同棲。
それは、荒涼な砂漠の先に揺らぐ蜃気楼のような、打ち上がっては消えてゆく花火のような、熱にほだされて見る白昼夢のような、日常の先にじんわりと浮かぶ儚い幻だ。

だがしかし、30歳を過ぎると、学生時代の友人も、職場の仲間も、SNSに出現する友達の友達も、どうやらすごい勢いで恋愛をして、結婚して、子どもも産まれて、ガシガシと日常をアップグレードしている。ミスチルがかつて歌ってた、「同年代の友人達が家族を築いてく~♪」ってやつだ。
日常アップグレード済みの彼ら彼女らにとって、同棲というのは過去に実在したファクトであり、夢でも幻でも何でもない、既に通り過ぎた単なる思い出である。それ以上でも以下でもイカでもタコでもない。

でも、彼ら彼女らはマジョリティなのだろうか。否、そうとも限らない。ぼく(ら)のような、まだ同棲にすらたどり着けていない、恋愛年齢がソー・ヤングで純情きらりなシャイボーイたちもまた、この日本社会で今日もしぶとく蠢いているのである。

この『同棲ソー・ヤング』は、32歳独身、彼女なし、同棲未経験、恋愛偏差値Fランなぼくが、「同棲」という名の幻について、夢想し、想像し、妄想していく連載である。(連載タイトルや文体からGOING STEADYや椎名誠ファンだったことはバレバレだけど)
既に同棲時代が過ぎ去った天上人の皆々様は笑い飛ばしていただければいいし、ぼくと同じく同棲を夢見る読者諸賢は共感したり反発したりしていただければ、この上なく幸いである。

Vol.1「独り身の三十代男性とは、寒ブリである」

東京は冬まっさかりだ。
ゲレンデがとけるほど恋したことも、きみの冷えた左手をぼくの右ポケットにお招きしたことも、粉雪に心まで白く染められたこともなくても、誰もが平等に公平に公正に冬を迎える。

冬というのは、独り身に酷な季節だ。
理由は言わずもがな、「寒い」からである。
「寒いから酷なんですよ」なんて、それは独り身だろうが大家族だろうが核家族だろうが野山で冬ごもりの支度を始めるリスだろうが母方の実家の飼い犬(シンノスケ♂ 4歳)だろうが、みんなみんな寒かったら酷なのだが、ぼくが言いたいのはもちろんそういうことではない。

寒いと、独りでいるのがしんどいのだ。

ここで問題となるのは、やはり、冷えてしまった心(と体)を暖めてくれる存在がいないということだ。
ぼくは個人的にスヌーピーをこよなく愛しているので、ベッドの上には六本木のSNOOPY MUSEUM TOKYOで購入したスヌーピーのぬいぐるみが鎮座しており、時折、思い出したように彼をギュッと抱きしめることがあるが、スヌーピーほどの世界的スターを以てしても、冷えた心は暖まらない。
むしろ、そんな自分をもう一人の自分が憐れみ始めてしまい、心はいよいよ絶対零度まで冷えてしまう。

心までも冷えてしまう冬に必要なのは、スヌーピーではない。
同棲相手だ。

寒さもまた、「寒いね」「うん、寒いね」のごくごく短い3.5秒くらいの会話でもって分かち合うだけで、一気に和らぐものだ。
ぼくのスヌーピーくんは、「寒いね」と語りかけても、当然無言である。
せめてウッドストックのように「””””””””””””?」でいいから返事をしてほしいが、当然無言である。
だから、きっと同棲相手がいたら冷えた心も芯から暖まることだろうと、ぼくはスヌーピーを膝に挟んだ体育座りの体勢で、虚しくも夢想する。
いや、そもそも心まで冷える手前で、もっとずっと前の段階で、互いに暖め合えるのかもしれない。

つまり、同棲相手というのは暖房だったりコタツだったり、時には湯たんぽだったりホッカイロだったり、たまにヒートテックだったり毛糸の靴下だったり、或いは焼け石だったり小籠包だったり、温度と素材とサイズを自由自在に変化させる「熱」そのものなのではないか――。

一体何を書いているのか、自分でもわからなくなってきた。
ただ、心まで冷え切ってしまって、冬景色の津軽海峡を竜飛岬から眺めていたとしても、それでもまだ諦めてはいけないのだ。

ていうか、諦めるってなんだ、なんなのだ、どういう状況なのだ。
怖い怖い。
諦めてはいけないというのはつまり、希望があるということだ。
別に、「明日はもっといい日になる」だの「君はもうひとりじゃない」だの「生きてるって素晴らしい」だのとJ-POPステレオタイプな希望を述べるつもりは毛頭ない。
ただ、希望はある、あるったらあるのだ。

希望とは何か。
希望とは「寒ブリ」である。

ここで「おまえ、何言ってんだ」と思った人も、「表に出ろ」と憤った方も、どうかブラウザのタブを閉じずにこのまま読み進めてもらいたい。
また、「たしかに! 寒ブリが居酒屋にあると、希望を感じるわ! ホッピー飲みたいわ!」的な、吉田類的もしくは太田和彦的な方面に人生を捧げている人も多いだろうが、そういう直接的なことを言っているのではもちろんない。
いや、ぼくも居酒屋に寒ブリがあると希望を感じるが、「わあ!」とかはしゃいで刺身を頼んで日本酒と一緒にいただいてしまうが、一口食べて「日本人でよかったー!」とか言ってしまうが、でも、そういうことを言っているのではない。

寒ブリとは、冬の前までに北海道で大量のエサを食べて栄養を蓄え、冬になって産卵するために南下してきたブリのことである。
冬の冷たい日本海を泳ぐために、そして産卵のために、その身には脂がたっぷりと乗っている。
新鮮な寒ブリの刺身を醤油にサッとつけて食べると、その醤油皿の表面には薄っすらと油膜が浮いていることすらある。
そう、それぐらい脂が乗っているのだ。

ぼくが言いたい「希望」とは、まさにその「脂」である。

ぼくらはいま、冬の冷たい海を泳ぐ、脂が乗った寒ブリなのだ。
冬のひとりぼっちの部屋は、すなわち冷たい日本海であり、そこにさめざめと暮らす三十代独り身のぼく(ら)は、すなわち脂がたっぷり乗った寒ブリなのだ。
他の季節に食べるブリや、安価な輸入モノとは格が違う、旨さが違う、声が違う、年が違う、夢が違う、ほくろが違う。
イミテーションではない、本物のゴールド……じゃなかった、寒ブリなのである。

今はどんなに心が冷えていても、きっと大丈夫。
冷たい海を泳いだ先には、きっと素敵な未来が待っている。
これぞすなわち、「希望」だ。
出逢いという名の灯台は、同棲という名の港は、もうすぐそこだ。
そのへんのぬるい海流にほわほわと漂っていた雑魚なんぞは、ぷりっぷりの脂によって「そこのけそこのけ寒ブリが通る」と蹴散らせてしまえるのだ。

独りの部屋で、心が冷えれば冷えるほど、ぼくらの脂も乗っていく。
いつか誰かの心の醤油皿に薄っすらと油膜を張る、その日まで、冷たい冬の海を泳ごうではないか。

illustrated by shun nakamura
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