• このエントリーをはてなブックマークに追加

younghopeさん のコメント

サムソン氏の指摘は、日本人でないから、日本人の特質を的確にとらえている。日本では、右左の思想的対立はあるが、共同生活においては、右左の対立はない。

昨年の障害者殺人事件を思い出すと、日本人の特質がよく表れている。国、県、学園、家族会、家族が一丸となって、事件の全容をつまびらかにする行動を防ごうとしたし、防ごうとしている。防ごうという人に右左対立はない。地域、村社会を右左関係なく、全体で守ろうとする。事件をつまびらかにすると、地域の一体性が保たれないため、真実を追求しようとするマスコミには報道規制をかける始末であった。事件の本質が全く明らかにされないし、明らかにしようとしないのです。明確な隠ぺいです。私は、当時5歳であったが、戦争に突入していった状況も同じなのではないかと考えています。天皇陛下をいただき、政府、官僚、議員から地方組織に至るまで一体化し、家庭内でも反戦的な思想は一切まかりならぬ風土が日本全体を覆いつくしていたのでしょう。だれが悪いというのでなく、日本人のDNAがそうせるのでしょう。総論賛成、各論反対は、如実に現実的対処が、思想信条に優先する民族であることを示しています。
No.1
92ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
サムソン(イギリス大使館員として日本滞在三十年)著『世界史における日本』からの引用。 徳川政権の歴史は近代の影響が日本に及ぶのに抵抗しようとした歴史であったと言っても過言でない。家康をはじめ代々の将軍は日本人の生活を一つの型に固定させ、変化を防止しようと努めました。この試みは非常な決意を持って行われた。 信長と秀吉の建設的事業は中央集権のもとに日本の統一を目指したものでしたが、足利末期および戦国時代の耐え難い混乱ののちであったために一つの救いとして民衆から歓迎されました。家康が最後に覇権を握り、徳川氏は極めて鞏固な独裁を打ち立てることに成功しましたが、これは一部の外様大名が決して心底から協調しなかったのを除いては万人がほとんど感謝して全体主義的政治体制を受け入れた実例でもあります。 ・徳川時代の日本政治において宗教は小さな役割しか演じなかったが、それは私のいわゆる新興諸学派(特に一向宗
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。