出張でホテルにチェックインしてテレビをつけたら、「鶴瓶の家族に乾杯」やってました。

 訪れた先は熊本県南阿蘇村。昔2014年に訪れていて、その時のゲスト世界的な指揮者・佐渡裕さんと再び南阿蘇村にアポなし突撃するというもの。
 
 これぞ、本当の復興報道。

 というか、昔そこで生きていた人たちが、やっぱりしたたかに生き抜いている姿が次々と映し出されていたのです。

 地震の後に昔の情報を紡いで見せる報道とは、本質的に違うじゃないですか。地震の後だと、地震を通して人々の心に残るストーリーが紡がれるわけで、言ってしまえば私たちが見たい復興を見せる報道になってしまうわけです。

 しかし、この「鶴瓶の家族に乾杯」は違います。昔訪れたところをまだいるのかいないのか、生きてるのか死んでるのか、店ならやってるのかやってないのか。ドキドキしながら訪れるわけじゃないですか。

 そしたら、ちゃんと生きてるし、やってるし、「大変だった〜」って言いながら、そこにいるんです。

 2014年の放送は見ていないけど、「鶴瓶の家族に乾杯」に出ていた「普通の人たち」が地震を乗り越えて、また「普通」に生きている。生々しい真の復興の姿を見ることができるのです。

 しかも、その「普通」を取り戻すために、実は一人一人がどれだけ尋常ならぬ覚悟を決めて取り組んだか、みなさんの言葉の端々ににじみ出ていました。

 他人事ではありません。

 もしかしたら、明日にもミサイルが飛んでくるかもしれない時勢です。

 あるいは、年々過酷になる自然災害に巻き込まれるかもしれません。

 高度成長がとうに終わった日本で生きるということは、普通の人は、大きなトラブルに見舞われることなく、普通の人生を生きるということがなによりの勲章です。

 これ意味が伝わりにくいかもしれませんが、私が子供の頃は、高度成長でしたから、私は中流社会の子供として、将来は中流社会のうちみたいな家にはあまねくお手伝いさんがいるような未来を「普通に」想像していました。

 もちろん今でも、大成功する人はいますが、「普通」の未来ビジョンとしては「普通」が「普通」です。

 しかし、どんなに「普通」に向かって頑張っていたって、熊本地震のような天災があればあっけなく「普通」でなくなります。そんな大きな災害でなくたって、ちょっとしたゲリラ豪雨による洪水だって、それに巻き込まれた人たちの生活は「普通」ではなくなります。

 現代において、派手な成功ストーリーが激レアになっていく中、「普通」をやり抜こうとしても、あっけなくそれを台無しにされるトラブルは溢れています。

 ですから、「普通」を描いた「鶴瓶の家族に乾杯」が、熊本地震の後再び訪れて、その人たちがしたたかに生き抜いている姿を映してくれることは、私たち「普通」の人間にとって、大きな勇気です。私たちにも明日、「普通の」人生を台無しにするイベントが訪れるかもしれません。でも、わたしたちも「鶴瓶の家族に乾杯」の人たちと同じように、なんとか生き抜くことができるかもしれないことを、「鶴瓶の家族に乾杯」示してくれたのです。地震の後の取材では、取材側が、「それでも生き抜いた人」「地震で今も大変な人」を選んで取材しまとめて見せるだけです。「それでも生き抜いた人」が結構いるのか激レアなのか全然わかりません。

 でも、「鶴瓶の家族に乾杯」では、私には出てこなかった人がどれだけいるのかはわかりませんが、「それでも生き抜いた人」が結構いることをきちんと見せつけたわけです。

 「普通」に生きれることが大事な目標である現代。その中で「鶴瓶の家族に乾杯」のような地味に「普通」を伝え続けるような番組が、本当の復興報道ができるということは、私たちは持続的社会に入り込んでいるのだと思います。毎週の視聴率でくるくる番組を変えるのでなく、持続的な番組を維持することで初めて伝えられる報道ができる懐の深さを携えること。

 それが、日本が「持続的な社会」に移行してる兆候を先取りしているのではないでしょうか。

《ワンポイントミライ》(

ミライ: ゲスト佐渡さんのフルート良かったですね〜。

フツクロウ: ただ再開するだけでなく、また地震前と同じ空間を再現したということを決定的に映像にしたからの〜。