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ihayatoさんのこの記事読んではっとしました。
亡くなったKさんからフェイスブックの友達申請が来た話
亡くなったKさんからなぜ申請が来たかというホラーな部分(?)は、記事を読んでもらうことにして、KさんのFacebookのアカウントは今でも残っていて、
友達からはタグ付けされているし、「誕生日おめでとう!」という書き込みはあるし、「亡くなった」という情報を事前に知らなければ「ここ最近フェイスブックにログインしていないのかな」としか認識できないタイムラインでした(かなり下の方までスクロールすれば、亡くなったことがようやくわかります)。なんだそうです。
ついこの間
[S]初音ミクもクマのぬいぐるみも生きている
で書いたのは、たとえぬいぐるみでも初音ミクでもそれは生きてると思えば生きているという話でした。生身の人間のように意識にあろうが忘れていようが「生き続けて」はいないけど、生きていると思えば「生きて」いるのです。
この亡くなった方のFacebookでも、生きてると思って訪れている人にとっては、その人はまだ「生きて」います。
もしも彼が、生前「フェイスブックに自動で過去のブログ記事を投稿する」を設定していたりしたら、もう画面だけでは生死を判断できなかったかもしれません。SFでもなんでもなく、可能だと思うし、実際それは起こっているのだと思います。「生き続けて」はいないけど。(「生き続ける」ことも技術的には可能になりそうだとこの間は続きますが。ihayatoさんはそういう意味かも。)ここから先はSF的な妄想ですが、「死んでるのに、生きていると思わせる」ということは、技術的に可能なのではないでしょうか。
そして、最初に「はっとした」と書いたのは、これからは本当に亡くなっているのかもぼやけていくのかなと思ったからです。
この話をしたら、知り合いが半年前に亡くなった人のFacebookは今も残ってて、たまに見に行くことがあると教えてくれました。ログインした形跡があるから、家族も見ているんじゃないかなと。
お墓参りではなくて、「故アカ」参りです。その人のリアルな発言がいつまでも残っていて、いつでも生々しく甦らせることができる場所。誕生日になるとFacebookのアラートで友達達がおめでとうをいいながら集まって、故人の前で話が交わされる。何年も何十年も経って、いつか誰も訪れなくなるかもしれないけど、それまで故人を思って人が集まる。体はすぐに燃やされちゃうけど、思いは目に見える形で残り、ゆっくりとゆっくりと朽ちていける時代が来たんです。
こんな風に、亡くなったのか亡くなっていないのかよく分からないグレーゾーンがあるんだとみんなが思えるようになる日が来るとは全然思っていなかったですけど、本当に本当に嬉しいです。
昔に死んでしまった友人達への想いが、たった今、違う形で昇華していくのを感じるし、そしてもう一つ昇華していくものがあります。かつて好きになって、この人と生きていくんだと思っていたときの人たちです。
その人たちはもちろん今も元気に生きてますけど、自分の中にいた自分と一生いるはずだった人とはもう別人です。これは本当に厄介で、その人達は生きているけど、自分の中の自分といるはずだったその人たちは言わば死んでしまっているのです。要は「失恋の痛み」ですが、
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