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フレデイ タンさん のコメント

>>6
続き
1.徳川時代では平和と秩序(身分制度)が権力のメインテーマであって、身分を弁えて行動する限りかなりの自由があったのではないでしょうか。この傾向は日本独特のものではなく、お隣の国の朝鮮王朝もそうだし、清国も同じような傾向を示しています。徳川時代に於いて「万人が感謝して全体主義体制を受け入れた」わけではないと私は考えるのです。更に言えば、徳川時代は海外拡張政策を忌み嫌っていますので、挙国一致の全体主義とは無縁だったのです。
2.当時のことを学者は幕藩体制と呼んでいます。それは清国や朝鮮王朝のような絶対王政ではありません。西ヨーロッパに似通った体制だと私は考えています。つまり、大君主国が周辺の小王国を管理しているように徳川幕府が親藩から外様まで大中小綯交ぜに実に巧妙に管理支配しているのです。

イギリスの歴史を細かく知りませんのでイギリスについて言えませんが、他のどこの国でも独裁政権が出来上がれば古今東西一般大衆は従順になるのではないでしょうか。
No.7
93ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
G.B.サンソムは 1904 年に駐日英国大使館に配属。以降 1941 年までの 35 年間日本勤務。コロンビア大学東アジア研究所の初代の所長。『世界史における日本』(岩波新書、 1951 年よりの抜粋。 徳川政権の歴史は近代の影響が日本に及ぶのに抵抗しようとした歴史であったと言っても過言でない。家康をはじめ代々の将軍は日本人の生活を一つの型に固定させ、変化を防止しようと努めました。この試みは非常な決意を持って行われた。 信長と秀吉の建設的事業は中央集権のもとに日本の統一を目指したものでしたが、足利末期および戦国時代の耐え難い混乱ののちであったために一つの救いとして民衆から歓迎されました。家康が最後に覇権を握り、徳川氏は極めて鞏固な独裁を打ち立てることに成功しましたが、これは一部の外様大名が決して心底から協調しなかったのを除いては万人がほとんど感謝して全体主義的政治体制を受け入れた実例でもあり
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。