【まえがき】


国民の怒りは、まだ燃え尽きてはいない。
国民は選挙で「No」を突きつけた。
だが、その「声」を無視して、石破茂首相は笑っている。

自民党の歴史的敗北。かつてなら即辞任が当然だった。
それを居座りで乗り切ろうとし、野党第一党の立憲民主党までもが追及をやめて「政策実現」という名の妥協を始めた。日本政治は、いま、腐臭を放つ泥沼に落ちている。

「もう誰にも頼れない」「政党なんて全部一緒だ」
そんな無力感を国民に押しつけ、政治家たちは「自分の椅子」を守るだけになってはいないか。

本記事は、そうした腐敗の核心を抉り出す。
読者に問いたい。あなたはこの国の政治を、誰のために残すべきだと思うのか。

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第1章「石破降ろし」の裏切りの構図

倒閣が逆風になるまでの48時間

選挙で負けたリーダーは、潔く退く。
それが日本政治の“暗黙の了解”だった。いや、かつてはそうだった。
しかし2025年夏、自民党の敗北を受けて「石破降ろし」が本格化したとき、歴史は奇妙な逆転劇を見せ始めた。

石破茂首相―自民党総裁として臨んだ参議院選挙は、惨敗に終わった。
支持率の急落、野党連携による攻勢、与党過半数割れ。
誰が見ても「辞任不可避」の空気が漂っていた。
首相本人も当初は、8月下旬の退陣を視野に入れていたとされる。

だが、その筋書きは音を立てて崩れていった。
きっかけは7月23日。一部メディアが「石破退陣へ」と報じた、その日だった。

石破氏は、報道に対し異様なほど強い言葉で反論した。
「報道されているような事実は、まったくない」
その語気は、政治家としてというより、人間としてのプライドの叫びにも聞こえた。

その裏で、同日会談を持った麻生太郎最高顧問は、石破氏にこう伝えたという。

「石破自民党では、次の選挙に勝てないことが、明らかになった」

通常ならこれで退陣の引き金が引かれる。
だが、石破氏は引かなかった。
むしろ、そこから態度を硬化させたのだ。

自民党の「倒閣運動」は、なぜ頓挫したのか

実は石破氏への退陣圧力は、水面下で着々と高まっていた。
旧茂木派、麻生派、旧安倍派の一部が中心となり、両院議員総会の開催に向けた署名活動が始まっていた。
党則上、3分の1以上の国会議員が署名すれば、両院議員総会の開催は可能になる。

この「倒閣の火種」は、確かに燃え上がっていたのだ。

だが問題は、その“次”だった。
両院議員総会には、総裁に辞任を強制する「強制力」がない。
つまり、開催しても石破氏が辞める義務はないのだ。

ここに、石破政権のしたたかな延命策が見て取れる。

ルール上、自分の意志が最後の「防波堤」となると踏んだ首相は、
逆風を「居座り戦略」へと変換した。
まるで“倒閣が強まれば強まるほど、自分の正当性も高まる”とすら言わんばかりの態度だった。

SNS上で広がった「どの口が言っているのか」論法

倒閣を主導した旧安倍派は、ある意味で自滅していった。
というのも、石破氏が延命を主張し始めた矢先から、SNSでは次のような批判が噴出したのだ。

「石破を降ろす前に、自分たちの責任を取るのが先じゃないか」
「“政治とカネ”の問題で党を混乱させたのは旧安倍派だろう」
「石破が悪いのは当然として、批判する側が信用されていない」

これが、致命傷になった。

つまり「倒閣の正当性」が、旧安倍派にはなかったのだ。
過去に森山裕幹事長とともに派閥政治を牽引し、裏金問題や閣僚辞任の温床を生み出してきた張本人たちが「石破降ろし」を叫んでも、国民の信頼は得られない。

それどころか、倒閣の動きが「政治ゲーム」にしか見えず、逆に石破氏が“迫害される正義の人”のように映ってしまう現象が起きた。

皮肉にも、これは石破氏にとって最大の“援軍”となってしまった。

「覚悟」の顔をした“居座り型リーダー”

7月下旬、石破氏の顔つきが変わった。
記者会見でも、かつてのような曖昧な言い回しは影を潜め、明確な続投宣言が繰り返された。

「私は、この国のリーダーとしての責任を果たす覚悟がある」
「やり遂げなければならない改革が、まだ道半ばだ」

この“覚悟アピール”が、かえって支持を得てしまう――。

そう、日本人は「途中で投げ出す政治家」には厳しいが、
「逆風に耐えて頑張る政治家」には、妙に同情しやすい。
この国の有権者心理が、石破茂という“奇妙なリーダー”を延命させている最大の要因かもしれない。

「仕掛けた側」が崩れていく倒閣の現実

倒閣運動の中心人物たちも、次第に勢いを失っていく。
署名活動は、確かに両院議員総会開催に必要な人数を超えたが、
それが「リコール規定(党則第6条第4項)」発動にまで至るには、まだ遠い。

リコールには、全国の都道府県連代表を含めた過半数の支持が必要だ。
現在の情勢では、そのハードルはあまりに高い。

中心人物の一人は、記者にこう漏らした。

「ここまでかもしれないな。リコールは正直、厳しい」

―かくして、「石破降ろし」は失敗に終わり、
かえって石破氏の地位を強固なものにしてしまったのである。

総括:48時間で起きた「逆転劇」の真相

7月23日から始まったこの48時間は、まさに政治の教科書に載せるべき“失敗の連鎖”だった。

メディアのフライング報道が石破氏の警戒心を刺激

麻生氏の退陣要請に応じず、続投を決断

倒閣側の戦略ミス、党則の限界にぶつかる

世論が倒閣派に不信感を抱き、石破氏へ同情

居座り戦略が完成、リコールは未達に終わる

これが、「石破降ろし」が逆効果になった全容である。

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第2章 居座りのロジックと石破茂という人物像

「正論の仮面」をかぶった独裁者

石破茂―彼の名は、かつて「正論を吐く男」として政治の世界で評価されていた。
自衛隊出身、政策通、歯に衣着せぬ発言、正直で誠実。そんなイメージを持つ国民も少なくないだろう。

だが、その「正論の仮面」の下に潜むものは、
実のところ、徹底した自己保身と計算された言葉選び、
そして「信念」と称されるほどに頑なな“自己陶酔”に他ならない。

この章では、なぜ石破茂首相が居座ることができたのか、
そのロジックの核心を解き明かすとともに、彼という人物の本質に切り込んでいく。

「自分は正しい」と信じて疑わない危険

石破氏の演説を聞いたことがある人ならわかるだろう。
一つひとつの言葉が論理的で、語彙も豊富。落ち着いていて、理屈がある。
聞いていると、まるで彼の意見が“唯一の正解”であるかのような錯覚を抱く。

だが、それは“演出”だ。

彼は議論の中で、「自分が間違っているかもしれない」と考える柔軟性をほとんど見せない。
そして何より、己の「正論」が世の中に受け入れられないとき、彼はそれを“時代が遅れている”と切り捨てる。

この姿勢は、リーダーとしては極めて危うい。
国民や党内から「今は辞めるべきだ」という明確なメッセージが発せられても、
それを“間違った意見”として片づけ、自らの決断を優先する。

これは独裁と紙一重だ。

居座り戦略の真髄:「ルールの抜け穴」を最大限利用

石破氏の“延命”は、偶然ではない。
むしろ、彼の得意技と言えるのが、制度のギリギリを突く“合法的抵抗”である。

たとえば今回の居座り戦略。
党則には、総裁辞任を強制する明文規定がない。
両院議員総会の開催は可能でも、辞任させる強制力はない。

つまり、自分が「辞めない」と言い張れば、
どれだけ不信任の声が高まっても、法的にはその地位に留まり続けることができる。

これは石破氏の「法の抜け道を読む力」の結果だ。

過去にも彼は、閣僚時代に防衛省や農水省で、
制度を盾にして意見の違う部下を排除したり、
あえて結論を先延ばしにして“時間切れ”を狙う戦術を取ってきた。

居座りも、同じ戦術である。

「民意」とは何かを、都合よく解釈する男

石破氏は繰り返す。
「私は民意を真摯に受け止めている」
「責任を果たすことが、民意に応えることだ」

だが、ここにこそ危うさがある。

選挙で自民党が敗北した。これは明らかに「退陣」を求める民意である。
それにもかかわらず、「責任を取る=続けること」だと主張するのは、
都合のよい“民意のすり替え”にほかならない。

これは、民意を尊重しているのではなく、
民意を自分の都合に合わせて“ねじ曲げている”だけだ。

本当に民意に応える政治家ならば、
まずは一度、自分の進退を党や国民に委ねるはずだ。
それをせず、議論を封じて続投にこだわる石破氏の姿勢は、
もはや「開かれた政治」ではなく、「閉じた独裁」に近い。

参謀もいなければ、支持派閥もない「一匹狼型独裁」

現在、自民党内には明確に“石破派”と呼べる組織は存在しない。
長年の党内対立で、彼を支えるグループは分裂し、
彼自身も「派閥政治を否定する」という立場から、
組織的な後ろ盾を自ら放棄してきた。

つまり石破氏はいま、孤立無援の状態で首相を続けている。
それでもなお辞めない。これは強さではない。むしろ“危険性”だ。

どんな政治家でも、時に自分の考えを咎め、方向転換を促す参謀や側近が必要だ。
しかし石破氏には、そうした存在がいない。
異論を唱える者は遠ざけられ、近くにいるのは“忠誠”だけを求める人物たち。

こうした状況でリーダーが暴走すれば、
それを止めるブレーキが存在しない。
これはまさに、独裁の構造そのものである。

石破茂が描く「理想の国家像」は誰のためのものか?

石破氏は保守政治家として、「憲法改正」や「安全保障強化」を掲げてきた。
だが、いま彼が目指している国家像は、
実のところ、国民のためではなく“自分のため”になってはいないか。

国民が求めているのは「生活の安定」であり、
「正論」ではなく「共感」なのだ。
それを理解しないリーダーは、
たとえ言葉が巧みでも、政治家としての資質に欠けている。

石破氏が語る“改革”は、抽象的で、現実から乖離している。
それは、政策の中身がないわけではなく、
現実と噛み合っていないという意味である。

耳障りの良い理念やビジョンを語る一方、
肝心の「実行力」や「国民との対話」はどこか遠い。
それは彼が“独りで政治をしている”からに他ならない。

総括:「正論」が政治を壊す瞬間

石破茂という人物は、「理論派」であり「論客」だ。
しかし、政治とは理論だけでは動かない。

「現実を動かす力」
「国民に寄り添う姿勢」
「間違いを認める勇気」

この3つがない政治家は、いくら正しいことを語っても、
独善に陥り、やがて民意から乖離していく。

今の石破首相は、まさにその状態にある。
そしてそれを支える制度の“抜け穴”や、
機能しない野党の存在が、彼の独裁を後押ししている。

「正論」が最も危険なものに変わるのは、
それを振りかざす者に謙虚さが欠けたときだ。
石破茂という男の“本性”を、私たちは見極めなければならない。

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第3章「反石破」の失敗─旧安倍派と麻生派の誤算

戦略なき倒閣が招いた延命劇

歴史は繰り返すと言うが、日本政治における「派閥抗争」は、もはや様式美のようなものだ。
だが、2025年の「石破降ろし」は、その“様式”を履き違えた失敗の典型だった。
旧安倍派と麻生派という、かつての実力派が手を組み、倒閣を目指したこの動きは、なぜ挫折したのか。

その理由は、実にシンプルだ。
“倒す覚悟”はあったが、“代わりを立てる覚悟”がなかった。
そして何より、“国民の信頼”という最も肝心なものを欠いた状態で、
政治ゲームを仕掛けたからに他ならない。

なぜ「倒すだけ」の運動は失敗するのか?

倒閣とは、単なる「否定」ではない。
リーダーを退陣させるなら、同時に「次の選択肢」を国民に提示しなければならない。
これがなければ、有権者は「誰がやっても同じ」という幻滅に陥る。
倒す側も、その幻想の一部と見なされ、政治全体への不信につながるのだ。

今回の「石破降ろし」は、まさにそれだった。

確かに、署名集めや両院議員総会開催の動きは、物理的には成功していた。
しかし、その先―「誰を立てるか」「何をやるのか」が、まるで見えてこなかった。

倒閣の主導権を握った旧安倍派や麻生派は、
“反石破”という一点でのみ手を組んでいた。
だが、それ以外のビジョンも人物像も一致せず、
「石破を降ろせば全てうまくいく」という幻想だけが先行した。

それは、まるで火をつけてから水を忘れた放火魔のようなものだ。

旧安倍派の「負の遺産」が首を絞めた

かつて自民党を強固に支えた旧安倍派。
その中心にいたのは、故・安倍晋三氏の側近たちである。
だが、その後継者たちは、派閥の力を背景に“数”で押すことに慣れすぎた。

裏金問題、派閥パーティー券の不透明な処理、閣僚のスキャンダル……
安倍派の「功績」の裏には、常に「負の遺産」がついて回った。

国民の記憶は鋭い。
倒閣を叫ぶ彼らの顔を見たとき、「またか」と感じたのは私だけではないだろう。

そして、石破氏自身がその空気を巧みに利用した。

「党内抗争をやっている場合ではない」
「この局面に、私が責任を持たなければならない」

という“覚悟”の演出は、反石破派の信用を相対的に失墜させ、
居座りの正当化に一役買うことになった。

皮肉だ。
本来、政権交代を促すべき旧安倍派が、
結果的に石破延命に“協力”してしまったのである。

麻生派の「陰の動き」が明るみに出た瞬間

もう一つのキープレイヤーが、麻生派である。
麻生太郎氏は自民党最高顧問として、石破首相に対し、
「このままでは選挙に勝てない」と忠告したとされる。

だが、麻生氏の行動はあまりに“控えめ”だった。
直接的に辞任を求めたわけではなく、
表立って「後継候補」の提示も行わなかった。

これは、典型的な“牽制止まり”の倒閣である。

麻生派内にも分裂があり、後継候補として一致する人物がいなかった。
さらには、麻生氏自身が「石破と刺し違える」ほどの覚悟も持っていなかった。

つまり、倒閣の旗は振ったが、
その先に進む燃料も、運転手も、目的地の地図も存在しなかったのだ。

この曖昧な態度こそが、石破茂という“戦略家”にとって、最もありがたい展開だった。

「ポスト石破」を語れなかった者たち

「誰を総理にすべきか」
「どんな政権を目指すのか」

この2点が語られない限り、倒閣運動は“否定の連鎖”にしかならない。
旧安倍派も、麻生派も、この問いに明確な答えを持っていなかった。
それどころか、派閥ごとに候補者が乱立する状態で、
一致団結して「次」を描く力を持ち得なかった。

世耕弘成氏、西村康稔氏、萩生田光一氏……
それぞれが「俺が俺が」とポスト石破を狙う中、
誰もが“本命”になれず、そして誰もが“調整役”になれなかった。

こうして、石破降ろしは、「誰かのため」ではなく「誰でもいいから降ろしたい」という
空虚な運動へと変質していったのだ。

党内からも失望の声「何をやっているのか分からない」

ある現職閣僚は、記者にこう語った。

「一体、党内はどうなっているのか。辞めるんじゃなかったのか?」

この言葉には、倒閣派への怒りと落胆が込められていた。

倒すと言っては腰砕け、署名は集めたが誰を立てるかも曖昧。
不信任案も出されず、記者会見も開かれない。

この体たらくに対して、有権者が拍手を送るはずがない。
その間にも、石破茂首相は「覚悟と責任」を語り続け、
不信感を受け流しながら、粛々と政権を維持していった。

倒す側が自滅する中で、倒される側が“耐えて見える”。
これが、今回の政治ショーの最大の皮肉である。

総括:戦略なき倒閣は、独裁を延命させる

倒閣とは、“否定”ではなく“選択”だ。
その「選択肢」を示さずにトップを引きずり降ろそうとした瞬間から、
旧安倍派も麻生派も、敗北のフラグを立てていた。

さらに、過去のスキャンダルや政治的な“裏の顔”が露出していた彼らに、
国民はもはや幻想を抱かない。
信頼を失った者が掲げる「正義」は、空虚に響くだけなのだ。

石破茂首相の延命は、彼の強さによるものではない。
それは、倒す側の「弱さ」と「覚悟のなさ」が生んだ結果である。

この章で明らかになったように、倒閣の失敗は政治的な構造問題であり、
それは次章へとつながる――
なぜ野党第一党・立憲民主党までもが、この流れに加担したのか?

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第4章 野田佳彦の“裏切り”─不信任案を出さなかった意味

立憲民主党は「第二与党」か?

野党とは、本来「政権に対峙する存在」であるはずだ。
民意の代弁者として、政府の横暴や無策を監視し、
時に攻め、時に問い、時に倒す。それが、健全な議会政治の姿である。

だが、現実はどうだろうか。

参院選で与党が過半数を割るという「異常事態」が起きたにもかかわらず、
立憲民主党の野田佳彦代表は、石破茂首相に対し、
内閣不信任案を提出することなく、「政策実現」を口実にすり寄った。

国民の信任を失った政権に、なぜ野党が助け舟を出すのか。
これは“協力”ではない。“共犯”だ。
本章では、野田代表の行動の背景とその危険性に切り込む。


不信任案を「出さなかった」ではない、「出せなかった」のか?

参院選後、臨時国会で野田代表はあえて不信任案を提出しなかった。
その理由として彼はこう述べた。

「いまは追及よりも、政策実現が重要だ」
「与党と協議することで、国民生活の改善を目指す」

だが、これは奇妙な論理だ。

なぜなら、選挙という民意の審判が下された後に、
与党との協議を優先するというのは、
有権者の「ノー」を無視するに等しいからである。

しかも、選挙中には「政権交代の受け皿になる」と繰り返し訴えていた立憲民主党が、
その数日後には“手のひら返し”とも取れる行動を取った。
これに対して、国民からは驚きと失望の声が相次いだ。

「もう野党なんて信用できない」
「第二自民党になりたいのか」
「維新の方がまだマシだ」

こうした声がSNS上には溢れた。

不信任案を「出さなかった」のではなく、
「出せるだけの覚悟も支持もなかった」。
それが真相に近いのではないか。

政策協議という名の“屈服”

野田氏は、「戦後80年談話」についても、
石破首相の見解発出に「期待」を示した。

「何らかのコメントは出すべきだ」

これは事実上、政権の歴史認識を肯定し、
野党の立場から「応援」するという異例の対応である。

また、所得税の給付付き控除についても、
与党と立憲民主党の間で政策協議が始まり、
実質的な“政策連立”の様相を呈している。

こうした動きに対して、党内からも懸念の声が上がっている。

「野党第一党としての矜持を捨てたのか」
「政権交代を諦めた瞬間に、存在意義は消える」

追及の矛先を緩めた結果、立憲民主党は「妥協の党」として国民に認識され始めている。
野田氏の掲げる「現実的路線」は、
政治的妥協というより、単なる“屈服”であり、
それは政権批判の意志を放棄したと言われても仕方ない。

なぜ野田氏は石破首相を“助ける”のか?

最も不可解なのは、「なぜ野田佳彦は石破茂を助けるのか」という点である。
その背景には、過去の因縁と個人的な思惑が絡んでいる可能性がある。

両者は共に、かつて「自民党VS民主党」の激戦を演じたライバル同士でありながら、
政策的には“保守中道”のベクトルで一致する部分があった。

特に「財政再建」「安全保障」「憲法観」において、
野田氏は立憲民主党内でも異色の「右寄り」であり、
石破氏との政策協議に“思想的な親和性”を見出していた可能性がある。

さらに、現在の立憲民主党内には、
枝野幸男、泉健太らの「リベラル路線」に失望し、
「現実路線」へとシフトしたいという勢力が増えている。

その中で、野田氏は石破政権との協調を
「次の政権入りの布石」として考えている節すらある。

つまり、政権を倒すよりも「寄り添って入り込む」ことを選んだのだ。

与党と野党が“結託”した先に待つもの

政権交代が起こらない政治。
与党と野党の線引きが曖昧になる政治。
これが意味するのは、「政治の機能停止」だ。

「誰がやっても変わらない」
「どの党に投票しても結果は同じ」

この絶望感こそ、無関心と投票率低下の温床となり、
最終的に政治全体の“腐敗”を加速させる。

立憲民主党が、石破政権に歩み寄った時点で、
この国の「選択肢」は一つ潰されたに等しい。
国民の“怒りの受け皿”が消えたのである。

野党が野党としての役割を放棄した時、
それは民主主義の機能停止を意味する。

総括:「批判なき野党」はもはや存在意義を失う

野田佳彦氏の「裏切り」は、石破政権の延命に加担しただけでなく、
立憲民主党という政党そのものの存在意義をも失わせた。

参院選で民意は「与党にNo」を突きつけた。
だが、それに応えるはずの野党が、
政権との妥協を選んだとき、国民の選択肢は閉ざされる。

この章の結論は明白である。
政権に歩み寄る野党は、もはや“野党”ではない。
それは単なる「第二与党」であり、国民の敵だ。

では、国民はいったい誰を信じ、誰を選べばよいのか。
次章では、「リコール規定」と「残された手段」について掘り下げ、
私たちができる“最後の選択”に迫っていく。

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第5章 リコール条項の限界と、国民の手に残された選択肢

「政治は変えられない」は本当か?

石破茂首相の続投が現実のものとなり、
旧安倍派の倒閣も頓挫し、立憲民主党の野田佳彦代表までもが“延命協力者”となった今、
この国の政治は、いわば「閉じられた密室」となった。

どの政党も、どの政治家も、国民の声に耳を貸そうとしない。
表向きは「責任」「覚悟」「政策実現」などの美辞麗句が並ぶが、
その実態は、権力の椅子にしがみつく者たちによる“自己保身”の連鎖にすぎない。

しかし―私たち国民に、何もできないのか?

本章では、自民党党則にある「リコール規定」の現実と限界、
そして私たちが持ち得る「最後の選択肢」について検証していく。

リコール規定という“幻のカード”

まず確認しておきたいのが、自民党党則第6条第4項―
いわゆる「リコール規定」である。

この条項は、以下のような内容を含んでいる。

「党所属国会議員および都道府県連代表の過半数の要求があれば、
任期中であっても総裁選を前倒しして実施することができる」

要するに、本人が辞任を拒否しても、
党内の過半数が「もう辞めろ」と言えば、強制的に再選挙を開けるという“奥の手”だ。

だが現実には、この条項が一度たりとも適用されたことはない。
なぜなら、そのハードルがあまりに高すぎるからである。

現在の議席数と都道府県連を合わせると、
約170人以上の署名が必要となる。
しかも、この数には“派閥を超えた連携”が不可欠であり、
派閥解体後の自民党では、利害調整が極めて難しい。

さらに、地方組織である都道府県連は、
中央政権から予算や人事で“握られている”ケースが多く、
「反旗を翻す」ことに対して強い忌避感を持つ。

このため、リコールは「制度上は存在するが、
現実には使えない武器」となってしまっているのだ。

両院議員総会の“無力さ”が延命の土台となる

今回、実際に倒閣派は「両院議員総会の開催」にこぎつけた。
党所属国会議員の3分の1の署名をもって開ける総会――
これは、石破茂首相の進退を問う“場”として期待されていた。

しかし、この総会には、総裁を辞めさせる“法的強制力”がない。

要するに、どれだけ厳しい意見が飛び交おうと、
石破氏が「私は辞めません」と言えば、それで終わりなのだ。

まるで、火災報知器が鳴っても消火器のない家のようなものである。
警告はできるが、実際に火を消すことはできない。

石破首相が、その制度的“限界”を熟知していたことが、
今回の延命戦略を成功させた最大の要因と言える。

それでも「諦めるな」―国民の手に残された力

では、もう何もできないのか?

そうではない。
確かに制度の限界はあるが、民主主義国家において、
最も強力な権力を持つのは、常に「国民」だ。

私たちができることは、決して少なくない。

1. 世論を動かす
今の政治家たちは、“世間の空気”に非常に敏感だ。
SNS、メディア、街頭、選挙区の声……
特に支持率に影響するような大きな世論のうねりがあれば、
どんな強権的な首相も“続投困難”になる。

たとえば過去には、安倍晋三元首相が「モリカケ・桜」問題で支持率を大きく落とし、
それが健康問題と重なって辞任を選んだケースがある。
あれも“法的強制”ではなく“世論による包囲”だった。

石破茂首相とて、例外ではない。

2. 地元選挙区で圧力をかける
選挙区の有権者の声は、国会議員にとって“命綱”である。
地元後援会、地方紙、議会への請願、地域集会での圧力――
これらの積み重ねが、議員に「党執行部への異議申し立て」をさせる動機となる。

本当に国民が「石破NO」の意志を持っているなら、
議員たちは選挙を意識して動かざるを得ない。

3. 「本物の保守」「信念ある野党」を選ぶ
もはや自民党も、立憲民主党も、既存の“安全牌”ではない。
しかし日本には、志を持った保守系議員や、新興保守政党、
あるいは本気で国民生活に向き合う無所属議員も存在する。

大切なのは、「批判する」だけでなく、「選ぶ」こと。

政党に幻滅したのなら、候補者を見よう。
派閥に絶望したのなら、政策を見よう。
派手な言葉に騙されたのなら、実績を見よう。

国民が“本物”を見極める目を持つことでしか、
この国の政治は変わらない。

「無力感」は、支配者がもっとも好む幻想

「どうせ変わらない」
「誰に入れても同じ」
「政治家なんて、全員嘘つきだ」

こうした言葉が世の中に溢れるたびに、
一番笑っているのは、権力にしがみつく側である。

彼らにとって、最も都合がいいのは「無関心な有権者」だ。
怒らず、叫ばず、投票もせず、黙って生活してくれる国民。
そんな国民が増えるほど、彼らの椅子は“安泰”になる。

だからこそ、声を上げよう。
そして、行動しよう。
SNSでも、地元でも、投票所でもいい。
あなたの意思が、石破政権を動かす唯一の力になる。

総括:「無力ではない」という選択

石破茂という一人の首相が、
制度の穴と政治的怠慢を突いて、
居座りを決め込んでいる。

倒閣派は戦略を誤り、
野党は手を差し伸べ、
リコールは“机上の空論”となり、
政治は空洞化している。

だが、それでもなお、
最後にこの国の未来を決めるのは、私たち国民の“意思”だ。

次章「あとがき」では、
本記事の締めくくりとして、
今この国が抱える政治の危機と、
未来への希望について語ります。

【あとがき】

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静かに怒るな、声を上げよ。沈黙は“共犯”だ。

― 私たちがこの国を見捨てないために
選挙は終わった。
敗者が退き、勝者が政権を担う――そんな当たり前の政治のルールが、
今この国では、あっさりと踏みにじられている。

石破茂首相は、民意の「No」を頑なに無視した。
党内の怒りにも耳を貸さず、辞任のタイミングを逃し、
今や「辞めないこと」こそが責任であるかのように語り始めた。

しかし、それを許してしまったのは誰か。
倒すべきときに、倒せなかった与党内の無策と迷走。
対峙すべきときに、妥協を選んだ野党の裏切り。
そして、疲れ、諦め、沈黙してしまった――私たち国民である。

ここまで読んでくださったあなたは、
きっと何かしらの「違和感」や「怒り」を心に抱いているはずだ。
それは間違いではない。
それは、国を思う者だけが感じられる“健全な反応”である。

政治が腐敗するとき、
最初に死ぬのは「感情」だ。
怒りを失い、関心を失い、
それでも生きていけてしまう現実に慣れてしまう。
そうして気づけば、国家は誰かに盗まれている。

では、私たちはどうすればいいのか。

まずは、見抜くこと。
“正論”の仮面をかぶった自己保身者を。
“協調”の名の下に政権を補完する野党を。
そして、“あなたのため”と言いながら、自らのためにしか動かない政治家たちを。

次に、問い続けること。
「本当にそれでいいのか?」と。
テレビで流れる言葉をそのまま飲み込まず、
SNSで拡散された情報をうのみにせず、
自分の頭で、感じた違和感の根っこを探ること。

そして、最後に、
声を上げること。
小さなことでもいい。
投稿でも、対話でも、投票でもいい。
あなたの声が、この国の政治を変える唯一の武器になる。

「この国はもう終わりだ」
そんな言葉を、私は聞き飽きた。

だが本当に終わっているのは、“この国”ではなく、
“怒ることを忘れた私たちの側”ではないだろうか。

石破政権は終わらせなければならない。
それは一人のリーダーを否定するということではなく、
民意を無視し、制度に逃げ、国民の沈黙に甘える政治全体への“告発”である。

私たちがこの国を見捨てない限り、
この国も、政治も、未来も、まだ立て直すことができる。

静かなる怒りよ、声となれ。
沈黙の海に、波を起こせ。
この国は、あなたのものだ。


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※高倉 龍之介(政治フリージャーナリスト・映像クリエイター)