「思弁的実在論」
常識的な見方からかけ離れたモノのあり方を、思弁の力によって描き出そうという新しい哲学
マルクス・ガブリエル「新しい実在論」
物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない
「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」というのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している
富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差のことなのである
「世界は存在しない」
「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、そのような包括はいまやできない。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。
カント以降の「相関主義」
思考とモノの相関関係だけであるとする立場。この立場に依拠すると、人間の思考から独立したモノそのものについて語ることができなくなってしまう
クァンタン・メイヤスー「思弁的唯物論」
相関主義を内部から打ち破り、そこからかいま見られた、偶然性につらぬかれたモノの世界
相関主義の乗り越えの必要性を主張すると同時に、その不可能性を主張
われわれは、思考とモノの相関関係の外部を思考することはできない。この相関関係という事実そのものは、ただ受け入れて記述することができるだけ
思考は、この「偶然性の必然性」を把握する
この偶然性が成り立つためには、偶然的なモノそのものが存在しなければならない
世界は、そうした絶対的な偶然性につらぬかれている。モノたちはあらゆる法から解放され乱舞する
グレアム・ハーマン「オブジェクト指向存在論」
人間は認識主観として中心に位置を占めない。あらゆる存在者が、個体的なものとして平等にあつかわれ、なににも還元されない、そのものとしての個体性をもっている
関係性に先立って、まず個体的な存在者が存在する。個体的存在者たちは、おたがいの直接的な関係から覆い隠されている
個体的存在者は、それに触れようとする、こちら側のアクセスから、どこまでも退いて隠れてしまう。ただむこう側から発せられる表面的な性質を媒介にして、間接的に関係することしかできない
世界は、本体がどこまでも退き、表面的な性質を媒介にして、ただ暗示的なしかたでのみかかわりあっている怪奇的なオブジェクトたちによって分断されている
十全に汲みつくされることのない余剰を、背後に隠しもっている怪奇的なオブジェクトたちによって、どこまでも全体化をはばまれ、徹底的に断片化された世界
対象はつねに互いに還元不能な実在的な対象と感覚的対象、実在的性質と感覚的性質の四つをくぐっており、合わせて十通りの組み合わせが可能
対象も主体(主観)も同じフラットな平面で見ることが標榜され、人間の精神や心をかならずしも特権的なものと見なさない立場
世界や宇宙における「人間でないもの」(非人間)の意義が重視
対象は私秘的な空虚において包まれたダークな核心であり、「掘で囲われた孤島のようなもの」でもある。モノは互いの変形や歪曲を通してしか出会えない。
マヌエル・デランダ「新しい集合体理論」
合理的な個人、社会、あるいは国家といった形象を物象化された実体として把握することから脱却
最終的な産物である実体から考察をはじめるのではなく、その産物が産出される歴史的な過程に着目
経験の内容の只中で外在性の諸関係が確立されていくのにともない創発してくる主体
集まる人間が固定化され会話が繰り返し行われると、長期的に持続する「社会的実在」が創発する
社会運動は言語的な標識によって画される区分を揺り動かすことが目的
集合体概念を二つの次元から規定する変数として次の四つ
物質的な役割。これは例えば、対面的な会話や対人的なネットワーク、階層秩序的な組織があたる。
表現的な役割。これは言語やシンボルに還元されず、人々のふるまいや行動、話題の選択なども含まれる。
領土化の概念。領土化の過程は「実在の領土の空間境界を規定し明確にする過程」
脱領土化の概念。脱領土化は「空間境界を不安定化させるか内的な異種混淆性を高める」過程
ボリス・グロイス「アート・パワー」
アートにおいては、人間存在は他者によって見られ、分析されうるイメージとなるのである
アートの主要な目的は、まさに、生のモデルを見せ、明るみに出し、展示することである
時空間における自らの実存の限界を知るためには他者の眼差しが必要
私は自分の死を他者の目の中に読み取る ラカン「他者の目は常に邪悪な目である」 サルトル『地獄とは他人である』
他者の俗悪な眼差しを通してのみ、私は自分が考えて感じるだけでなく、生まれて生きて死ぬことを知りうる
生きることとは、生きている者として(したがって死んだ者としてではなく)他者の眼差しに曝されること
啓蒙時代以前は、人間は神の眼差しの支配下にあった。それ以降の時代には、我々は批評理論の眼差しの支配下にある
理論による統治の下では、生きているだけは不十分。人は、自らが生きていることをも行動で示さなければならない。自分が生存していることを演じて見せる必要がある
ある理論を実行に移すことは何であれ、同時にこの理論への不信を実行に移すことである
全体的な統一性といったものは虚偽であり、虚偽の中に真の生はない
社会とは平等と類似の領域である。今日、我々は類似性の社会ではなく、むしろ差異の社会(市場経済)に生きている
理論と理論を実行に移すアートは、市場が生じさせた差異を超える類似性を生産する
理論とアートは、伝統的な共通性の不在を補う。
我々は自らの実存の様式において相異なるが、自らの死すべき運命のために相似している
新しいことは、差異があることと決して同じではない
もし、それが真に新しいのだとしたら、差異として認識できない。認識するということは、常に思い出すことである。
差異を再現する使命を持った制度は、既に存在している差異を超えて、差異をも生み出しうる
差異を超えた差異とは、個々の物の余命の差異であり、歴史的な時間の中でそれが存在する時間の差異
キリストとその時代の普通の人との差異は、美術や法によって再現可能な形における差異ではなく、普通の人の人生の短さと神の存在の永遠性との差異である
普通の物の余命を変えたら、ある意味、何も変えずに、すべてを変えることになる
現象としての特性や性質の違いによって浮かび上がる差異ではなく、「代替不可能な私であり、貴方であり、作品」として浮かび上がる差異
「芸術」が「商品」と異なる理由は、この非-関係的な自律性をつくり出せているから
新しさが出現しうる唯一の手段は、普通であること、差異のないこと、同じであること、他者ではなく同類であること