カップが役に立つのは
水を入れることのできるからっぽの空間のおかげです。
「虚」はすべてを受け入れることができ、それゆえに万能なのです。
(『本のお茶 カフェスタイル・岡倉天心『茶の本』』P74より引用)
たった1杯のお茶を飲むことのなかに、ちょっとした哲学があるのです。どうして存在するのか考えもしなかったカップ、その虚を想う......。それを発展させると、たとえば、空っぽで寂しいと思っていた孤独感が、じつは可能性に満ちたものであると気持ちを切りかえることができるかもしれません。
明治時代に活躍した美術家で、いまの東京芸術大学を創設した岡倉天心は、著書の『茶の本』で、こう書いています。
現代世界において、人類の天空は、富と権力を求める巨大な闘争によって粉々にされてしまっている。
(中略)
再び女媧があらわれてこのすさまじく荒廃した世界を修理してくれることが必要だ。
(中略)
それまでの間、一服して、お茶でも啜ろうではないか。
(中略)
しばらくの間、はかないものを夢み、
美しくも愚かしいことに思いをめぐらせてみよう。
(『新訳 茶の本』P31より引用)
さてこの『茶の本』、じつは岡倉天心は英語で執筆しているのです。西欧文明が席巻するなかで、東洋の美術を再興しようと力を尽くしたものの、なかなか理解されなかった時代。彼はアメリカに渡り、西洋の人びとに東洋文化を広めるためにこの本を書いたのです。
そんな由来を知って改めて目を通してみると、明治から時を経た現代の私たちは、この本をある意味で「異邦人」として新鮮に読むことができる気がします。
誰にも邪魔されない自分だけの時間がとれたら、ていねいに1杯のお茶を淹れてみる。
そして茶碗を見つめたり、いつもより広い視点で世界を想ったり......。すると、ふだんはけっして思いつくことができないなにか、大切なことを掴むことができそうです。
[本のお茶 カフェスタイル・岡倉天心『茶の本』 , 新訳 茶の本]
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