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りゃんさん のコメント

クイーンは母がファンでコンサートに行ったこともあるみたいだが、
わたしはさして興味がなかった。
しかし、今回の孫崎さんの記述でフレディ・マーキュリーの両親が
パールシーであることをはじめて知って、俄然、興味がわいてきた。

ゾロアスター教は非常に古い時代からペルシャ界隈でさかえ、
揺籃期のユダヤ教に影響をあたえ、ユダヤ教を通じてキリスト教やイスラム教、
はてはマルクス主義にも影響を与えている?というすごい宗教で、
地理的にもシルクロードをへて朝鮮半島までは痕跡が確認されているらしい。
日本への影響は不明だが、東大寺のお水取り儀式との関連をいう向きもある。

ササン朝滅亡後、ゾロアスター教も衰退し、現代ではゾロアスター教徒の実数は
とても少ないが、ササン朝滅亡のころにインドにわたり、パールシー(=ペルシャ)
と呼ばれながら、現地人との婚姻はせずにもともとの集団を維持しつつ、
細々とゾロアスター教信仰を続けたひとびとがいる。

パールシーは、イギリスのインド支配のときに世界史にあらわれる。イギリスが
インドを支配するにあたり、手先として優遇したからだ。たとえば、中国との
アヘン貿易にもパールシーがかかわったといわれている。
手先とした理由はひとつではないだろうが、パールシーの肌の色が純血を守ってきたので、
白人と同様であったことが大きな理由であったともいわれる。

その結果、パールシーはインドで財力をたくわえ、現代でも知的にも金銭的にも
富裕な階層をインドで形成している(たとえばタタ財閥)。

ここからはわたしの想像をまじえて書くが(ただしフレディ・マーキュリーであれば、この程度のこと、
あるいはもっと詳しく正確なことが、すでに語られていることだろう)、

フレディ・マーキュリー自身もその両親も、イギリス支配下のザンジバルで
支配層の一員として裕福な暮らしをしていたのであろう。しかし革命がおき、
両親はイングランドに移り、「郊外住宅の使用人」となった。裕福とはいかなかっただろう。
ましてフレディ・マーキュリーには一般とは違う性的嗜好があった。
どこにも帰属意識を感じられなかったのではなかろうか(ボヘミアン)。

そういう自意識のなかからつくられた音楽が、時代性のなかで、欧米や日本で広く受け入れられていった。

おおげさにいえば、ゾロアスター教とイギリスのインド支配がなければ、クイーンはなかった。
世界史の不思議なめぐり合わせを感じる。
No.3
71ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
1 月 6 日、第 76 回ゴールデン・グローブ賞授賞式が米ロサンゼルスで行われ、クイーンのボーカルであるフレディ・マーキュリーの半生を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』が作品賞(ドラマ)に輝き、主演のラミ・マレックが男優賞(ドラマ)を受賞した。 2019 年 1 月 7 日現在、全米で 1 億 9300 万ドル、全世界で 7 億 4300 万ドルの興行成績となっている。 改めて、クイーンの魅力に触れる結果となった。 ボーカル・フレディ・マーキュリーの歌の魅力でもある。 フレディは、当時イギリスの保護国だった、タンザニアにあるザンジバル島で生まれた。インド生まれの両親は、ペルシャ系インド人でゾロアスター教徒であるパールシー。フレディは、インドで幼少期の大半を過ごした。 1963 年にザンジバルに戻り家族と一緒に暮らし始めたが、その翌年ザンジバル革命が起こり、アラブ人とインド人の多数の死傷者が出た。当時 17 才
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。