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「穴祭り 第2話」 斎藤雄一郎
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「穴祭り 第2話」 斎藤雄一郎

2012-11-28 12:54
    週末の昼下がり。今、僕は自分の部屋で煙草をくわえながら、一点を見つめて、物思いに耽っている。神奈川は川崎の親元を離れ、ここ、東京練馬の2階建ての木造安アパートに暮らし始めて、早7年。その間、会社以外に人の繋がりなど一切なく、当然異性との付き合いもゼロ、私生活の大半がゲーム、漫画、流行りの大作映画、バラエティ番組といったお手軽エンターテイメントと、無料エロ動画サイトを覗くことに費やされた。思えば、ずいぶん時と金を無駄にして来たものだ。それでも何不自由なく暮らせるこの社会に、感謝しているが、それもいつまで続くものなのか、先は見えない。
     「こんなこと、はっきり意識したことはなかったなあ。」
     独りごちる僕の目の先には、暗い大きな穴がある。2DKの我が家で、居間として使っている部屋の真ん中に空いているこの穴は、見つけた時は、直径20cmほどだったが、日に日に大きくなり、3ヶ月たった今では1.5mまで広がった。中は暗く、深さは不明。一度測ろうとしたが、50mの巻き尺でも足りなかった。そして、やすりで丁寧に削ったように滑らかな穴の淵に手をかけ、反対側の腕を中へ伸ばすと、冷んやりと心地好く、側面をこすると黒い煤のようなものが付き、嗅ぐと、コーヒーの香りがして、舐めるとあんこのように甘かった。
     ここは2階なのだが、怒りっぽい1階の住人から文句を言われたことは無く、おそらくこの穴は下に繋がっていないようで、明らかに不自然なのだが、あまり気にならない。
     何故なら、これはただの穴ではないからだ。この穴は不思議なことに、見る人の、心の奥底に眠っている、もしくは眠らせている、ある感覚を呼び起こすことがあるのだ。
     例えば僕、田中正一は、この穴を見つめていると、とても気持ちがフラットになる。僕はもともと感情が薄く、喜怒哀楽が表に出ることは少なかったが、友達知人との会話では、気を遣って、会話の温度を落とさない程度に笑ったり、ふざけたりといったリアクションはするようにしていた。特に無理をしている意識はなく、いつの間にか身に付いた癖だったが、そうすることで、割と心は沈みがちだったし、時々イライラしたりもした。
     それがこの穴をぼんやり眺めていると、だんだんそういったことが一緒くたに溶けていって、薄まりならされ、つまり、どうでもよくなって、もともとの感情の薄い自分というものが表に顔を出してくる。おかげで、通常の思考が驚くほどクリアかつ冷静になり、本来の自分に戻れたような清々しさが感じられた。
     他の人が、どう感じるか試したくなり、初めにこれを見せたのが、会社の同僚の冷静美人、片桐早苗だ。彼女は、性的に興奮して信じ難い敏感さで、ナニするわけでもなく、優しく撫でただけで、何度も絶頂に達してしまった。煤はメロンの香りだと言った。次に見せたのが、大学で同じ漫研だったシャイボーイ、富田ヤギ。奴は、ひた隠しにしていた少年漫画の創作意欲を、一緒にいた僕ら漫研の仲間の目の前で大爆発させた。いずれも感動的としか、言いようの無い反応だった。だが、みんながみんなこういう反応を示すかと言うと、そうでもないことも確認している。ヤギと一緒にきた他の漫研の仲間は、すぐに興味を失い、酒を飲んでいた。
     これまでの出来事を思い返すと、何となく穴に特別な反応を示す人間の、共通項が見えてきた気がするが、まだ結論を出すには早い。僕は、さらに多くの人にこの穴を見せたいと思っている。
     と、急に旧式のインターホンの硬い電子音に小突かれた。なぜか一瞬、片桐早苗の顔がよぎったが、宅配便だった。穴が広がり、手狭になった居間のテーブルを、今より一回り小さいものにしようと、通販サイトで注文したことを思い出す。それでもそれなりに大きい荷物を、2階まで運んできた宅配員は、呼吸が荒かった。僕は軽くお礼を言って、伝票にサインをし、宅配員に返そうとしたが、宅配員は、受け取ろうとせず、部屋の穴を呆然と見つめている。僕は何も言えなかった。そう言えば、予備知識が無い見知らぬ人に穴を見せた時の対応を考えていなかった。
     「何ですか?これ」
     「いや、何というか、その、急に空いちゃって...。」
     「急に?地震ですか?」
     「そうではないんですけど、僕も良く分からなくて...。」
     「下の人は、大丈夫なんですか?」
     「それが、下からは見えないらしくて。」
    ここまでで頭がおかしいと思われてもおかしくないが、宅配員は、興味を持ったらしく、近くで見たいというので、ちょっとした期待を持ちながら、部屋に上がってもらった。この男、よく見ると、背が高く、筋骨隆々としている。男としては背が低い僕からは、見上げるようにしないと、ちゃんと合わせることができない目は、細く鋭く、鼻は四角い。唇は薄く、耳がやけに小さい。一見するとサディスティックな格闘家のようだが、耳にかかるくらいの長さの、ふさふさした髪の毛だけは、よく手入れがされているようで艶っぽく、ちぐはぐな印象を受けた。名札には 「佐藤賢一」とある。男は、予想外に真っ暗な穴の奥をじっと見つめ、
     「これは、確かに...。」
     「うーん、しかしいったい」
    などと一人つぶやいている。終いには穴に向かって大声をあげたが、何の反響も無いことを確認してから、(これは僕には思いつかなかったテストだ。)じっと黙ってしまった。まだ呼吸は整っていないようで、フーフー言って少し不気味だ。やがてブルブルと震えだす。ただ、片桐早苗の時とは違い、怒っているような感じだった。
     「...そんな馬鹿な。なぜこんなものが...。」
    こちらを向き、
     「田中さん、これはいったい何なんですか?」
    無実の僕は、この強面の男に、やけに厳しく問いただされてしまった。
     この男が言うには、科学的理論とは、実験や観察によって例外があることを証明される可能性がなくてはならず、それらの方法によって、未だ例外が見つかったり、理論に間違いがあると、証明されていないものだけが正しいとする考え方があるそうだ。簡単に言えば 「明日、太陽が東から昇る」ことは、未だに 「明日、太陽が東から昇らない」ことが観測されていないから、正しいことになるということらしい。だから、 「2階の床に、床板の厚さを超える穴が開いても、同じ位置の1階の天井に影響は無い。」ことは、その反対が観測可能であり、あるはずがないということになる。それを無理やりあると言い張れば、それは単なる疑似科学、いわゆる 「トンデモ科学」にしかならない。
     聞くと、彼は理科系では名の通ったR大学出身だそうで、なるほど、詳しい訳だ。しかしこの穴は、実際に目の前に存在している。しかも、ここは怪しげな新興宗教の本部や、自称霊能力者の家でもなく、偶然、宅配荷物を届けたお客の部屋で、招かれたわけでもない。僕が佐藤を騙す必要が全く無いのだ。どうやら彼は、そこまで考えが行き着いていても、まだ認めることができないようだ。
     僕は、文系だからなのか、ゆるいからなのか、理屈を優先して、目の前の真実を認めることをためらう気持ちが分からなかった。
     「許せない、許せない...。」
    佐藤賢一は出て行ってしまった。彼はいったい何がそんなに許せなかったのだろうか?と考えていたら、彼は、彼個人のものと思われる、黒い大きなボストンバッグを抱えて戻ってきた。そして厳しい表情で、きつい視線を穴に向けたまま、抱えたバッグを開けて、ひっくり返した。ごつい見た目のカバンからは想像できなかった、華やかな模様や色が溢れ出す。それは、女物の衣服だった。きらびやかな装飾品もいくつかある。
     その脇に、宅配員のユニフォームが叩きつけられた。見ると、佐藤賢一は全裸だった。大きく目を剥き、息遣いが荒い。彼は、カバンの中身に手を伸ばし、それを身に纏い始めた。細かい小物も、慣れた手つきで器用に身につけ、着替えはすぐに終わった。
     髪にはウィッグを付けて頬骨を隠し、長袖でフリフリが付いた丈の長い真っ赤なワンピースは、ゆったりとしていて、肌や体のラインはすっかり隠れている。なるほど、この格好であれば、僕のような中肉中背の男でも、遠目から見れば女に見えないこともないが、長身で胸板が厚く、怒り肩で、脂汗をかきながら、凄い形相で仁王立ちしている佐藤には、お世辞にも似合うとは言い難い。
     それから彼は、辛そうとも、感極まったともとれるような嗚咽をもらし始めた。
     「大丈夫ですか?」
    唐突すぎて、それくらいしか、かける言葉が見つからない。
     「すみません、普通こんな姿をお見せするなんて、あってはならないのですが、この穴を見たら、どうしようもない衝動が...」
     「衝動...あなたは女装に興味があるんですね?」
     「興味などというものではありません。実を言うと、家に一人でいる時は、これが普段着なんです。」
     「何故なんでしょうか?どうして、あなたは好んで女性の服を着るのでしょうか?」
     「私は...女になりたいんです。」
     「それは、気持ちだけの話ですか?」
     「まさかそんな!私は美しい顔が欲しいですし、つんと乳首のたった、形の良いバスト、柔らかなヒップだって欲しい。そして、いく人もの男を手玉に取りながら、誰に縛られるでもなく、かと言って、冷たくあしらうこともせず、愛で包んであげながらも、勝手気まま、自由そのもの。そんな愛と美と気高さと少々のズルさを兼ね備えた、女の中の女として、私は生きてみたいんです!」
    女性を恋愛対象程度にしか見てこなかった僕の人生では、にわかには追いつけない領域に彼はいた。
     とにかく、一息つかせなければと、コーヒーブレークを提案し、彼はお辞儀で答えた。僕が湯を沸かす間、彼は穴の前に座り込んでいる。時折、嗚咽を漏らしもしていたが、いつの間にか静かになり、チラ見すると彼は、ぼっとした無表情で、一心に穴の奥底を見つめ続けているようだった。
     コーヒーの香りというのは、やさしく心の緊張をほぐしてくれる。それがインスタントコーヒーであったとしてもだ。僕は2つのマグカップにコーヒーを淹れ、片方を佐藤賢一に渡してから、並んで座り、同じように穴を眺めながらコーヒーをすすった。穴から吹く、同じ香りの心地好い風が顔にあたる。佐藤は、この穴から沢庵の香りがしますね、と言ってから、乙女の仕草でマグカップを両手ではさみ、ポツリポツリと自分の過去を話し始めた。
     「物心ついた時から、私の女性への思いは、他の子と違っていたような気がします。私は女の子を好きになることがなかった。好きになるよりも、憧れてしまって。特におしゃれな格好をしている子をみると、目を離すことができなくて、よく勘違いされました。だから、私もこれが好きという気持ちなのだと思い込んでいましたが、思春期に入って、周りがエロ本やAVなんか見るようになると、もう全然違うんですよ。
     友達はみんな、女性が服を脱ぐと興奮するのに、私は、その逆なんです。せっかく綺麗なのに、脱げばやることなんて、みんな同じだし、ああいうのに出るキャラや女優って、やけに男に媚びたふりをするじゃないですか。それをみると、もうそこで冷めてしまって。服フェチなんてからかわれましたが、そういうのとも違うんですよね。
     そして、高校もそろそろ卒業という時に、風の谷のナウシカを読んだのですが、ナウシカが美しくてかっこ良くて、憧れてしまい、本気でこんな人になりたい、と思ってしまったのです。その時、気づきました。ああ、自分は女になりたかったんだと。それからです。人目をはばかりながら女性の服を着たり、化粧をするようになったのは。ナウシカの服なんて自分で作ったんですよ!手先は割と器用なんです。」
     「それでR大には?」
     「はい、それまで文系に進んでいたのですが、一念発起で一浪して物理学科に。」
     「すごいですね。でもなぜ?」
     「...メーヴェを作りたくて。」
     「...。」
     それから先はこうだ。佐藤賢一は元来冷静で、理論を貴び、整然とした理屈や方程式に美しさを感じることができる感性を持っていたようで、物理学を学ぶ資質が高く、夢中になって勉強し、成績も優秀だった。
     だが、だからこそ、メーヴェを作るなんて夢物語であるということに気づくのも早く、すぐに諦めたが、それは女装癖のエスカレートに繋がってしまった。
     さすがにそんな自分に対して、不安を感じた佐藤は、さらに物理学にのめり込むようになった。この世の現象が、数式で美しく表現されている様に胸を震わせている間、不毛な嗜好への想いを忘れることができたからだ。
     しかし、それも長くは続かず、彼はいつの間にか、また女装をするようになっていた。思いつきの夢とは違い、生来の性向は変えようがなかったのかもしれない。
     やがて、佐藤はR大卒業を迎えた。研究者の道を何度も薦められたが、すでに女装が彼の生活の主体となっていて、アマチュアの女装クラブに通ったり、女物の服を買い漁ったりして、生活費にも困るようになっていたため、頑強な肉体を活かせる宅配業に就職し、周囲を多いに落胆させた。
     どうやらこの男は、感情によらず、冷静かつ合理的に、自分の性質を分析して、どうすることが最善なのか具体的にイメージし、実現するための方法を選択することができる、賢く、意志の強い男のようだ。でもそれが、男なのに女の姿、いや、女そのものに憧れ、美しい女になりたいという、永遠に満たされることの無い欲求を追求するためだけに、研究者の道を捨て、肉体労働に励むという、誰が見ても惜しいと思うような、不合理な選択をするのだから、なんとも混沌とした存在だ。
     「そして、あなたは最後、どうなりたいと考えているのですか?」
     「...私は女装したまま、微笑みのラテン男に優しく抱かれ、その腕の中で絶頂に達し、果てたいのです...。」
    すばらしい。
     「しかし、それだって、叶うことの無い夢だということは、良く分かっています。だから、私は陽のあたらない世界でひっそりと生きていこうと決意し、同じ趣味趣向を持つ人間以外には、決してこんな姿を見せまいと気をつけてきたのに、この穴を見た瞬間、理性が吹き飛んでしまったのです!いったいこの穴は、この穴は...なんなんだ!!」
    佐藤は、またもや興奮しだした。そして、穴の淵に手をかけ、顔を突っ込み、怒っているのか泣いているのか、よく聞き取れない悲鳴に近い言葉と感情を、涙、鼻汁、汗と共に穴の中に注ぎ込むのだった。
     かと思うと、ふいに、
     「...この穴の側面は水分を一切吸収しないようですね。」
    と、冷静な観察は怠らないでいる。本当に面白い男だ。
     それから、急に立ち上がり、難しい顔をして、僕の前に立った。
     「田中さん、実際こんな姿を見て、あなたはどう思いますか?」
     「そうですね、正直言って似合うとは言い難い。」
    佐藤は、苦笑う。
     「はっきり言いますね。」
     「仕方ないですよ、本人がそう思っているんですから。」
     「...。」
     「佐藤さん、ですよね?あなたは、強い意志の力を持っている。どれだけ不合理と分かっていても、姿を女に似せる行為を続けられるくらいですから。でも、女装をする自分を愛することが、できていないんじゃないですか?だから、自分に自信が持てないでいる。そんな自信のない姿では、何を着たって似合うはずがないじゃないですか。」
    我ながらいいことを言った。佐藤の細い目はみるみる潤んでいき、水の線のようになっていく。
     「でも今日、あなたは生まれて初めて陽のあたる場所で、その姿を晒すことができた。良かったじゃないですか、もう怖いものなんてないでしょう?今の世の中、よっぽどおかしな格好でもしなけりゃ、そのうち周りも見慣れてしまいますって。」
     「じゃあ私のこの姿は、そこまで変ではないと?」
     「そうですねぇ、よっぽどのちょっと斜め上辺り、ギリギリアウトくらいですよ!大したこと無いっすから。」
     「な、なんですかそれ!?」
    そう言いながら、佐藤は笑った。なかなか人懐っこい、いい笑顔だ。
     「あ、笑うとやばいっす。笑うと危険。」
     「も~、ひどいなあ!」
    何だか、打ち解けてしまった。お互い冷静なものだから、前提を認識した上で、あえてそこをつつくやり取りが理解できて、嬉しかった。案外、馬が合うのかもしれない。
     佐藤は、すっかり気を取り直したようで、部屋の隅に立てかけている、全身鏡の前でポーズまで取り出し、うーんここがなあ、とか、ここはもっと、とか言っている。自分の家や、会員クラブという、狭い囲いの中でしか見せなかった姿なのだろう。
     と、そこでインターホンが鳴った。今度は片桐早苗だった。ドアを開けても、恥ずかしそうにうつむいて立っている。これはまた、面白いタイミングで来たものだと思ったが、さあどうぞというのも何なので、そのままにしていると、
     「...取り込み中?」
     「そうでもないけど。」
     「あの、あれをまた見せてもらいたくて...。」
    と消え入りそうな声で言った。僕は、佐藤賢一と片桐早苗を引き合わせることで、どんな反応が起こるのか、期待を表情に出さないように気をつけながら、彼女を部屋へ招き入れた。
     部屋に上がると、彼女は黒のバッグを玄関の脇において、佐藤には目もくれず、穴の前に座り、じっと見つめだした。今日は、白いタンクトップに、薄い生地の丈の短い、真っ黒なスカートという涼しげな格好をしている。
     佐藤は、まだ完全に吹っ切れたわけではないようで、突然の訪問者に怯えたような表情をした後、そわそわしながら、上がることを許した僕を、睨んだりしていた。
     そんなことに一切構わず、じっと穴を見つめていた片桐早苗は、だんだん落ち着き無く体をくねらせ、湿った吐息を漏らし始めた。やはり、性的な感覚がうずくようだった。
     「ねえ、水桶持ってる?」
     「はい?」
     「...ないわよね、じゃあバケツ!なんでもいいわ、水を貯められるものってないの?」
    何のことか分からず、言われるままに、掃除に使うバケツを洗って、水を貯めて渡してやると片桐早苗は、そのバケツを両手でゆっくりと持ち上げ、胸の前で両腕で抱き、一息ついてから、額の高さまで持ち上げて、静かに深呼吸した後、そのバケツを自分の側へ傾けた。躊躇はなかった。だが、荒々しくもなく、擬音で表現すると、ざばーではないし、びちゃーでもない、サラーっという感じで、彼女の頭から水が注がれた。
     「ああ...いい...」
    濡れた長い黒髪が白いタンクトップの上に艶めかしく張り付き、前髪、鼻の頭、唇、顎、耳、胸、体のありとあらゆる突起部分から水滴が垂れて、また彼女の肌に落ちていく。その度に彼女の体が可憐に弾み、震える。
     穴を見たせいで、敏感になりすぎた片桐早苗の肢体は、水がかかる刺激でさえも、濃厚な愛撫になってしまうのか。
     「すごい...。」
    僕は、目を逸らすことができなかった。
     「ねえ、お願い!もっとちょうだい...」
    僕は急いで次の水を汲みに行った。
     その後、片桐早苗はいく度も水を被り、数回目から、絶頂を迎え続けていたように見えた。床に落ちた水は、彼女の愛液とともに、さっきまで佐藤の怒りと悲しみにまみれた唾と涙と汗を飲み込んだ穴に流れ込み、暗い闇の底に細糸のような滝となって、軽やかに消えていくのだった。
     自慰行為を、ここまで美しい光景に昇華させた片桐早苗の感性に圧倒された僕は、もはやポルノを超えたと思うしかなかった。
     その時、佐藤が絶叫した。この行為の間、佐藤は大きく目を剥き、片桐早苗の水姿から、ずっと目を離せないまま、拳を何度も床に打ち付け、強く食いしばる口の端からは、血交じりの唾液がクリーム状になって泡を吹いていた。
     「畜生、畜生、畜生ぉぉぉぉぉ!!!なんだってんだ?俺にどうしろって言うんだよ!?」
    何事も客観視して、冷静かつ合理的に分析できる男だ、こんないかつい自分の女装姿が、どれだけ世間に受け容れられないか、良く分かっていたことだろうそれでも、理想を追い求めるが故、何処かで無理やりにでも現実から目を背け続けた。その心痛と孤独感は、大変なものだったに違いない。
     それが今日、この穴という、科学の常識を打ち破る存在に出会い、もしかしたら、自分の甘美な夢もいつか叶うのではと、希望と自信を取り戻しかけた矢先に、片桐早苗に完璧な女性を見せつけられ、一気に奈落に突き落とされてしまった。そのショックは、大きく佐藤賢一のアイデンティティを揺らがせたことだろう。なんと可哀そうなことか!
     気が付くと佐藤は、衣服を脱ぎ捨てていた。
     「もう終わりだ。」
    佐藤は全裸のまま片桐早苗に、にじり寄っていく。眼はらんらんと輝き、獲物を狙うような獰猛さを放つ。まさか、彼は反動から男性に目覚めたのか?
    片桐早苗は、絶頂に達して、穴のそばにうつむいてへたり込んだまま、体を震わせ、肩で息をするしかできないでいる。そして佐藤の下半身は絶望的なまでに、激しく勃起していた。
     が、突然、佐藤賢一は、彼から見ると片桐早苗の背後にある穴を凝視し、そのまま動けなくなった。
     「そうだ!諦めちゃダメだ!」
    僕は、佐藤の葛藤を応援した。
     「う、うおおおお!!」
    しかし彼は、何かを振り払うかのように、腕を闇雲に振り回しながら、再び前進を始めた。だめか、そう思われた時、片桐早苗が顔を上げた。
     上気した、だが、あどけない、桃色の少女のような笑顔が、暗い穴を背後にくっきりと浮かび上がる。佐藤が、まぶしそうに顔を背けたその瞬間、彼目掛けて、強い風が穴から吹き出した。風は竜巻のように渦巻き、それに絡むように、透明な液体までもが吹き出てきて、その威力で、佐藤は弾き飛ばされた。
     僕は、あっけに取られ、宙に浮いた巨漢が、テーブルに激突する様を眺めるしかなかった。それは、本当に一瞬だったが、轟音と共に吹き出た液体の水量は、さっきまで佐藤賢一が注いだ諸々の体液、片桐早苗が流し込んだ水と愛液を合わせても、それを明らかに超えていて、僕の部屋を水浸しにし、また元の穴に流れ込んでいく。ありがたいことに、サラサラで臭いは無い。
     しばらく水の流れる音と、その流れがあたって、柔らかな刺激にくぅんくぅんと小さく喘ぐ、片桐早苗の声だけが、部屋を支配した。僕が佐藤を助け起こそうとすると、彼はそれを手で制止し、よろめきながら起き上がり、しばらく無言で穴を見つめてから、来た時の宅配員の格好に戻り、空のボストンバッグを抱え、仕事があるからと出て行ってしまった。
     無表情をしていて、何を考えているか良く分からなかったが、それまでの複雑な感情は、消えていたように感じられた。
     水が引いてから、僕は佐藤が配達してきたテーブルを開封し、組み立てた。交換するつもりだった、これより一回り大きい元のテーブルは、佐藤が激突して、足が折れてしまったし、穴が大きくなって手狭になった部屋に新しいテーブルは、ぴったりなサイズだった。
     何か、色々なことに繋がりを感じられて、僕はわくわくしていた。やはり最初の期待通り、佐藤賢一は穴適応者だったに違いない。最初から穴を見る目が違っていたもの。
     「穴適応者...」
    思いついた単語が思わず口に出てしまった。子供染みているが、妙にしっくりくる。僕はこれから、この穴に尋常でない反応を示した人を、そう呼ぶようになるかもしれない。
     いつの間にか、日が暮れていた。その間、片桐早苗はぐったりとしながらも、特上の霜降り和牛を食べた後のような表情で、穴のそばに寝そべったまま、潤んだ目でその奥をじっと見つめていた。
     僕は、テーブルの椅子に腰掛け、煙草を燻らせながら、この明るい解放者を眺めていたが、もう少し話をしたい気になってきて、
     「片桐さん、この後って何か予定あるの?」
     「うーん、何かあったかなぁ。」
     「じゃあ、」夕飯でもと言いかけた時、彼女のバッグから携帯の着信音が鳴った。
     「あらら、ちょっとごめんね。」
    気だるそうに起き上がり、電話に出てしまった。
     「友達に、夕飯誘われちゃった。で、なんだっけ?」
     「あ、いや何でも無い。」
     「そう。会社の人だったら田中君も誘えたけど。」
     「はは、ありがとう。何の友達なの?」
     「ん、英会話教室。」
     「そんなのやってんだ。」
     「うん、ガイドなしで海外旅行とかしたくてさ。その人たちと会う時は、ほとんど英語で話すの。あ、でもこんなびしょびしょのままじゃ、外出られないなぁ。」
    しばらく部屋を見回し、
     「あ、これ借りていい?ちょっとごめんね。」
    彼女は、佐藤が脱ぎ捨てていった服を拾い、そのまま僕の目の前で着替えてしまった。
     「あはは、ぶかぶか。ま、いっか、途中でなんか買うわ。」
    佐藤のような大柄な体形でも着られる服だ、似合うのはバレー選手くらいだろう。背の低い(といっても女性の中では中背な)彼女が、ぶかぶかの格好で歩く感じが、子供が大人の服を着たようで、可愛いかった。
     「悪いけどこの服、干しておいてもらってもいい?今度取りにくるから。」
     「おお。」
     「ありがと!じゃ、行くね。あ、そうだ。さっき出て行った人、お友達?」
     「うん、まあ。」
     「面白そうな人じゃない、今度紹介してよ。」
     「タイプ?」
     「あはは、そんなんじゃなくて。だってゲイでしょ、彼。あたし、ゲイの友達って、欲しかったんだ。全然違う話ができそうで。あ、田中君から取ったりしないから安心して。」
    と、悪戯っぽくドヤ顔で言うが、なにか色々と、ものすごい勘違いをしているような気がしてならない。
     「じゃね、また。」
    そう僕と穴に向かって言って、いそいそと出て行ってしまった。
     さっき起きたことは、彼女にとってあまり驚くことではなかったようだ。この穴と、それが引き起こす現象に対しての理解力は見事だが、僕と佐藤の関係に関しては、どうなのだろうか。
     「思い込みが強すぎやしないか?」
    まあ、今まで会社で浮いた話の一つもなかったことや、これまでチャンスはあっても、一度も彼女に手を出そうとしなかった経緯を考えると、仕方ないかもしれないが。
     「ま、いっか。」
     後日、片桐早苗は、佐藤賢一の服をクリーニングに出してから返してくれたので、僕はテレビ台を交換するために、テーブルを買った通販サイトで、今のより一回り小さいものを注文した。
     案の定、佐藤が無表情で届けにきたので、署名した伝票と一緒に、さりげなく服を返した。佐藤は黙ってそれを受け取り、玄関から居間の穴をぼんやり眺め、ぼそりと言った。
     「田中さん、僕はあの時、この穴に叱られたのでしょうか?」
     「どうでしょう。もしかしたら、救われたのかもしれませんよ。」
     「ああ...、なるほど!」
    彼は、また人懐こく破顔してから、またきてもいいですか、と照れ臭そうに聞くので、
    もちろん、と答えて、その場でSNSのアカウントをフォローし合った。
     佐藤が出て行った後、テーブルの椅子に座り、煙草に火を点け、穴を眺めていると早速、携帯電話に佐藤からSNSでお礼のメッセージが届いたので、僕もすぐに挨拶を返す。
     「こんな繋がり、今までなかったなぁ。」
    プライベートで主に会う人間が、ほとんど学生時代の友人という僕にとって、社会人になってから、会社以外で新しくできた人間関係というのは、偶然性が高い分、出会えたことに必然性があるような気がして、嬉しくて仕方なかった。
     そして、世の中には、他にもまだまだ多くの穴適合者がいるかも知れず、そんな人たちが、この穴を見て解放されれば、どれだけ面白い関係の輪が作れるのかと考えると、わくわくして、もっともっとたくさんの人にこの穴を見てほしい、そう思うようになっていた。
    そして、それがどれだけ大きなリスクを持つことなのか、この時の僕には、予想だにできていなかったのだ。

    ***

    続く

    ● 「穴祭り 第2話」 斎藤雄一郎(リアルテキスト塾13期生)
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