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渋井哲也【“一歩前”でも届かない】Vol.8「気がつかないふりをしていた故郷の被災」
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渋井哲也【“一歩前”でも届かない】Vol.8「気がつかないふりをしていた故郷の被災」

2012-10-31 00:56


    石のスープ
    定期号[2012年10月31日号/通巻No.54]

    今号の執筆担当:渋井哲也




      今月から、戦場などを取材するジャーナリスト、村上和巳さんが参加してくれた。原稿にもあったが、10年来の付き合いだ。かつて、市民記者のニュースを中 心に構成していた『オーマイニュース日本語版』で、私は週2日デスクをしていた。村上さんも、私がつなげたのだが、週1日デスクをしていた。その意味では 同僚である。

     その村上さんの原稿で「出自」に触れた部分があった。出自について、どこまで考えているのか、どこまで影響があるのか、という意味では、村上さんの「出自」と震災の関連は興味深かった。その原稿に刺激されたこともあり、私も自らの「出自」について触れたいと思う。

    *  *  *  *  *  *

    ■心理的な壁「白河の関」

     私は栃木県那須町に産まれた。
     村上さんの原稿で「白河以北」という言葉ある。福島県には白河の関所があるのだが、その白河の関所の北側が「河北」と呼ばれる。奥州への3つの関所の一つ だ。今でも、現代の「白河の関所」と呼ばれる白河検問所がある。白河警察署が、犯罪の流入対策で設置している。白河を境にして、北は東北、南は関東となっ ているが、那須町は、白河の関から見て、最初の関東の町だ。
     俳人・松尾芭蕉は那須から白河を越えるとき、「白川の関こえんと、そゞろ神の物につ きて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず」と書いている。それだけ、当時の下野の国から奥州へ向かう旅は、感慨深いものがあった。今 でこそ、高速道路や新幹線が整備され、那須から白河へ買い物に行く人もいて、日常的な経済交流はされているが、やはり、心理的には白河の関を越えるのは、 東京から埼玉を越える感覚ではなく、別の文化圏に行くといったものだ。少なくとも、白河の関を意識しながら育った私にとってはそういう想いがある。

      那須町内のなかでも南部に育った私は、那須の町内でも北に行くことよりも、隣町の黒磯市(現在の那須塩原市)に行くことのほうが多かった。なにしろ、近所 の橋を渡れば、黒磯市だ。学校も、通った小中学校よりも、黒磯市内の小中学校のほうが近かった。高校は黒磯高校に行くことになるが、出身小中学校よりも近 く、通った学校の中で一番近かったのだ。そんな生活圏からすれば、白河というのは、私の背中にある、異国の地の扉だった。
     ただ、異国といって も、憧れの地としての異国ではない。まだ、全国の高校野球大会で東北のチームが優勝をしておらず、「優勝旗が白河の関を越えるのか?」が話題になったりす る。しかし、単純に地理的な意味での「境界」を指すのでもない。村上さんも東北蔑視について書いていたが、私も東北を蔑視していたと思う。よく、栃木県 は、「東北の玄関口」として扱われていたが、それを面白くないと感じていた。栃木県内でも、最北端の那須町は、県内評価でもやはり同じだった。

      「なぜ、那須町が東北の玄関口として扱われなければならないのだろうか。こっちは、関東であり、東北じゃないんだ」という意味不明な拒絶感があった。それ は差別意識だったんだろう。そうした蔑視のムードは、東北に近いからこそ、感じることもできたと思う。もちろん、東北蔑視についての具体的な経験したわけ ではないが、今思えば、日常の言葉の扱いには東北蔑視が出ていたと思うことがたくさんある。

     仕事をするようになって、よく「青春18切 符」を使って、各駅停車の一人旅をすることも多くなった。それで自覚したのは、上野から黒磯間というのは、黒磯から仙台間とほぼ同じ時間がかかるというこ とだ。つまりは、上野から仙台の中間が黒磯駅なのだ。黒磯駅が実家の最寄り駅で徒歩15分の距離なのだ。生活圏は東京と仙台の中間だった。ただ、それが分 かっても、黒磯から仙台は、上野よりも遠いといまだに感じている。

    ■「植物赤十字をつくりたい」と言っていた祖父が選んだ那須

      そもそも、私が那須に産まれたのは、第二次世界大戦との関連が強い。母方の祖父は都内の学校職員をしていた。日中戦争の頃、満州開拓の話が出る。祖父は生 物に詳しく、開拓団のメンバーに誘われていた。同じ理由で、那須開拓の話も出ていた。満州か、那須か。その二択だったようだ。那須は明治期にも開拓されて いたが、昭和20年代にも開拓事業があった。結果、祖父は那須を選んだ。
     祖父は私が産まれた頃亡くなった。そのため、私の記憶としては何もな い。しかし、約20年間勤務していた都立戸山高校の「戸山高校新聞」(1957年9月16日号)の「先生列伝」に少しだけ載っているのを見つけた。それによると、「植物赤十字」を作りたい、との思いがあったようだ。「人間同士の戦いのために多くの植物が傷付く。植物は口が無いから何も言わないが苦しいにち がいない」と言っていたとか。よく母が「おじいちゃんは木のお医者さんになりたがっていた」と話していたが、それが「植物赤十字」のことだったのかと、この新聞を見つけたときに思ったものだ。
     
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