【まえがき】


この国は、なぜこんなにも簡単に嘘を飲み込み、誤魔化しを見逃し、言い訳を肯定するようになったのか。
それは多分、「嘘をつく政治家」が増えたからではない。
「嘘を許す国民」が慣れてしまったからだ。

石破茂という政治家。

政権を握り、選挙に敗れ、民意を無視し、居座り、責任から逃げ続ける。
それはもはや、政治ではない。
ただの「個人的な延命工作」だ。

この国の未来を、そんな男に任せていていいのか?
そう問いかけるために、この記事を書いた。

石破茂が総理になったとき、少なくとも一部には期待があった。
「話せる政治家」
「理性的な保守」
「既得権益に忖度しない硬骨漢」
そんなイメージが、まだ残っていた。
だが、イメージは現実を救わない。
政治とは、イメージで語るものではない。
言葉ではなく、行動によって示されなければならない。

そして、彼が示したのは、あまりにも凡庸で、あまりにも自己中心的な「居座りの論理」だった。
参議院選挙で惨敗し、党内からも続投に疑問の声が噴出する中、
彼は「逃げずに説明する」とだけ繰り返した。
説明すれば許されるとでも思っているのか?
いや、説明は責任の代替物ではない。
むしろ、説明することで責任を回避しようとする彼の態度は、政治家として最低の姿勢である。

選挙は、国民の意思だ。
その意思に従って、去ることこそが民主主義の根幹である。
それを「戦略的説明」でかわそうとするならば、それはもう政治ではない。

詭弁だ。
自己保身だ。

さらに言えば、石破茂の問題は、彼一人のことではない。
この国の政治全体が、「責任を取らない文化」に蝕まれている。
政治家は言い訳をし、官僚は書類を捏造し、メディアは本質をぼやかす。
だが、それを見逃しているのは、私たち国民である。

我々は、なぜこんな政治を許してしまったのか。
なぜ、選挙に行かなかったのか。
なぜ、「まあ誰がやっても同じだ」と嘆くだけで終わってしまったのか。

だが、今回の参院選で、一つの光が見えた。
若者が、保守層が、無関心だった層が、参政党という“選択肢”に目を向けた。
これは単なる政党の躍進ではない。
国民が、「新しい保守の形」を模索し始めたという明確なシグナルだ。

石破茂という「かつての希望」が終わろうとしている今、
我々は次の問いを持たなければならない。

これからの日本を、誰に託すのか。
真の保守とは何か。
国を守るとはどういうことか。
歴史と向き合うとは、どういう姿勢なのか。

この本は、単なる政権批判ではない。
保守の再定義であり、政治の再起動を促すための、「痛みを伴う再出発」の書である。

私は、読者に問いかけたい。
あなたは、まだ石破茂に日本の未来を任せられると思いますか?
あなたは、「説明責任」という言葉に、まだ信じる力を残していますか?
そして――あなたは、もう一度“怒る覚悟”を持てますか?

もしこの問いに、心のどこかで「YES」と答えられるなら。
あなたと共に、この政治の腐臭に立ち向かいたい。
沈黙は、もう終わりだ。

さあ、はじめよう。

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第一章:「逃げずに説明」という嘘

自己正当化のための言葉遊び


「逃げずに説明する」。
その言葉を聞いたとき、誰もが一瞬、誠実な政治家の姿を想像した。
だが、それは幻想だった。

石破茂は、説明するためにその場に残っているのではない。
ただ、辞めたくないだけなのだ。

その姿勢は、まるで会社のトップが大赤字を出しながら「私にはまだ説明責任がある」と机にしがみつくようなものだ。
責任とは、言葉で果たすものではなく、結果で果たすものである。
説明することによって責任を回避するなど、笑止千万だ。
それは「責任放棄」の言い換えに過ぎない。

彼の「逃げずに説明する」という言葉が報じられた時、多くの国民はため息をついた。
またか。
またこの論法か。
敗北しても説明すればいい。
不祥事があっても記者会見を開けばいい。
政治家が自らを“説明人間”に置き換えた瞬間、日本の政治は「詭弁と保身の空間」となった。

記者団の前で「続投に変わりはないか」と問われた石破茂は、「ございません」と即答した。
あまりにも自然な応答だった。
その自然さこそが、彼の本心を物語っている。
彼の中には「退陣」という選択肢は、端から存在していないのだ。

これは非常に重要なポイントだ。
選挙に敗北しても、「辞める」という発想が生まれない。
それは、“選挙が政治家の評価指標である”という基本原則を忘れてしまったことを意味している。

石破茂は、選挙敗北を「民意の一側面」として扱い、「大局的な判断」として政権を維持しようとした。
だが、その“戦略的説明”は、実際にはただの“現実逃避”に過ぎなかった。

支持を得ることと、権力に居座ることの違い

民主主義において、政治家は信任によって存在が許される。
信任とは、支持されること。
そして支持されるとは、「選挙で票を得ること」だ。
だが石破茂は、それを自分の中で都合よく書き換えた。
「政権を任された責任を果たすために、私は続ける」

その論法は、一見正しそうに聞こえる。
だが、極めて危険な独善だ。
責任を果たす方法は、「結果を出す」ことであり、「任期を全うする」ことではない。
しかもその任期は、国民が信任しなければ無意味である。

石破茂が言う「説明責任」は、もはや“言い訳責任”に変わってしまっている。

言葉だけが浮遊し、行動が伴わない。
国民の失望はそこにある。

彼の言葉がどれほど流暢でも、そこに“真実”がなければ、人の心は動かない。

「逃げずに説明する」と言うなら、なぜ退陣という選択肢を示さないのか。
なぜ「私に代わる人がいない」などと平然と言い切るのか。
その傲慢と怠惰こそが、日本の政治を腐らせている元凶なのだ。

言葉のうまさは、もう武器にならない


石破茂は、言葉の巧さでここまで登ってきた。
「理路整然」「政策通」「軍事に詳しい」
そうした肩書きが、彼の政治生命を支えてきた。
だが、選挙という“結果”が彼を否定した。
その時、必要だったのは、「潔さ」だった。

だが彼は、「説明」へ逃げた。
逃げた先に待っていたのは、“誰にも響かない言葉の連続”だった。
国民は、もう「説明上手な政治家」に飽きている。
欲しいのは、行動力と責任感。
そして、それが伴わなければ、いくら言葉を重ねても、信は戻ってこない。

石破茂という男は、「説明」を使って自らを守ろうとした。
だがその姿こそが、彼の「政治家としての終焉」を象徴していた。

政治とは、責任である。
説明ではない。

そして、責任とは、時に“去ること”で果たすものだ。
その真理に気づけない政治家に、未来は託せない。

この第一章では、“言葉だけの政治”がいかに国を腐らせるかを検証した。
次章では、その裏にある「倒閣勢力への敵意と被害者意識」について、さらに深く切り込んでいく。

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第二章:倒閣の気配に敵意むき出し

被害者を装う加害者の論理


2025年7月23日、一部メディアが「石破首相が退陣へ」と報じた瞬間、政界に妙な空気が流れた。
いや、もっと正確に言えば、石破茂の心に“敵”という二文字が刻み込まれた。

首相官邸は即座に反応した。

「倒閣勢力に仕掛けられた」
「党内の一部が流した偽情報だ」

被害者を装いながら、その実、加害者である者の典型的な反応だった。
情報操作だ、陰謀だと騒ぎ立てる者ほど、自分が信頼を失っている現実から目を背けたがる。

ここには、石破茂という人物の“本性”が露骨に現れている。
彼は、政治の失敗を“他者の陰謀”とすることで、責任を転嫁しようとしていた。
まるで、失敗した事業家が「悪いのは部下」「裏切り者がいた」と叫ぶように。

陰謀論が支配する政権中枢


官邸内部では、「退陣報道は意図的なリークだ」という前提で、対抗策が練られていたという。
「情報源は党内だ」
「旧安倍派が裏で動いている」

そんな疑心暗鬼の空気の中で生まれたのが、「続投による主導権回復」という歪んだ戦略だった。
本来、退陣とは「潔さの象徴」であるべきだ。
だが、石破茂にとっては、退陣は「敗北」だった。
だからこそ彼は、自らを守るために政敵を作り出し、全ての反対意見を“倒閣の策動”と解釈した。

この構造は、非常に危険だ。
なぜなら、すべての批判を“敵意”として扱い、建設的な意見すら排除するからだ。
政権の中枢が「陰謀に支配されている」という前提に立ったとき、そこに“対話”は存在しない。
あるのは、疑念と報復だけだ。

進退判断が“報復劇”にすり替わる


石破茂は、選挙後の数日間、退陣の可能性も視野に入れていた。
アフリカ開発会議の後、終戦記念日までに進退を表明する。
そのタイミングこそが、自らの“花道”だと考えていた節がある。

だが、報道が先に出てしまった。
それが彼の「プライド」を激しく刺激した。
「先に仕掛けられたなら、辞めるわけにはいかない」
そうやって、“退陣”が“報復劇”にすり替わったのだ。

政治の進退を、感情で決めてはならない。
だが今の石破政権は、すべてが“感情”で動いている。
“誰に裏切られたか”
“誰に出し抜かれたか”
そんなことばかりを気にし、「国民はどう思っているか」をまるで見ようとしない。

石破政権の“敵”は、国民の声だった


皮肉なことに、石破茂が最も恐れているのは、党内の裏切りではない。
彼が本当に恐れているのは、「民意」そのものである。
選挙という“真実”が、彼に突きつけた「辞めろ」という声。
その声が、何よりも彼の内面を破壊している。

だからこそ、彼は党内の反対を「倒閣勢力」と断じ、
メディアを「仕掛け人」と扱い、
国民の批判を「操作された空気」として片づけた。

これこそが、“被害者を装う加害者”の本質である。
石破茂は、国民の意思から逃げている。
そして、その逃げる姿を“戦っている”というレトリックで誤魔化している。

彼にとって、最大の敵は“現実”だ。
“国民が選んだ事実”こそが、最も都合の悪い真実なのだ。

この章で描かれたのは、「自壊する政権」の内部構造である。
次章では、完全に孤立しつつある石破茂の姿、そして誰も助けない現実を炙り出す。

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第三章:籠城する指導者、孤立する政権

誰も助けない


石破茂は、もはや孤立している。
だが、そのことに気づいていない。
いや、気づいているのかもしれない。
ただ、認めたくないだけなのだ。

29日の両院議員総会。
石破は「逃げずに説明する」と語り、退陣を否定した。
だが、その説明に誰が耳を傾けていたか。
党内は冷ややかだった。
報道陣は疲れていた。
支持者ですら、どこか目を伏せていた。

これは政治の末期症状だ。
誰も助けない。
誰も止めない。
ただ、惰性で続いていく。

森山裕幹事長が「辞任の可能性」に触れたことは、まさにその象徴である。
政権を裏で支えてきた“影の総理”が口にした「辞めるかも」という一言は、
この政権の終焉を意味していた。

政権とは、たった一人では運営できない。
それを支える人間がいて、はじめて機能する。
だが今、石破政権を支える者は、ほとんどいない。
形式的な支持を表明する者がいるだけで、
実質的な助力者は誰もいない。

それでも彼は、続けると言う。
“私にはまだやるべきことがある”
“今、私が辞めるわけにはいかない”

その言葉が響かないのは、行動が伴っていないからだ。
言葉だけが空中をさまよい、誰の心にも届かない。

「俺は悪くない」政権の行き着く先


麻生太郎の側近が語ったという言葉がある。
「俺は悪くない、と信じる首相を辞めさせるのは難しい」
この一言が、すべてを物語っている。

石破茂は、敗北の理由を自分に求めない。
「党内が割れたからだ」
「保守票が分散したからだ」
「メディアが過剰に煽ったからだ」

だが、それらはすべて副次的な要因にすぎない。
根本は、「石破茂という政治家が、もう信任されていない」という事実だ。

その事実から目を背ける限り、どんな政策を出しても、どんな演説をしても無駄だ。
信がなければ、政治家としては終わっている。

だが石破は、それでも辞めようとしない。
彼にとって「辞めること」は、「負けを認めること」だからだ。
そして彼は、負けを認めない。

政治家が、「敗北」を認められなくなったとき。
その人物は、もはや政治家ではない。
ただの「椅子にしがみつく人間」に過ぎない。

官邸という名の“地下シェルター”


今の石破は、首相官邸という“地下シェルター”にこもっているように見える。
外の声を遮断し、身内とだけ会話し、記者会見も選び、SNSは発信するだけ。
双方向性を完全に失ったその姿勢は、情報時代の政治家としては致命的である。

国民の怒りは、ゆっくりと静かに膨らんでいる。
それは、怒号でもなければデモでもない。
むしろ、「黙って票を変える」という最も冷ややかで、最も残酷な民意の形である。

その兆候にすら気づかず、石破は「私は説明している」と胸を張る。
それが、どれだけ空虚で、滑稽か。
本人だけが気づいていない。

沈黙という名の見放し


今、石破茂を本当に見限っているのは、もしかしたら“支持者”たちかもしれない。
応援してきた人々が、言葉を発しなくなった。
SNSで名前を出さなくなった。
新聞で擁護する論説も減った。

それは、批判ではない。
だが、それ以上に深い“無関心”のサインである。

政治家にとって、本当に恐れるべきは「敵の声」ではない。
「支持者の沈黙」である。

もう期待していない。
もう怒ることすら疲れた。
だから、何も言わない。
それが、いま石破茂を取り巻く“冷たい現実”だ。

「孤独な指導者」ではなく、「孤立した無責任者」


世間には「孤独を抱えても信念を貫く政治家」がいる。
だが石破は違う。
彼は「孤独」を選んだのではなく、「孤立した」のだ。
そしてその原因は、彼自身にある。

党内の声に耳を貸さず、民意に向き合わず、ただ自分のタイミングだけを信じた。
その結果が、今の“孤立無援”である。

それでも彼は「私は孤独でも信念を貫く」と語るだろう。
だが、その言葉に説得力はない。
信念とは、他者との関係の中で成立するものであり、
全方位に対して扉を閉ざした者に、“信念”を語る資格はない。

この章では、“誰からも支持されない指導者”がいかにして誕生するかを描いた。
次章では、その背景にある保守層の変化と、参政党への移動という構造変化を追う。

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第四章:参政党に流れた“保守の怒り”

自民党ではもう戦えない


2025年参議院選挙。
与党・自民党がまさかの過半数割れ。
その裏側で、静かに、しかし確実に蠢いた“民意の大移動”があった。
参政党――その名前を、誰もが一度は聞いたことがある程度の新興政党。
だが、今回の選挙で彼らは14議席を獲得し、衝撃的な躍進を遂げた。

これは偶然ではない。
これは抗議でもない。
これは“意思”である。
保守層が、自民党を見限ったという“意思”だ。

横浜商科大学の田中辰雄教授によるアンケート調査が、この変化を裏付けている。
自民党にかつて票を投じた588人のうち、65人が参政党に鞍替え。
さらに、これまで投票に行かなかった678人のうち、66人が参政党に票を投じていた。
この数字の裏には、“目覚めた保守”という新しい構図がある。

特に顕著だったのは、20代〜40代の若年層。
いわゆる“政治に冷めた世代”が、今回だけは動いた。
なぜか?
それは「このままでは日本が壊れる」という漠然とした危機感が、彼らの心を捉えたからだ。

そして、その危機感の矛先が向けられたのが、まさに“石破政権”だった。

「保守」になりきれなかった政権


自民党は、名目上は保守政党である。
だが、石破政権が打ち出した政策の数々は、明らかにリベラル寄りだった。
夫婦別姓の推進。
外国人労働者の緩和。
戦後80年談話による歴史観の再定義。

これらの政策は、“保守”の名の下では受け入れがたい。
むしろ、「これは立憲民主党の政策なのか?」と疑われても仕方がない内容だ。

政治家の言葉ではなく、政策の中身を見ていた保守層は、静かに失望していた。
そして、その失望が、今回の“票の移動”に繋がったのである。

保守という思想は、単に「昔を懐かしむこと」ではない。
「国家の形を守り、未来に継承する」ことだ。
その哲学を裏切った石破政権は、もはや“保守政権”と呼ぶには程遠い。

だからこそ、保守層は「別の選択肢」を求めた。
それが、参政党だった。

「高市早苗が総理だったら」という仮定


田中教授の調査では、さらに興味深いデータがある。
「もし石破茂ではなく高市早苗が自民党総裁だったら、自民に投票したか?」という設問に対し、参政党に投票した人の27.4%が「Yes」と答えている。

これは、単なる人物人気ではない。
「政策に対する信頼」
「姿勢に対する納得」
「国家観に対する共鳴」
そういった総合的な要素が、国民の中で高市氏への期待として結実していたのだ。

それに対し、石破茂には何があったか?
弁舌?
防衛知識?
メディア受けの良さ?

そのどれもが、選挙という“結果”の前では、無意味だった。
政治家は、語るだけではなく、“信頼を託される存在”でなければならない。

高市氏には、その「託すに値する姿勢」があった。
石破茂には、それがなかった。
それだけのことだ。

「無関心層」が動いたという現実


今回の参議院選で最も驚くべきだったのは、“これまで政治に関心を持たなかった層”が、初めて行動に出たという点である。
特に、30代の男性。
20代後半の地方在住者。
「選挙なんて行っても変わらない」と嘆いていた人々が、突如として参政党に票を入れ始めた。

彼らは、政治思想で動いたのではない。
「このままじゃマズい」という、危機感と直感で動いたのだ。

その感覚こそが、今の保守層の本音である。
もはや「自民党=安心」ではない。
「何かを変えたい」
その思いが、票を動かし、政治を揺さぶった。

そして、忘れてはならないのは、これが“始まり”であるということだ。

自民党への最後通告としての「参政票」


参政党に投票した保守層の多くは、根っからの反自民ではない。
むしろ、かつては熱烈な支持者だった。

だが、石破政権が自民党の「保守DNA」を抜き取ったとき、
彼らの心の中で、“赤信号”が灯った。

それは怒りではなく、失望だった。
そして、失望の果てに、「最後の賭け」として投じられたのが、参政票だった。

これは、自民党への“最後通告”である。
「このままなら、私たちはもう戻らない」
「私たちは、見限ることを覚えた」

この恐るべきメッセージを、石破政権は直視しなければならない。
見ないふりを続けるならば、保守層の“本当の離反”が始まる。
その時、自民党は“名前だけの看板”になるだろう。

この章では、参政党に流れた保守層の怒りと、その理由を明らかにした。
次章では、その怒りをさらに加速させた「戦後80年談話」の構想と、その危険性について掘り下げていく。

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第五章:戦後80年談話が暴く「石破の正体」


戦後80年。
その節目に、石破茂首相は「談話」を出そうとしている。
だが、その構想が漏れ聞こえてくるたびに、背筋が寒くなる。
それは、反省でも、未来志向でもない。
ただの“自分語り”であり、過去の亡霊に媚びるような文章だ。

西村康稔元経済産業相は、こう断じた。
「不要である。無用な混乱を招くだけだ」と。
まさに、その通りだ。
石破氏の談話には、「戦後に終止符を打つ」気迫もなければ、
「未来に向かう」構想もない。
あるのは、歴代総理に並びたいという浅ましい自己顕示だけだ。

戦後70年、安倍晋三元首相が発表した談話には、
有識者会議の議論を経た重みがあった。
「あの談話が最後であるべきだ」と、多くの国民は理解している。

では、なぜ石破氏は80年談話にこだわるのか。
政権の求心力を高める材料として“過去”を利用しようとしているからだ。

だが、過去を弄ぶ者に未来は語れない。
それどころか、国際社会に対して“日本はまた謝罪外交を繰り返すのか”という誤解を与える。
中国や韓国にとっては格好の材料だろう。
「やはり日本は反省が足りない」と、永遠に言われ続けるための口実になる。

そして忘れてはならないのは、石破政権がこの談話を利用して、
「保守」と「反省」を混同させようとしている点だ。

保守とは、過去を反芻することではない。
未来に責任を持つことだ。
だが石破氏にとって保守とは、
「弱腰外交を正当化するための免罪符」にすぎない。

この談話が発表されれば、自民党内の分断はさらに深まる。
旧安倍派、保守派は完全に切り捨てられる。
「石破の自民党」として、党そのものがリベラル化していくのだ。

言葉は、ナイフになる。
戦後80年という重みを、石破氏は“言葉遊び”に変えようとしている。
だが、そんな談話は、国民の魂には届かない。
届いても、痛みとして残るだけだ。

国民の歴史観、アイデンティティ、そして誇りまでも、
その談話は、静かに踏みにじることになる。

そんな暴挙を、我々は黙って見過ごしていいのか。
次章では、保守再編と「連立組み替え」という動きについて、
さらに深く掘り下げていく。

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第六章:保守再編と「連立組み替え」の本質


今、日本の保守政治は新たな境界線を迎えている。
石破茂首相が放つ“リベラル偽装の保守”に対し、
かつて旧安倍派に属していた重鎮たちが明確な“NO”を突きつけ始めた。

その象徴が、世耕弘成氏の動きだ。
パーティー券問題で自民を離党しながらも、
復党に意欲を見せ、テレビ番組で「石破ではもうもたない」と明言。
西村康稔氏や萩生田光一氏と並んで“石破交代”を叫んだ光景は、
もはや一派閥の意思ではなく、党全体の「無言の総意」に近づきつつある。

この動きが意味するのは、単なるリーダーシップ争いではない。
保守陣営そのものの“再編”だ。

日本維新の会、国民民主党との“連立再構築”を視野に入れた再編構想。
それは石破氏のリベラル志向を排除し、
真正保守の再結集を目指すための政界再編にほかならない。

だが、その中で最も注目すべきは、
彼らがもはや「自民党」という器にこだわっていない、という事実だ。

旧安倍派の一部は、すでに別動隊として動いている。
裏では参政党や維新と接触し、
“次の政権”のシミュレーションを静かに始めている。

「国民民主と組むなら、石破では話にならない」
「維新の改革路線に合うのは、高市早苗か、有村治子だ」
そうした声が現実味を帯びてきた。

ここで問いたい。
石破茂首相に、この保守再編の波を乗りこなす器量があるのか。
答えは、明白だ。
「NO」である。

彼がこの政局の中でしているのは、
自らの延命と引き換えに、党内の右派を切り捨てる“思想的トレード”だ。
保守の精神を売り渡して、立憲民主や連合との協調路線を模索する。

そんな“擬似連立”に、未来などあるはずがない。

だからこそ、いま政治家たちは動き始めたのだ。
真に国民の声を受け止める“保守の器”を取り戻すために。

この章の終わりに、強く言っておきたい。
連立再編は、ただの政局ではない。
それは「日本を誰が守るのか」という、
この国の根幹に関わる戦いである。

石破茂首相には、その覚悟が見えない。
そして、覚悟なき者が背負うには、この国はあまりに重い。

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第七章:日本保守の原点回帰――今こそ立ち戻る時


保守とは何か。
その問いを、今この瞬間ほど切実に噛みしめなければならない時代はない。

かつて「保守」は、伝統と秩序を守り、国家と家族、郷土と歴史に責任を持つ生き方であった。
そこには、軽薄なポピュリズムも、数合わせの連立ゲームも存在しなかった。
理念が先にあり、妥協はその後にあった。

だが今、石破茂という男は、保守の衣を借りながら、魂を売り払った。
戦後八十年談話で歴史を相対化し、国際社会への迎合で主権を譲り、保守層から支持を受けた高市早苗議員を冷遇した。
それはもはや「保守」ではない。
「偽装保守」であり、看板を騙る破壊者である。

真の保守に必要なのは、“怒り”だ。
それも、内向きで自己保身の怒りではなく、国家と子孫への責任から生まれる怒りである。

我々は、今こそ原点に立ち返るべきなのだ。
戦後レジームという幻想から抜け出し、日本人としての矜持を取り戻すために。

参政党の登場、自民党保守派の反旗、世論の覚醒。
これは単なる偶然の集積ではない。
必然だ。
国家を破壊する勢力に対する、免疫反応だ。

今、この国に必要なのは、冷笑でも無関心でもない。
「覚悟」だ。
保守とは、覚悟である。
己の立場を守ることではなく、未来の子どもたちのために声を上げることだ。

石破茂政権が、何を破壊したのか。
それを知った我々は、もう後戻りはできない。

保守の原点回帰とは、政治信条の話ではない。
日本人の生き方の話なのだ。
その原点に、今こそ、立ち戻ろうではないか。

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第八章:石破的政治の終焉と、その先にある希望


すべての病には終わりがある。
そして、終わった病のあとは、静かに治癒が始まる。

石破茂という政治家が象徴したもの、それは“自民党の中に生まれたリベラルの寄生虫”であった。
言葉は強いかもしれない。
だが、今ここでそれを言い切らなければ、未来の政治もまた曖昧なままに流されることになる。

参政党の台頭、自民党保守派の奮起、そして国民の覚醒。
これらは偶然ではない。
民意という静かな怒りが、長い沈黙の時代を終わらせようとしている。

戦後80年談話に象徴される歴史のリセット。
籠城的政権運営、民意との断絶、敗北を敗北と認めぬ姿勢。
これらはすべて、「終わりの始まり」だったのだ。

日本は今、次の扉の前に立っている。
その扉を開く鍵は、「誰が首相か」ではない。
「どんな日本を選ぶのか」なのだ。

希望は、ある。
それは、政治的な顔ぶれの変化だけではない。
有権者一人ひとりの覚悟と選択、その累積によって、日本の未来は変わる。

石破茂的な政治スタイル――民意軽視、責任転嫁、理念なきリーダーシップ――が終わるなら、それは日本が本来持っていた「保守の品格」への回帰を意味する。

未来の政治には、誇りがなければならない。
国民の言葉を真正面から受け止め、勝った者は謙虚に、負けた者は潔く。
その美意識が蘇るとき、我々はようやく「戦後」から卒業できる。

そしてその時には、こう書かれた歴史が生まれるはずだ。

――令和七年、日本は一人の政治家を退場させた。
だが、退場させたのは彼の肉体ではなく、「嘘に満ちた政治」そのものであった。

この章が終わるとき、あなたの中にもその決意が芽生えていることを、私は信じている。

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あとがき:この本を読み終えたあなたに、問いかけたい。


この国のリーダーは、誰であるべきか。
そして、あなたは誰を信じ、誰に託すのか。

石破茂という一人の政治家に象徴された「無責任の政治」は、長い時間をかけてこの国を蝕んできた。
だが、それを許してきたのもまた、我々自身だったかもしれない。

政治に無関心でいること。
選挙のたびに「誰でも同じだ」と口にすること。
「現状維持」を選び続けた結果が、この“居座り”の象徴なのである。

この書籍は、単なる人物批判にとどまるものではない。
それはむしろ、未来を変えるための「鏡」だ。

そこに映るのは、政治家の顔であると同時に、我々国民の表情でもある。

石破政権が退陣するその日が、単なる終わりではなく、真の始まりであることを願ってやまない。

保守とは、伝統を守ることだけではない。
時代に応じて改革し、次代に恥じぬ姿を紡ぐことだ。

この国に、もう一度「誇りある保守政治」を取り戻すために、言葉を重ねた。

信じている。
政治を諦めないあなたがいる限り、日本は、きっと立ち上がれる。

令和七年 夏。


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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)