【まえがき】
この国は今、じわじわと壊れている。
誰かが爆弾を投げたわけじゃない。
誰かが銃口を突きつけたわけでもない。
でも確実に、静かに、音もなく、足元から崩れていく感覚がある。
その理由を一言で説明することは難しい。
ただ、その中心にいる男の顔を思い浮かべれば、少しだけ腑に落ちる。
石破茂。
彼はなぜ、そこまでして権力にしがみつくのか。
なぜ、何も成し遂げないまま、首相の椅子に座り続けるのか。
なぜ、彼が口にする「責任」には、行動が伴わないのか。
この本は、石破政権の本質に肉薄するエッセイである。
新聞では報じられない「不条理」。
テレビがスルーする「危機」。
それらを真正面から直視し、言葉にし、記録するための闘いである。
これは、あなたに向けた挑発である。
この国の未来を、石破茂という個人の幻想に委ねてもよいのか?
答えは、ページをめくるたびに明らかになる。

第1章|口約束外交という犯罪
なぜか。
なぜ、あんなものを「合意」と呼ぶのか。
なぜ、文書もない、確認もない、サインもない、ただの口約束を「外交成果」として誇れるのか。
その神経が、理解できない。
石破茂は、2025年の夏を“成果の夏”と呼びたかったのだろう。
日本とアメリカが関税に関する合意に達し、いくばくかの譲歩と見返りが交わされた。
だが、それは誰が見ても、不均衡だった。
というより、“屈服”に近い内容だった。
金額を言おう。
83兆円。
日本が米国に対して提示した対米投資額である。
しかも、その9割以上が“アメリカの取り分”というのだ。
誰がどう計算しても、70兆円を超える巨額が、実質的に「プレゼント」として流れている。
この金の出どころは、どこか。
税金である。
つまり、あなたの給料から抜かれた源泉徴収の、その一部だ。
その金が、石破の“口約束”によって、海の向こうへ消えていく。
書類もなく、議会の承認もなく、説明責任も果たさずに。
これはもはや、政治ではない。
統治の逸脱。
官邸による専制。
あるいは、言葉を選ばずに言えば、“国家ぐるみの献上”だ。
石破茂は言う。
「この合意を実行する責任があるから、私は続投する」
違う。
それは“責任”ではない。
むしろ、“居座るための詭弁”だ。
文書も存在しない。
米国からの一方的な発表。
日本側は追認し、訂正せず、詳細を明かさない。
交渉に臨んだメンバーすら明かされない。
これでどうして「合意」なのか?
どうして「外交」なのか?
石破茂という男は、かつて防衛庁長官だった。
安全保障の世界に身を置いていた男が、国家間のやりとりにおいて文書を残さないという行為の意味を、分からないはずがない。
分かっていて、やったのだとすれば、なお悪い。
分かっていないのなら、それはもっと罪深い。
なぜ誰も止めなかったのか。
なぜ官僚たちは、黙っていたのか。
それは、石破政権がすでに「言葉を持たない政治」になっていたからだ。
言葉がなくても、声が大きければ正義になる。
説明しなくても、勝手に“成果”と名乗れば許される。
そんな空気が、永田町全体を覆っている。
メディアも同様だ。
新聞も、テレビも、「選挙に勝っていない首相が、なぜそこまでの外交権限を行使できるのか」という根本を問わない。
彼らが追及するのは、いつも“言葉尻”と“失言”だけ。
構造には切り込まない。
それが、今の報道の限界だ。
だから書く。
だから記す。
口約束は、外交ではない。
それは国家を売る手口であり、国民の生活を担保にした博打であり、未来の主権を分割して差し出す行為である。
それを「成果」と呼んだ男が、今もまだ総理大臣の椅子に座っているという現実。
この国は、もうギリギリのところまで来ている。

第2章|歴史は誰の手で書き換えられるのか
歴史とは、誰のものなのか。
それは国家のものか。
それとも為政者のものか。
あるいは、国民の記憶と痛みの集合体か。
その問いに、真正面から答える政治家を私は見たことがない。
だが今、石破茂という男は、まるで「それは俺のものだ」と言わんばかりの態度で、70年かけて築かれてきた“記憶の地層”を、 bulldozer でならそうとしている。
戦後80年。
彼はこの節目に、「新たな談話を出す」と言った。
閣議決定もなく、有識者会議も開かず、自らの発案で、ひとりで書くと言った。
まるで、エッセイを書くように。
談話とは何か。
それは、戦争責任と未来の国家像を結ぶ、政治的声明である。
それがひとりの政治家の“個人的所感”に矮小化されたとき、歴史は捻じ曲げられる。
いや、塗り替えられる。
安倍晋三元首相の70年談話は、国際的にバランスが取れていた。
謝罪を明言し、戦争の悲劇を繰り返さない意思を示し、そして「未来世代に謝罪の宿命を背負わせない」と結んだ。
あの言葉には、敬意と戦略と、なによりも“矜持”があった。
だが石破茂は、これをなかったことにしようとしている。
過去の談話を“上書き”する構えを見せている。
それも、誰にも相談せずに。
この談話における最大の問題は、“正しさ”ではない。
“手続き”の欠如である。
一国の首相が歴史を語るとき、それはその国の「公式見解」として、後世に残る。
国内の教科書に載り、国際社会に引用され、外交交渉の前提になる。
それほどの影響力を持つ。
にもかかわらず、彼は「俺が書く」と言った。
まるで、政権末期の暴走老人のように。
歴史をどう語るかは、政治家の“姿勢”が問われる瞬間である。
それは、過去に対する敬意であり、現在に対する責任であり、未来に対する構想力である。
石破に、それがあるのか?
彼の口調には、理屈がある。
しかし、情がない。
彼の言葉には、正論がある。
しかし、痛みがない。
そして彼の語る歴史には、“国民の記憶”が、まるで存在しない。
談話は、首相の所有物ではない。
それは、この国に生きる私たち全員の“共有資産”だ。
その資産に、勝手に落書きする政治家が現れたとき。
国民は、ペンを取り返さねばならない。
沈黙は、もう贅沢だ。
今、歴史は、書き換えられようとしている。
私たちの眼の前で。
静かに、巧妙に、そして執拗に。
第3章|比較という名の暴露
たとえば。
ヨーロッパとアメリカが、同じように交渉のテーブルについたとき、そこには「対等」があった。
利益も、文書も、期限も、交渉官の権限も、すべてがシステマチックに整備されていた。
そして、結果としてEUは6000億ドルの投資を決定した。
だが、その中身は「民間投資」である。
企業が、リスクと引き換えにリターンを求めて動く。
資本主義のルールだ。
翻って、日本。
石破茂首相のもと、日本政府は米国に対し「5500億ドル」の対米投資を提示した。
しかも、9割が米国の取り分。
そして、肝心の資金源は「公的資金」だ。
つまり、民間ではない。
国民の血税である。
どちらが“まともな交渉”か。
答えは明白だ。
EUは、民間が主導し、国家は“後ろ盾”に徹した。
日本は、政府が前に出て、民間にリスクを負わせず、結果、国民に“献金”させた。
これはもう、交渉ではない。
献上である。
しかも、合意に関する文書は存在しない。
発表もアメリカ側が一方的に行い、日本政府はその“後追い”としてコメントを出すだけだった。
それでいて「これは歴史的合意だ」と言い切る。
歴史的、という言葉がこんなにも安っぽく聞こえたのは初めてだ。
もっと言えば、米国との交渉内容は非公開。
日本側からは誰が交渉したのかも不明。
なぜその金額なのか、なぜその比率なのか、なぜ文書を交わさなかったのか。
なにも説明されていない。
そして誰も、問わない。
比較してみると、石破政権の外交は、まるで「相手の言い値で買うだけの無能商人」のようだ。
いや、商人ですらない。
財布を開いて、「あとはお任せします」と言って店を出る“無責任な代理人”である。
この構図は、偶然ではない。
彼の政治姿勢がそのまま外交姿勢に反映されているだけだ。
説明を避け、責任を曖昧にし、プロセスよりも演出を重視する。
石破茂という政治家は、交渉をしない。
交渉“らしきこと”を演じる。
その演技が報道に乗り、報道が「合意」と言い、国民が「そうなのか」と思わされる。
これを情報統制と呼ばずして、何と呼ぶか。
EUの交渉では、議会審議もあった。
国内での説明責任も果たされた。
投資先企業の選定プロセスも公開された。
すべてが、透明だった。
透明性。
それが民主主義の根幹であり、外交の信頼性であり、未来の世代への最低限の礼儀である。
石破政権には、それがない。
ガラス張りではなく、スモークガラスで覆われた政治が続いている。
中で何が行われているか分からない。
でも、決まったことは押しつけられる。
この“比較”が明らかにしてくれるのは、単なる差ではない。
それは、政権の“本性”だ。
外交とは、言葉の芸術であると同時に、数値の科学でもある。
だが石破政権は、どちらも蔑ろにした。
数字を語らず、文章を残さず、感情だけを操作しようとする政治。
それは、国家運営ではなく、扇動である。
比較という名の暴露。
それが、この章の本質だ。

第4章|希望という名のリアリズム
絶望の反対は、幻想ではない。
それは現実である。
そして希望とは、現実の中にこそ宿るものだ。
今の日本政治において、もっとも現実的な希望を体現している政治家は誰か。
私の答えは明快だ。
高市早苗である。
彼女は、うまく笑えない。
だが、誤魔化さない。
そして、手を抜かない。
これは、政治家としての“リアル”である。
石破茂のように、記者の前で丁寧に語りながら、中身のない話を重ねる男とは違う。
彼女の言葉には、明確な対象があり、立脚点があり、理念がある。
高市早苗は、「反緊縮」の旗手だとされる。
つまり、財政出動を肯定し、国民生活を守るために国家が金を使うべきだという立場だ。
これは、今の日本において“過激派”に見られがちだ。
なぜなら、日本の政治とメディアは、「財政再建」という名の麻薬に侵されているからである。
プライマリーバランス至上主義。
国の借金ガー。
将来世代へのツケ。
そんな呪文のようなフレーズを、政治家も評論家も、学者も口にする。
しかし、それらは「現実」ではない。
現実は、違う。
現実は、目の前で物価が上がり、給料が伸びず、子育て世代が喘いでいる社会である。
そこに必要なのは、“金を出す政治”だ。
そして高市早苗は、その現実に目を逸らさず、真正面から向き合っている。
彼女の政策ブレーンには、安倍晋三元首相の経済政策を支えた本田悦朗元内閣官房参与、前日銀副総裁の若田部昌澄氏がいる。
この布陣は、言ってしまえば“実務者集団”である。
つまり、スローガンではなく、「どうやるか」に重点を置いている。
これは、石破茂との決定的な差だ。
石破は語る。
しかし、実行しない。
方向性は示す。
だが、道筋を見せない。
高市はその逆だ。
余計なことは言わないが、やることは明快だ。
そしてなにより、彼女の「外交観」は、日本という国の尊厳を前提に構築されている。
それは「媚びない」ということではない。
「対等であるべき」という信念である。
米国と対話するときも、EUと議論するときも、国家としての立場と役割を踏まえた上で主張する。
その姿勢は、石破の“迎合”とはまったく異質である。
もちろん、課題はある。
メディアは彼女を嫌う。
官僚も彼女を煙たがる。
しかし、それこそが“期待の裏返し”なのだ。
支配されていない政治家を、旧勢力は警戒する。
それは自然なことだ。
なぜなら、“コントロール不能な存在”が、最も厄介だからである。
つまり、高市早苗が嫌われるということは、彼女が“本物”である証拠でもある。
私は、誰かを崇拝するつもりはない。
だが、可能性のある存在には、きちんと光を当てたいと思う。
石破茂のように、椅子にしがみつくことで国家を劣化させる者がいるなら。
それに抗う者にこそ、次の希望を託すべきだ。
理想ではなく、現実に立脚した希望。
夢想ではなく、政策と覚悟のある旗。
それが、高市早苗という名前に集約される。
第5章|退陣を設計する方法
政治とは、構造である。
感情ではない。
気分でもない。
誰が好きとか嫌いとか、そんな個人的な感想で動くほど、国家は単純な機械ではない。
だからこそ、石破茂首相を退陣させるには、「構造的プロセス」が必要なのだ。
そしてそれは、今すでに視界に入っている。
両院議員総会。
これが、合法的に総裁を引きずり下ろす唯一の方法である。
自民党には、首相を選ぶ“二つの回路”がある。
ひとつは総裁選。
もうひとつが、両院議員総会だ。
総裁任期途中であっても、所属国会議員の過半数が求めれば、総裁交代は可能となる。
党則上も明文化されている。
つまり、いま必要なのは「数」だ。
そしてその数を動かすのが、「空気」だ。
議員たちは石破を恐れているわけではない。
世論の“逆風”を恐れているのだ。
「辞めさせろ」という声が大きくなればなるほど、彼らは安全な船に乗り換えようとする。
裏切りではない。
それが政治だ。
だから私たちは、「声」を上げなければならない。
石破退陣を求める署名活動。
SNSでの意思表示。
地元議員への手紙やFAX。
それらすべてが、議員の“言い訳”を消していく。
「私は民意に従っただけだ」と彼らが言えるように、舞台を整えてやる必要がある。
これを“演出”と呼ぶ者がいるなら、私ははっきり言おう。
政治とは、常に“演出”である。
議事録に載る言葉の背後にある空気こそが、本当の意味で政局を動かすのだ。
そしてこの空気を変える最大の契機が、8月8日に予定されている自民党両院議員総会である。
ここで何も動かなければ、石破は談話を出す。
談話を出せば、歴史が変わる。
歴史が変われば、外交と教育が揺らぐ。
たった一日の不作為が、十年の国難を招く。
だからこそ、政治に“休止符”は許されない。
さらに言えば、「ポスト石破」が見えなければ議員は動かない。
だからこそ、次の候補――高市早苗、岸田文雄、小泉進次郎など――の明確なスタンスと政策も、今のうちから検証し、発信しておく必要がある。
退陣の設計図とは、首をすげ替えるだけでは終わらない。
その後に何を描くかを含めて、「退陣の完成形」なのだ。
石破茂を倒したとして。
そのあとが空虚ならば、また別の“仮面”が現れるだけ。
我々は「NO」を突きつけるだけでは足りない。
「YES」を持たなければ、永遠に選ばされ続ける国民になる。
設計しよう。
倒すことだけでなく、建て直す工程まで。
それが、本物の「政治参加」だ。
第6章|黙っていたら、次はあなたが壊される
石破茂の政治が危ういのは、その政策内容ではない。
もっと本質的な問題がある。
それは、“無関心を武器にしている”ということだ。
説明しない。
答えない。
資料を出さない。
反論には沈黙。
追及されても「検討中」または「個人の見解にすぎない」。
これらの態度が、国民を疲れさせ、関心を奪う。
そして、関心を奪われた政治は、支配する者にとって最も都合がよい。
あなたが黙っているかぎり、彼らは“何でもできる”。
法律も変えられる。
税金も使える。
言葉も歪められる。
あなたが何も言わなければ、それが「同意」とされるのだ。
その先に待っているのは、“あなた”が壊される未来である。
教育。
医療。
年金。
保育。
防衛。
すべての制度が、少しずつ削られていく。
そしてある日、あなたの親が介護難民になり、子どもが進学を諦め、あなた自身が非正規雇用の泥沼に沈む。
誰のせいでもないように見える。
でも、すべての始まりは“政治”だった。
「自分には関係ない」と思っていた無関心。
それが、最大の脆弱性となって襲いかかってくる。
石破茂は、それを“前提”にしている。
説明しないことが、戦略なのだ。
あえて語らない。
責任を明示しない。
議事録も残さない。
それが、“壊す政治”のプロトコルだ。
しかし、我々には声がある。
意思がある。
そして選挙がある。
SNSという武器もある。
電話も、メールも、投書もある。
何より、「無関心ではいられない」現実が、すでに足元にある。
わが子の学校が崩れかけ、年金支給額が下がり、マイナカードで銀行口座が結ばれ、病院の窓口負担が上がる。
それでも、黙っていられるか?
沈黙は賛同と見なされる時代。
だから、何かを言おう。
何かを示そう。
小さくてもいい。
1票でもいい。
「壊される前に、声をあげる」。
それが、あなたが壊されない唯一の方法だ。
第7章|言葉を取り戻せ、日本の未来を救うために
言葉は、武器だ。
そして同時に、救いでもある。
この国の政治が壊れはじめたとき、最初に消えたのは“論理”ではない。
“言葉”だった。
空虚なフレーズが、霞が関と永田町を席巻した。
「丁寧な説明」
「国民の声に耳を傾ける」
「しっかりと対応する」
それらは、何も意味していない。
それなのに、意味のあるフリをしていた。
これは、麻痺だ。
言葉が本来持つはずの力。
それを使えば、社会は変わるという確信。
その感覚が、私たちの中から失われていった。
石破茂という政治家の特徴は、まさにこの“言葉の消去”にある。
彼はしゃべる。
とにかく、よくしゃべる。
丁寧で、誠実で、理知的な語り口だ。
だが、その実、語っているようで語っていない。
質問には答えない。
論点はずらす。
そして、誰の心にも届かない言葉を重ねる。
これは一種の“話術”だ。
論破でも、詭弁でもない。
もっと悪質だ。
「納得させずに黙らせる」技術である。
彼の政治は、この技術の上に成り立っている。
だから、私たちは今、言葉を取り戻さなければならない。
怒りの言葉。
希望の言葉。
事実を指摘する言葉。
責任を問う言葉。
それらすべてが、“民主主義”のエネルギーだ。
言葉を奪われた国は、沈黙するしかない。
沈黙する国は、壊される。
壊れた国では、未来は築けない。
だから、言葉を取り戻そう。
テレビが言わないなら、ネットで発信しよう。
新聞が報じないなら、SNSで拡散しよう。
居酒屋で愚痴るだけでは、政治は動かない。
だが、それを記録に残し、共有し、論じ合えば、世論になる。
世論は、政治を動かす。
これは真実だ。
「たった一人の声で何が変わるのか?」と笑う人がいる。
その人は、自分の“言葉の価値”を諦めた人だ。
あなたは、そうなる必要はない。
あなたの声は、武器になる。
正しく使えば、未来を守れる。
だから、今日からでも遅くない。
政治について話そう。
選挙について話そう。
候補者について話そう。
あなたの言葉が、あなたの生活を守るのだ。
この国には、まだ言論の自由がある。
だから、最後の砦はあなたの中にある。
さあ、口を開こう。
言葉を投げよう。
沈黙を破れ。
それが、日本を救う唯一の方法だ。
あとがき
この原稿を書き終えた瞬間、背筋を冷たい風が撫でた。
それは達成感ではなく、覚悟の感触だった。
石破茂首相に向けた一連の批評は、単なる政局批判ではない。
この国の、未来への執着であり、願いであり、警鐘である。
政治は、時として“遠い存在”のように語られる。
だが、実際は、日々の暮らしに深く染み込んでいる。
保育園の入園通知、病院の診療時間、年金の明細書。
それらすべての背後に、誰かの決断がある。
そしてその決断に影響を与えるのが、“あなたの声”であることを、もう一度思い出してほしい。
この書を通じて、私は繰り返し「声を上げよ」と呼びかけた。
それは決して怒鳴れという意味ではない。
沈黙から一歩踏み出し、自らの意思を表すこと。
SNSに投稿する。
政治家にメールを送る。
近所の人と話す。
それだけで、空気は変わる。
石破茂首相という存在は、象徴にすぎない。
“言わない政治”“動かない政治”“責任を取らない政治”。
それらが結晶化した先にいたのが、彼だったというだけだ。
だが、彼を退かせたからといって、国が変わるわけではない。
むしろ、そのあとが本番だ。
私たちは、常に次を見なければならない。
次の指導者。
次の制度設計。
次の危機管理。
この国の未来を他人任せにしないために、問いを持ち続けること。
「なぜそうなったのか?」
「誰が決めたのか?」
「私はそれに納得しているのか?」
この3つの問いだけでも、日常に投げかけてみれば、きっと何かが変わる。
あなたの生活は、あなたがつくる。
そしてその手段のひとつが、“政治参加”なのだ。
私たちは、誰もが主人公になれる。
それは声の大きさではなく、行動の回数で決まる。
日本という国を、再び誇れる場所にするために。
この本が、あなたの「最初の一歩」になれたなら、著者としてこれ以上の喜びはない。
最後に、この本をここまで読んでくださったあなたに、心からの敬意と感謝を捧げる。
あなたこそが、日本の希望である。
2025年8月
高倉 龍之介
◆ニコニコチャンネル:https://ch.nicovideo.jp/ryunosuke
◆YouTube:https://www.youtube.com/@RyunosukeNews
◆NOTE:https://note.com/ryunosuke2025
◆MAXIM-龍之介バンド:https://tinyurl.com/278vkn2h
◆X(旧Twitter):https://twitter.com/RyunosukeOnline
※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)