100年以上前の本ですが、タイトルはドイツの経済学者ゾンバルト(1863-1941)の書籍です。
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ゾンバルトは経済分析に演繹的な要素を取り入れました。
「生き物」としての人間。命の本質から経済を説明する手法を取りました。
恋愛、贅沢が産業の発展に大きな影響を与えると主張。
本書では多くの証拠を列挙し、奢侈と経済について淡々と論じます。
高級時計の中には数千万円するものもあれば300円ショップで売られているおもちゃのような時計もあります。時間さえわかればよいという人はスマホで事足りるので時計さえつけません。
同じ時計であっても、ピンキリで、価格にして数千倍の差がつくのはなぜでしょうか。需要と供給の経済学のDS曲線では説明ができません。
高級時計は作った職人の言い値でもありますし、この職人にカスタム品をつくってもらいたいという大金持ちが頼むときにはもはや値段は青天井です。
需給の均衡論では説明ができません。
経済学は循環論と均衡論で成り立ってきましたが、現代においては、それだけでは経済は語れなくなっているのです。極めて少数の人々が湯水を注ぐようなお金の使い方をする。
たとえば火星探索という夢を現実に変えるためになら時価総額全部使ってもよいとイーロン・マスクさんなら言い出しかねません。
ゾゾタウンの創設者が「わたしは月へ行く!!」と叫んだこともありました。
わたしたちは日常に慣れ過ぎていますが、たとえば1000兆円の財産があったならば、どうしたいか。ガンの撲滅を目指し、太平洋のマイクロプラスチックを全部拾い上げるようなことを目指すのではないでしょうか。
ともかく、高級時計と宇宙探索は同根なのではないか、そういう視点を著者は持っていたのです。
ですので、時計だけではなく、「ありとあらゆるもの」に「高級品」が存在しているはずです。
中古のセダンが数十万円で買えるのに、高級外車は数千万円もします。
値段の差は車の場合は1000倍、時計の場合は1万倍、家の場合はせいぜい100倍ぐらいです。
わたしも車の歴史を調べていて、平安時代の牛車のことを知りましたが、階級によって牛車の仕様は大きく違っていました。平安時代にも「高級車」は存在したのです。
資本は専制君主や事業の成功者に集中し、彼らの欲求から生み出される贅沢への欲求が新製品や新ブランドを誕生させていく。
職人の仕事の内容としても、1000人を相手に凡庸な日常品を作るよりも大金持ちの1人を相手に世界でひとつだけの精魂込めた商品を作りたいのが人のモチベーションというもの。
高級車と大衆車とを分けるものは質的な違いでしょう。
デジタル時計は狂わないのに、狂う機械式の時計の中で最上位の時計の価値が圧倒的に勝るのは質的な違いであり、投入された時間に比例するだけには留まりません。
価格差というのは需要がつくるもので、「どうしても欲しい」という気持ちが高値を形成していきます。
均衡論ではなく希少品を持ちたいという所有の欲望が値段を決めている。
そこに存在するのは、主観です。
刺激を求める本能。
より強い刺激を得ても、それにより満足感は低減していくという刺激の本質。
これら贅沢や奢侈というものは、人類の歴史の中で数千年にわたり邪悪で俗悪で虚栄的なものとされてきました。逆にいえば、資本主義をドライブしてきたのは個々人の奢侈への欲求です。
(つづく)
(NPO法人イノベーターズ・フォーラム理事 山本 潤)
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