【まえがき】


この国の政治に、もう一度「誇り」を取り戻す必要がある。
誰のために、何のために政治家は存在するのか。
その原点が、いま真剣に問われている。

石破茂。
かつては理論派として鳴らした彼が、今や権力にしがみつくただの「延命装置」に成り果てた。
民意を見ず、責任を取らず、歴史をも私物化しようとする。
保守を標榜する政党が、その保守を切り捨てたとき。
もはや、それは政党ですらない。

本書では、石破政権の続投表明、80年談話の危険性、党内の逆流とリコール運動、そして保守派の再起までをえぐり出していく。
語りかけるように、切り裂くように、読者の心に火を灯す。


第一章:署名提出見送りの裏側にある「本気」

延命か、準備か。静かなる爆弾。


7月29日。東京・永田町。
蝉が鳴く熱気のなか、自民党本部では静かな攻防が行われていた。

笹川博義農林水産副大臣が、120名超の署名を手に、有村治子両院議員総会長と面会した。
その場で「提出」をすると思われていた。
メディアもそれを期待していた。
党内もざわついていた。

だが、提出はなかった。
その瞬間、報道は一斉に「提出見送り」と書き立てた。
あたかも、運動が頓挫したかのように。
だが、真実は違う。

これは「敗北」ではない。
むしろ「次の一撃」に向けた“静かな準備”だった。

笹川は語る。
「森山幹事長が、我々の思いを受け止める決断をした。」
その裏には、極めて戦略的な判断がある。

提出すれば、そこから先の主導権は党執行部に移る。
議題設定、日程、進行すべてが森山の管理下に入る。
それは、手の内を全て晒しながら素手で虎に立ち向かうようなものだ。

笹川は、それを避けた。
そして「署名は保管する」と言った。
この言葉が意味するのは、「次のタイミングまで使わない」という意思である。
つまり、これは“リコール第1フェーズ”に過ぎない。

保守派は、焦っていない。
いや、焦っていないふりをしている。
そうした方が、執行部は安心して油断するからだ。

しかし、実際には水面下で次の作戦が進んでいる。

まず、森山が「総会は開く」と言った。
形式上、勝利に見える。
だが、議題は不透明。
日程も不透明。
討論の自由も保証されていない。

つまりこれは、「ガス抜きの総会」だ。
火は消さずに、煙だけ抜く。
議員たちの声は録音され、記録され、だが実行には移されない。
それが執行部の常套手段だ。

そのことを、笹川も、有村も、若手議員たちも理解している。
だからこそ「署名を温存」するという作戦に踏み切ったのだ。

署名という“核兵器”をちらつかせながら、タイミングを見て使う。
保守派は、今や「武器を持った沈黙者」たちだ。

そして注目すべきは、この署名の中身である。
かつての派閥論理では動かない、新しい「政策型保守」の連帯。
彼らは、有権者と直接対話し、SNSで情報を発信し、自らの手でリスクを取っている。
その背中を見て、若手議員たちが動き出した。

これは、単なる「執行部批判」ではない。
自民党そのものを、かつての誇りある保守政党へと戻すための“再生運動”だ。

石破首相は、この静かなうねりにまだ気づいていない。
いや、気づいているかもしれないが、軽視している。
自らの権力の足場が、今なお強固だと思い込んでいる。
だが、それこそが「盲点」なのだ。

政権は、選挙で負けても崩壊しない。
だが、内側から信任を失えば、一夜にして瓦解する。

そして、その準備は、すでに整っている。
笹川の署名見送りは、「諦め」ではない。
「覚悟」の表明だ。

この国にとって、本当に必要なのは何か。
次世代に何を残すべきか。
保守派の答えは、はっきりしている。
「保守を守るために、石破を降ろす」
それだけだ。

署名は提出されなかった。
だが、火種は消えていない。
むしろ、誰よりも燃えている。

静かなる決意が、永田町の中で確かに脈打っているのだ。


第二章:森山裕の“英断”に潜む策略

ガス抜き総会、その中身は空っぽだ。


森山裕。
表情を崩さず、声も荒らげず、穏やかで礼儀正しい幹事長。
だが、その内面に潜むものは「静かな冷酷さ」だ。

7月29日、両院議員総会の開催が決まった。
党内では一見、安堵の空気が広がった。
「ようやく話し合える場が設けられる」
「保守派の声も届いた」
そんな希望がささやかれた。

だが、その「決定」の裏にこそ、最大の罠が仕掛けられていた。

森山は言った。
「これは、懇談会での意見を尊重した我々の判断だ。」

つまり、若手議員が120名以上の署名を集めていた事実を、無視する形で総会を開催すると言っている。

言い換えれば、「議員の力ではなく、執行部の慈悲で開いてやる」という構図だ。

これは、権力の本質をよく知る者だけが使える“論点すり替え”の技術である。

そして、さらに巧妙なのは「議題未定」という言葉だ。
総会は開く。
だが、何を話すかは決まっていない。
議論の焦点は、煙の中に消えていく。

石破政権の続投問題、80年談話の是非、保守派の処遇──
どれもが議題になるべき重大案件である。
しかし森山は、それを「個別の議員の意見」として切り捨て、議題に含めない可能性を残した。

形式的に「会」は成立する。
だが、内容は空っぽ。
いわば「骨抜きにされた総会」だ。

議場に集められた議員たちは、無意味な報告と総花的な提案を聞かされるだけ。
怒りは“冷笑”に変わり、やがて“沈黙”へと誘導されていく。

これが森山の戦略だ。
「反発を吸収し、無害化する」
言葉巧みに、議論の地平を“凪”に変える。

だが、これは単なるテクニックではない。
それは、石破政権の「支配構造の反映」でもある。

森山は、自分の言葉で語らない。
彼は「石破茂の代弁者」であると同時に、「保守派切り捨ての実行部隊」でもある。

今回の“総会開催決定”には、もうひとつの重大な意味がある。
それは、党内の“ルール”を「恩恵」に変えてしまったことだ。

本来、3分の1以上の議員が署名すれば、総会は「義務的に」開かれる。
それが党則だ。
しかし森山は、あえて署名提出を回避させ、自らの口から「開催を決めた」と宣言した。

これは、自民党の“党内民主主義”の根幹を揺るがす出来事だ。

議員の意思ではなく、執行部の意志で政治が動く。
それを演出することで、「抵抗」は「反抗」へ、「反抗」は「異端」へと変わっていく。

有村治子は、その構図を理解している。
彼女は「総会の開催は当然」と言いつつ、「議題と日程は慎重に、公正に検討する」と発言した。

この“慎重”という言葉は、二重の意味を持つ。
ひとつは、森山への牽制。
もうひとつは、保守派へのメッセージ。
「私はまだ、あなたたちの側にいる」と。

しかし、このバランスは永遠には保てない。
どちらかを選ばねばならない時が来る。
その時、有村がどちらに立つのか。
それが保守再生の運命を決める。

保守派にとって、総会は「勝ち」ではない。
総会は「戦場」であり、「踏み絵」だ。

議員たちは、そこで何を語るか。
メディアはどう報じるか。
国民は何を感じるか。

そして森山は、どう遮るか。

今、この国の民主主義は、「一つの会議室の空気」によって左右されようとしている。
それが、現実なのだ。

形式の裏に、意図がある。
沈黙の奥に、策略がある。
森山裕の“英断”とは、誰のための決断だったのか。
答えは、もう見えている。


第三章:“80年談話”という亡国のパフォーマンス

歴史の私物化、それが野心だ。


8月15日。
終戦の日。
この日が何を意味するか、多くの国民は理解している。
鎮魂と平和の誓いの日であり、同時に、未来の日本がどうあるべきかを静かに考える時間でもある。

だが、石破茂首相は、この“国民的節目”を政治利用しようとしている。
それが「80年談話」である。
談話。
それは、形式上は首相の見解にすぎない。
だが、現実には“国家の立場”として扱われる。
国際社会に対してはもちろん、次世代の歴史教育にも深く影響を与える。
だからこそ、慎重でなければならない。
内容だけではない。
発出の“タイミング”こそ、最も政治的な判断を要する。

青山繁晴参院議員は、それを見抜いていた。
「談話を発出することが目的になっている」
「それは国益に反する」

鋭い。
そして、正しい。

石破は、「談話ではなく“見解”」と逃げ口上を使う。
だが、国際的には「首相の見解=国家の立場」である。
しかも、それを“閣議決定しないから軽いものだ”などと表現する時点で、すでに国民を欺いている。

これは、“発出ありきの政治ショー”だ。

なぜ、そこまでして出したいのか。
その理由は、彼の“自己顕示欲”に尽きる。

歴史に名を刻みたい。
安倍晋三が築いた「戦後保守の完成系」を、自らの色に塗り替えたい。
そういう「私」の動機だ。

しかも、内容があまりにも危うい。
“未来志向”と言いつつ、過去の謝罪に重きを置く構成案。
“加害と被害”という二元論を再強調。
自虐史観の復活。

これが、いま日本の首相がやろうとしていることだ。

すでに中国は、水面下で「歓迎ムード」を示している。
「日本が再び謝罪するのなら、対話の道が開ける」
まるで、80年談話を“カード”のように扱っている。

その構図に乗ってはならない。

謝罪外交は、何も生まない。
過去にどれだけ謝っても、要求は終わらなかった。
歴史は、交渉の材料ではない。
そして、誇りは“取引材料”ではない。

青山繁晴は、そこに怒った。
「談話ではない。これは野心だ」

言い得て妙だ。
石破の頭にあるのは、“国民”ではない。
“自分”だ。
この国の名を借りて、自分の名を残したい。
それは政治家としての野心ではなく、国家にとっての“背信”である。

さらに悪いのは、そのタイミングだ。
8月15日に出す。
なぜか。
それは、メディアが“感傷モード”になっているタイミングだからだ。

テレビは戦争特番を流す。
新聞は慰霊の言葉を綴る。
ネットには平和への誓いが並ぶ。

その中に「首相の見解」が混ざれば、批判は出にくい。
感情の中に、論理を埋もれさせる。

それを狙っている。

談話の中身だけでなく、その出し方までもが計算され尽くしている。
そして、その全てが“国民不在”だ。

青山だけでなく、多くの保守派議員がこの動きに警鐘を鳴らしている。
しかし、主流メディアはそれを報じない。
「感動的な言葉が並ぶ談話」として、美化して報道するつもりだ。

だからこそ、今声を上げなければならない。

これは、歴史の書き換えであり、国家の路線変更である。
保守派が守ってきた“戦後の矜持”が、まさに今、崩されようとしている。

もし、石破が談話を出せば、自民党は“保守政党”であることを放棄したに等しい。

国の名を借りて、自己の承認欲求を満たす政治家。
その危険性を、私たちは見逃してはならない。

歴史に名を刻みたいなら、誇りを守れ。
過去を引き出すな。
未来を語れ。

それが、真のリーダーの姿である。


第四章:石破内閣を支える者たちの罪

防衛と忠誠は違う。


「安全保障環境が不安定な今、政権を揺るがすべきではない。」

そう語ったのは、中谷元・防衛相である。
かつて自衛隊の制服を着ていた男が、政権の“防波堤”として発言する姿には、ある種の重みがある。
しかし、それは本当に正義だろうか。

浅尾慶一郎環境相はこう語った。
「内閣の一員として、しっかり支えていく。」

彼らは、「職責」と「忠誠」を履き違えている。
いや、履き違えたふりをして、“保身”に転じているのだ。

いまこの瞬間に必要なのは、“政権を守ること”ではない。
“民意を守ること”である。

参院選で自民党は歴史的大敗を喫した。
これは、「ノー」の民意である。

それに対して、政権は何をしたか。
総括せず、謝罪せず、続投を表明した。
それを無批判に支持する閣僚は、もはや“体制の装飾”でしかない。

中谷は「防衛省・自衛隊の停滞を許してはならない」と語った。
だが、政権が機能不全に陥っていることの方が、よほど国家にとってのリスクだ。
政治の正統性を失った政権に“軍事”を預けることこそ、危うい。

国民が不信を抱いている政権に命を預ける。
その矛盾に気づかぬふりをすることは、罪だ。

浅尾の「支える」発言にも、誠実さは感じられない。
彼の言葉は、まるで“自動応答機”のように空虚だ。
国民に対して何を支えるのか。
石破という人物の延命か。
それとも、自分の地位か。

この国には、「立場を守る」人間は多い。
だが、「真実を語る」人間は少ない。

自衛隊にとって、何が一番のリスクか。
それは、指揮系統の混乱ではない。
政策の停滞でもない。
「国民の信頼を失った政権に従わねばならない現実」だ。

中谷も浅尾も、現場を知らないわけではない。
それでも“石破内閣を支える”と言った。
それは、思想ではなく、空気に従ったのだ。

だが、空気で動く政治は、国を滅ぼす。
保守政治とは、“空気に抗う意志”でなければならない。

そして彼らは、「政権を守ることが安定につながる」と言う。

だが、政権が民意を裏切り、保守を捨てた瞬間から、その安定は“偽り”である。

国家を守るということは、軍事だけではない。
価値観、歴史、誇り、制度──
それらすべてを守ってこそ、真の“安全保障”だ。

自民党という組織の中で、「沈黙が美徳」とされる文化が根強くある。
だが、いま求められているのは“反逆の保守”である。

石破政権を「支える」ことが、国家にとって正しいのか。

中谷や浅尾のように、「内閣の一員として当然の発言」と自らを正当化する者たち。
その正当化の構造を崩すことが、真の保守派の役割だ。

立場にしがみつく者が、国家を導けるはずがない。
本物の保守とは、時に孤立してでも、正義を貫く者のことである。
その姿を、いま私たちはあまりにも見失っている。


第五章:船田元の“続投支持”という裏切り

保守を装った反保守の論理


「石破茂総理が一番ふさわしいと思っている。」
そう語ったのは、かつて経済企画庁長官を務めたベテラン議員・船田元だった。
その発言は、両院議員懇談会の中で浮き上がるように目立っていた。
なぜなら、ほとんどの議員が沈黙するか、石破続投に慎重な態度を見せていたからだ。

それでも、彼は「続投が望ましい」と言い切った。
その理由として挙げたのは、「自民党の負の遺産に向き合いながらやってきた」「年金法を通した」「予算を成立させた」など、政治家としての“実績”だった。

だが、この論理には決定的な欠陥がある。

第一に、「実績」という名の下に政権を延命すること自体が、民意の否定であるという点。

選挙は、民意そのものである。
参院選で自民党が大敗したということは、「今の体制は支持できない」という民の声が示されたということだ。
その声を無視して、「実績があるから続けろ」というのは、選挙制度そのものへの反逆である。

第二に、挙げた実績の多くは“官僚主導”の政策であり、石破個人のリーダーシップによるものではないということだ。
予算の成立、年金制度の見直し──それらは、与党であれば通常国会で通るものであり、「総理の手柄」ではない。

それを「石破氏の実績」として強調するあたりに、船田の“演出意図”が透けて見える。

第三に、彼の思想そのものが、保守とは言い難いことだ。

船田元は、過去に安倍晋三元総理の憲法改正への動きを「性急すぎる」と公然と批判していた。
それだけではない。
自民党が家族観や伝統文化を尊重する姿勢を示すたびに、彼は「もっと現実的であるべきだ」と冷笑するような態度を見せてきた。

彼にとって保守とは、「波風を立てない現状維持」であり、「国民の不満をやり過ごす技術」に過ぎないのだ。

こうした姿勢は、確かに永田町の空気には合っている。
だが、国民の生活にはまったく寄り添っていない。
保守派有権者が求めているのは、“伝統と誇りを守る意志”であって、“手慣れた現状維持”ではない。

保守政治とは、現実に媚びることではない。
現実に立脚しながらも、理想を持ち、国のかたちを整えることだ。
船田のような「現実主義者」は、実は最も保守から遠い存在なのだ。

そして、このような人物が「石破氏こそふさわしい」と語ることが、石破政権の本質を露呈している。

つまり、保守の皮をかぶったリベラル官僚政治。
そして、波風を避けながらも国民の声に鈍感な“体制維持病”。

保守派にとっての最大の敵は、こうした“偽保守”なのだ。
声は穏やか。
理屈も通っているように見える。
だが、結果的に「日本の根幹」を揺るがしている。

石破政権を支える船田のような人物の発言が、何の疑問もなく通ってしまう自民党。
それがいま、崩壊の瀬戸際にある。

本物の保守は、決して「なあなあ」ではない。
時に声を荒らげ、時に孤独でも、国家の大義を守ろうとする。
安倍晋三がそうであったように。
杉田水脈や高市早苗がそうであるように。

彼らは、「民意は票にしか現れない」と知っている。
だからこそ、落選しても声を上げ続ける。

だが、船田はどうか。
彼は選挙に負ければ、政界引退すればいい。
責任を取らずに、評論家のように語る未来が待っているだけだ。

その違いが、“保守か否か”を分けるのだ。

石破政権を延命させる言葉の裏には、こうした“温室の論理”がある。
それを見破らねばならない。

船田元の発言は、もしかすれば“誠実な意見”だったのかもしれない。
だが、その誠実さは“自己保身”から発するものだ。

国民に寄り添わず、現場を知らず、民意を上から眺めるような政治家に、これからの日本は託せない。

そして、彼が「石破がふさわしい」と言うならば。
私たちは、その逆を選ばなければならない。


第六章:メディアに踊らされる国民、沈黙する保守

情報空間の支配と“沈黙”という共犯関係


テレビをつければ「石破続投やむなし」、新聞を開けば「保守内に賛否両論」。
週刊誌は「官邸孤立」「側近の不安」、ネットでは「政権維持が安定」と繰り返す。
そのどれもが、“石破茂という男を正面から検証する報道”ではない。

メディアの本質は、事実を伝えることではない。
空気をつくることだ。

「この空気なら、異論を言いにくい」
そう思わせることで、国民の言葉を封じ、保守の意志を鈍らせる。
これは、報道の名を借りた“世論誘導”に他ならない。

とりわけテレビは酷い。
報道番組に出てくるのは、政界引退した元議員や、リベラル寄りの解説者ばかり。
石破氏を「冷静な戦略家」「安定の象徴」と称し、選挙敗北すら「痛みを共有した責任感」と持ち上げる。
まるで宗教の教義のような扱いだ。

なぜこんなことがまかり通るのか。
それは、保守が沈黙しているからだ。

SNSで声を上げる保守論者はいる。
しかし、テレビや新聞という“公共性を装った空間”では、彼らの声は届かない。

しかも、保守系の政治家ですら、メディア批判を控える傾向にある。
なぜか。
メディアとの関係を悪化させれば、自らの言論の場を失うと恐れているからだ。
この“メディア依存”の構図が、保守をして“無言の共犯者”にしている。

だが、それではダメなのだ。
保守とは、沈黙しないことだ。
守るべきものがあるならば、たとえ敵が大多数でも、言葉を投げ続けねばならない。
杉田水脈がそうであったように。
有村治子がそうであるように。

日本の保守は、言葉の戦場から撤退してしまっている。
だからこそ、空気は簡単に塗り替えられる。
その結果、「石破続投が既定路線」のような錯覚が国民に染みつく。

メディアの責任は重い。
だが、それを許しているのは“沈黙した保守”なのだ。

ではどうすればいいか。

まず、情報に“距離”を持つことだ。
目に入る情報をうのみにせず、誰が発信しているか、なぜ今その情報なのかを考える習慣を持つ。

次に、地上波や大手新聞から一歩引いて、保守的視点を持つ発信源を意識して選ぶことだ。
ネット、YouTube、独立系メディア──そこにはまだ、真っ当な保守の言葉が生きている。

そして最後に、私たち自身が“語る側”に回ることだ。
SNSでも、家族との会話でも、居酒屋でもいい。

「今の政権はおかしい」「石破氏は信任されていない」
その一言が、空気を変える火種になる。

沈黙こそが、日本を壊す最大の力になる。
そして声を出すことこそが、保守の最大の武器になる。

石破茂氏の続投問題をめぐって、メディアはその“神格化”に手を貸している。
だが、そんな虚像に国民がいつまでも騙される時代ではない。

保守が語らなければ、保守は消える。
そして、国を支える本当の軸が消えてしまうのだ。

それだけは、絶対に避けなければならない。

だからこそ、沈黙してはならない。
保守は、今こそ“声”を取り戻すべき時なのだ。


あとがき:沈黙を破る時は今だ


この一冊を、ここまで読んでくださった方に、まず深く感謝を申し上げたい。
あなたがこうして時間をかけて、この国の政治に向き合おうとしていること、それこそが“希望”の証である。

石破茂首相の続投。
森山裕幹事長の“英断”。
そして、沈黙を決め込む保守系政治家たち。

一見、それぞれに異なる文脈の中にいるようでいて、実はすべてがつながっている。

それは、“無責任の連鎖”だ。

国民が言葉を失い、政治家が責任を逃れ、メディアが空気を作り、党内での処分も甘い。
そんな現実が、あたかも当然のように積み重なっていく。
そして気づけば、国家の根幹が、少しずつ蝕まれていく。

私は、これを見過ごすわけにはいかなかった。

だから書いた。

この文章は、誰かをただ叩くためのものではない。
ましてや炎上を狙った挑発でもない。

これは、“声”の奪還運動だ。

日本という国は、決して政治家だけで回っているわけではない。
官僚や経済界、メディア、そして何より国民一人ひとりの判断と責任感によって支えられている。

だが今、その国民の多くが“黙らされている”。
いや、“黙ることに慣れてしまっている”。

それこそが、日本最大の危機だ。

石破政権の問題は、単に政権運営のミスではない。
日本の保守政治が、ここまで脆くなってしまったという事実を、私たちに突きつけているのだ。

沈黙は、政治の腐敗を助ける。
そして沈黙は、思想の空洞化を招く。

だから、あなたにお願いしたい。

一歩、声を出してみてほしい。
家族と政治について話すでもいい。
SNSで小さな意見を投稿するでもいい。

「これはおかしい」と言える自分を、取り戻してほしい。

言葉は、空気を変える力を持っている。
空気が変われば、政治も動く。

その連鎖の第一歩を、今、あなたが踏み出してほしい。

これは終わりではない。

むしろ、ここから始めるべき闘いなのだ。

保守とは、守るべきものを守り抜く覚悟である。
そしてその覚悟は、声を上げる勇気と、行動する意志によって初めて本物になる。

声を失った保守は、もはや保守ではない。
声を取り戻す者だけが、この国を再び立て直す希望となる。

あなたの“声”に、未来がかかっている。

─さあ、沈黙を破る時が来た。



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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)