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私たちが学校教育で学んだことのひとつに「いかにして"正解"を導き出すか」があります。学校の勉強の中では、たいていの場合答えはひとつで、それ以外は間違いでした。学校教育を終えてもなお、「正解を目指さなければいけない」「間違えてはいけない」そんな思いはしみついているようです。
でも、学校の勉強とちがい「人生」に正解はありません。自分にとっての「正解」はあるにせよ、全員に共通する「正解」はありません。それでも私たちはどうやら人生に「正解」を求めてしまうようです。そして他者からの評価が絶対的なものかのように思えてしまいます。長いこと学校という場で、トレーニングしたクセなのかもしれません。
「正解」が存在するために必ず必要なものは「間違い」です。「間違い」というものなしに「正解」はあり得ません。「正解」があるということは、必ず「間違い」があります。「普通こんなことしないでしょ」とか「当然こうするでしょ」は、つまるところ自分が正解で相手が間違いということ。「自分は正しく、相手が間違っている」という表明でもあります。対立を生んでもなんら不思議はありません。
良い/悪いはありません。ただものさしが異なるだけです。太陽暦か太陰暦かの違いとおなじです。それを良い/悪いと判断する自分の思考があるだけです。何かを見たり聞いたり感じたりしたときに、それを瞬時に良い/悪いの判断をしていることに気づいていましょう。そして、自分の心がどんなふうに動いたかにも光をあててみましょう。
今日の1枚:木の葉も落ちるタイミングはそれぞれです。真っ先に落ちる葉もあれば、最後まで残っている葉もあるでしょう。木という「全体」からすれば、その違いこそが「正解」なのでしょう。
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