さっき立ち寄った家で噂を聞いたんだ」
阿文「そいつは不思議な話だが……」

阿文の顔は怪訝だった。
それを察して、吽野は続ける。

吽野「まあ聞け。その生き返った人間、元通りの性格ではなかったらしいよ。何やらニタニタ、気持ち悪い笑みを浮かべて、言葉ならざる声を発して……不気味だったらしい。そんで、数日後にはまた死んでしまったんだと」
阿文「なんとも奇妙で薄気味悪い」
吽野「でしょ? しかも、よ〜くみたら、体が腐っていたんだって」

それを聞いた阿文は想像したのか、顔を顰めた。

吽野「でね。俺はさっきの話と合わせて、ピンときた。例の舟で異界の神がこの地にやってきた。けれども、依代がなく、姿形は目に見えない。だからあの時、舟からは気配はするけど誰も乗っていなかった」
阿文「なるほど……」 

阿文は大きく頷いた。
確かに、そう考えれば、辻褄はあうのだ。

阿文「じゃあ、その異界の神っていうのが、この江戸の中で乗り移れる『形代』を探して彷徨っていると……、お前は言いたいんだな」 
吽野「ご明察。この場合の『形代』は、死人とか、人形とかだろうね」

吽野はうーんと唸った。

その時だった。

?「にゃーん」

戸の外で、猫の鳴き声がした。
阿文がいそいそと戸を開ける。
そこには黒い猫がいた。

阿文「あ! お前」

その黒猫は、神社によく顔を出していた猫だった。

阿文「こんなところにも餌を求めてやってきたのか」
黒猫「にゃーん!」

猫は返事をした。それに嬉しくなって、阿文は猫を抱き上げる。

阿文「どうしてここがわかったんだ?」
吽野「単に飯と寝床を探し歩いてるだけだろ」

吽野は忌々しげに、猫をしっしと手で払った。

阿文「どうした、そんな邪険にして……」
吽野「俺、こいつが嫌いなんだよ。この前神社に帰った時、俺の像の足元におしっこひっかけてたんだ!」
阿文「そいつは災難だったな」
吽野「俺は神の遣いなんだぞ! この、怖いもの知らず! 罰当たりめ!」

吽野がムキになると、
猫は敵意を感じ取って歯を剥き出した。
負けじと吽野も威嚇する。

阿文「やれやれ……」

阿文は吽野の子供っぽさにため息をついて、腕の中の猫を撫でた。

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第四話第四章「依代」

◆◆◆◆◆神社◆◆◆◆◆

夕刻、廻り髪結の仕事が終わってから、
阿文は主人の待つ神社へと向かった。

長屋生活で集めた怪異にまつわる情報を報告するためだ。
吽野とは暮れ六に境内の前で待ち合わせている。

阿文 「少し早く着き過ぎたか」

今日は大店の娘たちに話しかけられることもなく、
仕事は早々に終わった。だから、まだ時刻は七つ頃で、
西の空に日が傾き始めたくらいだった。

阿文「吽行が来るまで、社の周りを綺麗に掃除しておくか」

髪結道具を片手に、阿文は境内へ続く石階段を上がっていく。

黒猫 「にゃあん」

ふと、小さな鳴き声に呼び止められた。

阿文 「ああ、なんだ。黒いのか」

阿文は微笑み、身を屈めると、黒猫の頭を撫でる。
黒猫は気持ちよさそうに、ゴロゴロと喉を鳴らした。

阿文 「ふふ。長屋から追いかけてきたのか? 残念ながら、今日は餌は持ってないぞ」
黒猫 「にゃーん」

黒猫は小さく鳴き声をあげると、阿文の少し前を歩き始めた。

阿文 「一緒に主人様のところに行くか?」
黒猫 「にゃあ」

黒猫は振り返って、目を細めて返事をした。


阿文 「さて、箒はどこに置いたかな」


石段を登りきった阿文は、早速自分たちの主人の待つ社に向かった。

ところが、社には奇妙な先客がいた。

何が妙かと言えば、相撲取りのような大きな体に、
大きさの合わない服を着ている。
それが、ひどくうす汚れた風体で、
ぼんやりとした表情で、お参りをするでもなく、
一人で立っている。
その大男は、じっと社を眺めていた。

阿文 (……この異様な気……! まさか)

阿文の横で、黒猫も毛を逆立てた。
けれど大男は、威嚇する猫の声に一瞥もしなかった。

阿文 「もし?」

阿文は声をかけた。しかし、

男 「……」

男が阿文の言葉に反応を示すことはなかった。
その場でゆらゆらと揺れながら、口をだらんと開けたままだ。
日の落ち始めた神社に、男と阿文は二人きりだった。
大男の影が長く伸びてくる。その様子は一層不気味だ。
しばらくして、男は社殿をぐるぐると回り始めた。
何が目的なのか、検討もつかない。
いよいよ阿文は警戒の色を強め、大声で呼びかけた。

阿文 「社に何か用でも?」
男 「……うう、うううう」

地の底から響くようなうめき声。
その恐ろしさに、黒猫は唸り声をあげている。
二人と一匹の間に緊張が走った。

徐に大男は後ずさった。
そして

ドン! 

あろうことか社に体当たりを始めた。

阿文 「な! 何をしているんだ!」

男の奇行に、黒猫は垂直に飛び上がった。
阿文でさえ肩をびくつかせ。一歩後ずさってしまったほど
その威力は凄まじいものだった。
けれど、悠長に眺めている暇はない。
大男の巨体が社の柱をみしみしときしませる。
このままでは社は壊されてしまうだろう。

阿文 「黒いのっ、お前は危ないから離れていろ」

阿文が声をかけると、足元にいた黒猫は聞き分けたように逃げ出していった。

男の巨体が木造の社全体を震わせ、みしみしと揺らす。
阿文は男の大きな二の腕に両腕を回し、必死に引っ張った。
けれども、男はびくともしない。阿文は男に引き摺られていた。


阿文 「この! 何をしようと言うんだっ! 離れろ!」
男 「アウアいいああ」

話しかけども、大男の口からは人語とは程遠い、
理解不能な言葉しか出てこなかった。

阿文 (なぜ、言葉が通じない? こいつは一体何者だ)

その時、縋り付いている男の肌から、なんとも言えぬ異臭を感じた。
それは、獣が腐ったような臭いだった。

阿文 (もしや、先日吽行が言っていた、動く死体……?)

阿文が見上げると、男の目はまさに『死体』とも言うべきほどに、
焦点も合わず、虚に開いていた。
阿文 「くそっ……このままではまずいっ!」

社の中には主人様の依代である、御神体が鎮座している。
御神体は、阿行と吽行が仕える神が、
常世から現世に降臨するためには欠かせないもの。
これがなければ、二人の主人は現世に姿を現すことができない。
万が一、御神体が壊されでもしたら……。
阿文の背に、汗がつたう。
この社を壊し、中に入って荒らすのが目的か。
それとも、盗み出そうとでも言うのか。

阿文 (しかし、この死体の中身が、『異界の神』? そんなの到底信じられない。なんだ、この禍々しさは!)

腕を引っ張られるのが鬱陶しくなった男は、
大きな力で阿文を振り払い、
腰を折って、四つ足で歩き出した。
その姿はまるで突進してくる猪か、牛のようだった。

ドシン! ドシン!

なおも体当たりする大男の勢いは止まらず、
ついに社の格子扉が真っ二つに割れてしまった。

阿文 「やめろ!」
男 「うががが」

男は御神体に触れようとしていた。

主人 「阿行、これは……」

阿文が叫ぶと社の中から不安げに揺れる声がした。

阿文 「問題ありません、今、この阿行が、主人様をお守りいたします!」

阿文は意趣返しとして、渾身の力で男の巨体に体当たりし、突き飛ばす。

男 「アガァ」

情けないような声とともに、よろけた男が尻餅をついた。
そのまま背後の石段を転がった。

阿文 「今のうちに……!」

阿文は壊れた社から御神体の鏡を取り出し、懐にしまった。

ところが。

阿文 「うがアガがが」

男は立ち上がり、今度は、阿文の胸を目掛けて突進を始めた。

阿文 「……やはり、こいつの目的は……!」

その時。
階段を駆け上がってくる足音がした。

吽野 「阿行! 無事か!」

血相を変えて飛んできたのは、吽野だった。
階段の中腹から駆け上がってきたと見えて、ゼエゼエと息を切らせている。

阿文 「吽行、大変なんだ! この男、以前話していた異界の者かもしれない……!」
吽野 「なにぃ!?」

阿文は向かってくる巨体をひらりとかわして、叫んだ。

吽野 「おい、なんで阿行を攻撃しているんだ、そのデカブツは!」
阿文 「私の御神体を狙ってるんだ!」

それを聞いた吽野は目を白黒させて、担いでいた木箱を地面に放り出した。

吽野 「そりゃいかん!」

慌てて加勢しようと、木箱から売り物の和鋏を取り出す。
それを左手に握り、巨体の背中めがけて走っていく。

吽野 「くらえ!」

吽野はおおきく振りかぶった。
刃が男に突き立てられる。
けれども、大男はびくともしないし、痛がりもしない。
それどころか、血すらも流れない。

阿文 「こいつは多分死体なんだ。だから痛みは感じない」
吽野 「ちっ……」

やはり、この体は想像通りの木偶なのか。
吽野が怯んだ隙をつき、男は丸太のような太い腕で吽野を払った。

吽野 「ぐわっ!」

ドカッ!

鈍い音が響く。

吽野は鳥居の外まで吹き飛ばされて、
石像の台座に強かに頭を打ちつけた。
返す手で、男は阿文に殴りかかろうとしたが、
気づけば、その振り上げた腕に、
黒い生き物が噛み付いていた。

それは、どこかに隠れていた黒猫だった。
阿文の危機を救おうと加勢してくれたのだ。

吽野 「おお! あの毛玉……! やるじゃないか」
阿文 「逃げろ! 殺されてしまうぞ!」

黒猫に向かって阿文が言った。
それでも、猫の牙は男の腕を離さなかった。
男は噛みつかれた方の腕を遠慮なく振り回し、
猫は勢いよく投げ飛ばされた。

黒猫 「ギャ!」

阿行の像にぶつかった黒猫は鋭く鳴いた。
それを最後に、だらりと動かなくなってしまった。

阿文 「そんな、嘘だろう」

阿文は走り出した。

吽野 「阿行、何してるんだ!」
阿文 「黒猫を助けないと!」
吽野 「やめろ、放っておけ! あいつはもう助からないっ! 死んでるよ!」

阿文は御神体を抱えたまま猫に駆け寄った。
それを追うように、大男はおぞましい声を上げながら、
阿文についていく。
まるで牛が角突きをするような勢いだ。
猫を救おうとかがんだ阿文に、男は突進していった。
そして……

阿文 「っ……!」

ドガン! ガラガシャ! 

鈍い音があたりに響いた。
男の巨体が、阿行の像の台座に激突し、
その石を真っ二つにした。
台座に乗っていた阿行の像が頭から地面に落ち、
そして粉々に砕けた。

阿文は猫を抱えて、間一髪、地面を転がり
潰されそうになるのを逃れたのだが……

吽野 「阿行!!」

吽野は真っ青になって叫んだ。

阿文 「吽……行……」

猫を抱いていた阿文は、すうと闇に透けて消えた。
消える直前に、懐に抱いていた御神体の鏡と、
失神したままの黒猫が地面に落ちた。

吽野 「そんな……」

吽野は絶句した。
対を成していた、大切な相棒の依代が壊れてしまった。
その衝撃に、頭の中が真っ白になり、
吽野は呆然と立ち尽くしていた。

男 「アガがあ!」

その隙をついて、
大男は地面に落ちた御神体を拾い上げ、歓喜した。
その声に、吽野はようやく正気づいた。

吽野 「待て、御神体を返せ!!」

男が振り替えることはない。
拾った鏡を口に咥えると、四つん這いになって、
恐ろしい速さで闇の中に消えていった。


吽野 「今すぐ追いかけなくては。 持ち去られた御神体には、主人様が……!」
?? 「案ずるな。私はここにいる」


吽野の足元で声がした。

吽野 「えっ?」

見れば、そこには先程の黒猫が、吽野を見上げていた。

主人 「私だ」
吽野 「主人様ですか……?」
主人 「ああ」
吽野 「ど、どうしてその黒猫の中に?」
主人 「依代を変えたのだ。あのままでは連れ去られてしまうから」

それを聞いた吽野はほっと胸を撫で下ろす。

吽野 「ご無事で何よりでございます」

吽野が手を伸ばすと、黒猫はフシャー! と威嚇の声を上げる。

吽野 「ひっ! あ、主人様? なんで威嚇するんですか」
主人 「私ではなく、この猫だ。この依代は間借りしているにすぎない」
吽野 「な、なるほど……その猫、生きていたのですね」
主人 「阿行が力を使って蘇生させたようだ。神通力の通った生き物には憑依しやすい」
吽野 「阿行め、やるじゃないか」
主人 「けれども、そのせいで阿行には隙ができた。おかげで、阿行の像が崩壊した」

吽野は、先ほど粉々になった石を見やる。

吽野 「そ、そうだ! 阿行の姿が先ほどから見えません。どこに行ってしまったんですか」
主人 「依代が粉々であるから、現世で形が保てず、気を失った状態だ。今は私と共にこの猫の中にいる」

吽野 「じゃあ、これからは人間の体に変化はできず猫の姿のままなのですか?」
主人 「いや……一匹の猫の中に、居座ることはできない。この器はこの生き物の依代であるからな」


吽野 「では、依代を失うとどうなってしまうんでしょうか」

黒猫は目を細めた。

主人 「吽行の存在ごと消えてしまう」
吽野 「なっ……! 消える?」

吽野は動揺して、足元の黒猫を思わず抱き抱える。

吽野 「どうにかなりませんか! 主人様!」
主人 「阿行の現世の依代の再建が必要なのだ。その間の時間稼ぎに……吽行、そなた何か持っておらぬのか」
吽野 「な、何かって言われましても……!」

吽野は地面に転がっていた小間物売りの木箱の中を漁った。
引き出しを全部地面に広げて、あれでもない、これでもないと唸る。

吽野 「主人様、これはいかがでしょう」

吽野が取り出したのは、『犬張子』の置物であった。



【第四話 了】

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★第五話はこちら
https://ch.nicovideo.jp/kuroineko/blomaga/ar2149215

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