フレデイ タンさん のコメント
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サムソン(イギリス大使館員として日本滞在三十年)著『世界史における日本』からの引用。
徳川政権の歴史は近代の影響が日本に及ぶのに抵抗しようとした歴史であったと言っても過言でない。家康をはじめ代々の将軍は日本人の生活を一つの型に固定させ、変化を防止しようと努めました。この試みは非常な決意を持って行われた。
信長と秀吉の建設的事業は中央集権のもとに日本の統一を目指したものでしたが、足利末期および戦国時代の耐え難い混乱ののちであったために一つの救いとして民衆から歓迎されました。家康が最後に覇権を握り、徳川氏は極めて鞏固な独裁を打ち立てることに成功しましたが、これは一部の外様大名が決して心底から協調しなかったのを除いては万人がほとんど感謝して全体主義的政治体制を受け入れた実例でもあります。
・徳川時代の日本政治において宗教は小さな役割しか演じなかったが、それは私のいわゆる新興諸学派(特に一向宗
サムソン氏は辛辣に過ぎるのではないかと私は思います。徳川家康は戦乱に明け暮れる日本に欣求浄土を旗印に戦い平和をもたらした。その前の豊臣秀吉に至っては朝鮮半島を植民地にしようとしたことで韓国では野蛮極まりない侵略者として歴史に記されています。京都に今も残る耳塚は朝鮮人の耳を切り取って塩漬けにして持ち帰れば秀吉からその数をもってボーナスをいただいたという事実を語っています。徳川家康は朝鮮中国と絶対的友好関係を結び平和を維持し、スペインポルトガルの卑しい植民地主義を排除し、日本への領土的野心が薄いオランダと通商関係を結んでいるのです。家康はしっかり主権を守ることと平和維持に腐心しています。
確かに江戸時代はデカルトやスピノザを生みだすことは出来なかったが、そのずっと以前に日本は日蓮、法然、親鸞、道元を生みだしました。明治維新以降の日本は西洋文明文化を輸入し国を挙げて周辺諸国に帝国主義的侵略を行い完敗した。その反省もなく今また西側文明の髄の部分に強く後押しされ官民一体となって周辺諸国への拡大志向に転じて来たのは一体どういう了見に基づくものでしょうか。その了見が日本固有のものでなく西側と調和したものだからこそ問わるべき課題ではないでしょうか。
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