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フレデイ タンさん のコメント

「社会が全体的になればなるほど、精神も物化され、自発的に物化を振り払う精神の企ては逆説的になる。悪運に関するどんな極端な意識でも饒舌に堕する恐れがある。文化批判は文化と野蛮との弁証法の最後段階に直面している。すなわち、アウシュビッツの後で詩など書くことは野蛮であり、そしてそのことが、なぜ今日詩を書くことが不可能となったかを述べる認識をも蝕む。批判的精神は、己れ自らに固執して自己満足的な観相に耽る限り、精神の進歩をおのが要素の一つと仮定してそれを今日まさにしっかり吸収している絶対的物化にはかなわないのである」この一節はテオドーア・W・アドルノの論文「文化批判と社会」の結びなんです。

大江健三郎氏は3.11がアウシュビッツだと認定し、創作活動を止めて安倍打倒運動に身を挺しています。私は大江氏の決断は素晴らしいと思います。ただ、私はアドルノのこの結びの意味が正直よく分かりません。ヒトラーの迫害を逃れ米国に亡命し戦後ドイツに戻り文化批判を始めたアドルノにはヒトラーが育った文化地盤と同一の地盤に自分が所属し、居たという忸怩たる思いがそのような結びの言葉を紡がせたのでしょうか。

凡人の私は3.11はアウシュビッツではないと思います。アウシュビッツは今のままだと間違いなくこれからやってくる。日本で野蛮を追い詰める文化活動が益々旺盛になり、その結果、安倍たちの野蛮性の存在意義が限りなく希薄化していくことが期待される次第です。
No.2
112ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
  ・「歩いてきみははじまった」  ヒトは歩きながら自分を作ってきた。種としてのヒトがそうだし、個人としてのぼくもそうだった。歩けば歩くほど、身も心も削れてくる。その削れた跡がヒトとぼくを造形し、ヒトもぼくも地球のさまざまな土地になじんできたのだと思う。ヒトがどうはじまったかはぼくは覚えていないがアフリカの熱帯雨林から草原への進出がその背後にあったとすれば、森の枝から手を放し草原に立ち上がったときヒトはヒトとなった。歩くという癖も、遠くを見る癖も、そのときついた。視覚も筋肉もそれで鍛えられた。そして莫大な情報を得るようになり地平線があればそれをめざすようになった。未来があれば歩いてゆくようになった。一緒に歩きませんか。   ・時の幹、樹木』 1  種子が発芽を決意する  そのときからもう植物は移動しない  いま決めたそのおなじひとつの地点で  灰色の風が吹くときも  まる
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。