野田稔・伊藤真の「社会人材学舎」VOL.4 NO.3

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コンテンツ

今週のキーワード
「死ぬのに適した日などない」

対談VOL.4
藤沢久美氏 vs. 野田稔

やり続けるから、やるべきことがわかる
自分を導くにも、世界をけん引するにも
これから必要なのはDO型のリーダーシップ

第3回 まず起業しようと決めた。ただその先を決めていなかった

NPOは社会を変えるか?
第15回 被災地から日本、そして世界に発信する夢がある
     ――一般社団法人MAKOTO

粋に生きる
5月の主任:「植田直樹・松尾芳憲」 酒ありき肴 与一
第3回 全力で修業したからチャンスは巡ってきた

誌上講座
テーマ4 何が究極の楽観主義を生むのだろうか
浜田正幸
第1回:キャリア論の始まりはほんの100年ほど前だった

Change the Life“挑戦の軌跡”
クールジャパンで新たなビジネススキームを!
第3回 数少ない武器は、巡ってきた縁と足を使った交渉

連載コラム
より良く生きる術
釈 正輪
第15回 あなたは無心の心で祈ることができるか



キーワード

「死ぬのに適した日などない」

 これは、本誌にも毎回登場していただいている釈正輪老師の著作のタイトル。
 2009年にソフトバンク クリアエイティブから発行された。

 多くのことが書かれている本だが、その中心的な課題は、人はなぜ自殺をするのか、あるいはしようと思うのか。それを止める手立ては果たしてあるのかということ。

 このコーナーは書評コーナーではないので、その内容に深く入ることはしないが、「自殺のサインを見つけることは確かに難しいが、誰もが、何らかのサインを出している。だから、それに気づいてあげられれば、悲劇を一つ、救うことができるかもしれない」と言う。

 もっとも、“魔が差す”ということもある。気弱な精神状態に何らかのきっかけがあって、魔が差す。そんなとき人は、ふと、引き込まれるように高いところから飛び降りようとする。目の前の線路に身を投げようとする。覚悟の自殺というよりも、そんなふうに、最後は不覚の中の死のほうが、ひょっとしたら多いのかもしれない。

 こんな話がある。ある野戦病院で、ある朝、オーストラリア人の看護婦がやってきて、重症の兵士たちを元気づけようと、こう叫ぶ。

“It’s fine today.”

  これを聞いて、患者たちは一様に驚き、青ざめる。なぜか。

 彼女はオーストラリア訛り。だから皆にはこう聞こえたのだ。

“It’s fine to die.”

 「今日はいい天気よ!」と言ったのに、皆には「死ぬにはいい日よ!」と聞こえたのだ。思いっきりブラックジョークだろう。

 本書のタイトルは、それをもじっている。

 そんな日などない。死ぬのに適した日などありはしない。その魔物を払い、気を確かに持って。どうしてもダメだったら、誰かにわかりやすいサインを送ろう。

 そして自分に言い聞かせてほしい。「今日はまだ、死ぬのに適した日ではない」と。



対談VOL.4
藤沢久美氏 vs. 野田稔

やり続けるから、やるべきことがわかる
自分を導くにも、世界をけん引するにも
これから必要なのはDO型のリーダーシップ

本誌の特集は、(社)社会人材学舎の代表理事である野田稔、伊藤真をホストとし、毎回多彩なゲストをお招きしてお送りする対談をベースに展開していきます。ゲストとの対談に加え、その方の生き様や、その方が率いる企業の理念などに関する記事を交え、原則として4回(すなわち一月)に分けてご紹介していきます。

今月のゲストは、シンクタンク・ソフィアバンクの藤沢久美代表です。
藤沢さんは、大学を卒業後、国内外の投資運用会社を経て、1996年、日本初の投資信託評価会社を起業、3年後、その会社をスタンダード&プアーズ社に売却し、2000年にシンクタンク・ソフィアバンクの設立に参画。2013年に代表に就任しました。文部科学省参与、金融庁、経済産業省、総務省、国土交通省、内閣府等のなど各省の審議会や委員会など、公職を数多く歴任し、法政大学大学院で客員教授も務めます。
ネットラジオ『藤沢久美の社長Talk』など、長年、日本の中小企業経営者を数多くインタビューしていることも有名です。
そんな藤沢久美さんは、いかにして生まれたのでしょうか。


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第3回 まず起業しようと決めた。
       ただその先を決めていなかった


ずっと自分に鞭を入れていた子ども時代

そして、悩みに悩んだ大学4年間

野田 藤沢久美の作り方を知りたいのです。まず、学生のときはどんな感じでしたか?
藤沢 大学生のときはアルバイトばかりしていました。まず家庭教師。後は運動不足だったので、スイミングスクールでインストラクターをやっていましたね。サークルなどには入らずに、そういう日々を送っていました。
 学部は生活科学部という、基礎科学をやっていました。だから毎日実験です。ずっと白衣を着ていましたね。
 大学時代はとってもいろいろなことに悩んでいました。本もいっぱい読みました。映画も、週に2~3本観ていました。ヨーロッパ映画ばっかり。大好きだったのはフェリーニ、後はゴダールとか、デ・シーカとかといった、答えのないことをずっと考えるような映画ばかり観ていました。なぜ人間は生きているのかとか、愛とは何かとか……。
野田 見終っても何の答えもないような。
藤沢 そうそう。見終って、喫茶店に行って、考える。何だったんだ、あれは? なぜ? と思いながらも、美ってなに? とか、死って何? とか、そういうことをずっと考えていたのです。本もわりと哲学的なものを多く読んでいましたね。本当に、悩める4年間でした。
野田 何で、そんなに悩んだのでしょうね。
藤沢 小学校の2年生くらいの時に、ベートーベンの自伝を読んだのですね。そうしたらそこに、ベートーベンのデスマスクの写真があって、すごくショックだったのです。デスマスクは死んだ時の顔をかたどったものだと書いてあって、「人は死ぬの?」って驚いたのです。「まさか私も死ぬの?」ってすごいびっくりして、父に、「お父さん、私、死ぬの?」って聞きにいったのですよ。そうしたら、あっさり「死ぬよ」と言われて、そこからパニックですね。「えっ? 私がこの世から消えてなくなるというのはどういうこと?」って、怖くて、怖くて仕方なくて。とにかく怖くて、自分が死んだ後、世界はどうなるのかと聞いたら、「続く」と言われるし、「それは困る」と思ったのです。じゃあ、生きている間にできるだけ多くのことを知りたいと思いました。それで、そのころから占いにも興味を持つようになって、とにかく、知らないことを少しでも多く知りたいという思いがそれ以来、ずっとあって、「いつ死ぬかわからないのであれば、いっぱい知りたいし、いっぱいやらなくちゃ」って思いが強くなって、子ども時代はずっと何かに追いまくられているようでした。
野田 その延長なのですね。
藤沢 そうですね。大学のときも、知らないことがいっぱいあるし、答えがよくわからないことにもすごく興味がありました。それで、先ほどご紹介したような悩める大学時代を過ごして、就職時期を迎えます。

差別、区別のない会社を自分が創る!
諦めるという考え方がそもそもなかった

藤沢 就職ですが、ポイントが2つありました。1つは、4年生になるときに研究室に所属するのですが、皆が教授の顔色見ながら働いているし、研究生は下働きに過ぎない。どんなに頑張って、1日も休まずに朝から晩まで実験しても、成果は教授のもののような気がして。「社会って、もしかしたらフェアじゃないのかも」と思いました。
野田 不条理ですね。
藤沢 それこそ当時、東京や東京近郊の総合研究所などに電話すると、関西に住んでいる女性は雇わないと言われました。女子は東京に自宅がないとダメなのですね。そう言われたら、がっかりですよね。とにかく「女性は……」「女性は……」。男女雇用均等法はすでに施行されていたのですけれど……。それで、どうも世の中というのは、年を取らないと評価されないし、そもそも女性は評価されないのだなと思いました。なので、男性でも女性でも関係なく、若くても年寄りでも関係なく、頑張ったら評価される会社って、世の中になさそうだから、ないのであれば、自分で作ろうと思ったのです。そうしたら、私と同じように悩んでいる人たちはそこで働けばいいわけです。
 ただ、とは言っても、就職しないで会社を作るアイデアもなかったので、まずは就職して、30歳になる前までに起業しようと決めました。
野田 すごいな。
藤沢 それで、とりあえずどこに就職しようか考えて、ありとあらゆる世界のことを知ることができる仕事ってないだろうかと思ったのです。そんな気持ちで就職情報誌をぺらぺらとめくっていたら、「世界の未来を予測する証券アナリスト」という一文を見つけてしまったのですね。
 うわっ、世界中のことが、しかも未来がわかるのか。だったらこの仕事がやりたいと思って(笑)、アナリストになれる会社とか職種を探したら、投資信託の運用会社というのがあるのを知りました。投資信託の運用会社は、どこも5人くらいしか採用しないので、1000人採用される会社に入ってアナリストになるのはかなり道が遠そうだけど、5人しか入れない会社に入れたら、アナリストも夢じゃないと思ったのです。考えてみれば確率は同じなのですが、まあ、入口が狭いほうを選んだわけです。それで国際投信という会社に入りました。
 そういう気持ちだったので、就職した瞬間から起業は前提だったのです。
「ないから作るって、なぜ思ったの? 普通は諦めるよ」と後からよく言われました。諦めるという発想が残念ながらなかったのですね。
野田 おもしろいですね。どちらかと言うと僕もないから創ってしまうタイプで、今まで生きてきて、だから損もずいぶんするのだけど……。
藤沢 そうそうそう(笑)。
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「だってやりたいのだもの!」

止むに止まれぬ想いが自分も、他人も引っ張る

野田 でも、この時に、ないから創ろうとごく自然に思えたのは、なぜなのかな。昔からそういうタイプだったのですか?
藤沢 いや、世の中的に起業ブームだったのです。そういう機運に毒されていたのかもしれないですね。当時、リクルート社のB-ingという雑誌がありましたが、そこでも「起業の仕方」という特集記事がありました。私、あの特集記事のところだけ破いて、ちゃんと東京まで持ってきましたもの。今でもよく覚えています。赤い表紙でした。
 それと、ちょうど日経WOMANが創刊されたのもその頃でした。何号目だったか忘れましたが、浅野ゆう子さんが出ていて、ちょうど30歳になったばかりでした。その記事に、30歳になるということがとても大きな転機のように書いてあって、「そこで女としての人生は終わるんだな」って思ったのです。だから、やっぱり、人生、30歳までに何とかしないといけないのだと強く思いました。
野田 すごく賢いのに、すごく素直で影響を受けやすいのですね。
藤沢 自分の中に何にも知識がないから、すぐに影響を受けちゃうのですよ(笑)
野田 しかも、しっかり実行してしまう……。
藤沢 はい。「なんでやっちゃうのですか?」といわれたら、言葉を選ばずに素直に表現すれば、多分、トイレに行きたいのと同じなのですよ。「だって、行きたいんだもの」って、「恥ずかしいからここで我慢する」ではなくて、「行きたいんだもの」っていう、そういう感じなのです。我慢力がないというか……。だから昔から、よくいろんなものにぶつかりもするのですけど、納得ができないと嫌なのです。
 親が「人と同じことをしてもおもしろくない」とずっと言っていたのですね。それが影響している部分もあると思います。だから美術の実習でも、決して人と同じものは作りたくないし、自分が納得したものができるまで止めないのです。だから、もう授業終わっているから帰りなさいと言われても、「できてないから帰らない」と頑張るわけです。
 納得しないと何もやらない。つまり、やりたいことしかやらないとも言えるわけで、だからある意味怠惰です。
野田 でもそれは、多くの起業家の方の特性でもありますよね。昔、『最初の一人』と言う本を書こうと思って、アントルプレナーの方を取材して回ったことがありました。究極のリーダーシップを考えていたときに、ふと思ったのは、アントレプレナーが最初の一人をプロジェクトやビジネスに巻き込むときって、強烈なリーダーシップを発揮しているはずだと気がついたのです。
 私のリーダーシップの定義は、「他人に影響力を行使して、望ましい行動を起こさせること」というものです。一番汎用性の高い定義です。だとするならば、最初の一人を巻き込むというのは強烈なリーダーシップ行為なわけです。お金もない、将来の安心も約束できない状況ですから。
藤沢 そうですね。何にもないですよね。
野田 と言いながら、優秀な人間を巻き込まなければ起業はできない。これはすごいぞと思った。そこで、「最初の一人をどうやって口説きましたか」という質問をベンチャーの社長さん8人にインタビューして回りました。答えのエッセンスは全員同じでした。それは義憤だったのです。
「何で日本にこれがないんだ!」「なぜこれが業界の常識なんだ!」という怒りだったのですよ。完全に自分発で、止むに止まれない動機でないと、人もついてこないのですね。
藤沢 そうですよね、そう思います。だって、やりたくて仕方がないんだものって。
野田 トイレ行くのと同じというのは、すごく言い得て妙ですよね。
藤沢 すみません。もう少しエレガントな発言をしないといけないと思うのですけど、そうやって言葉を飾ると、本当ではないのですよ。そのままじゃないと伝わらないような気がするのです。
野田 そのとおりだと思います。しかし、納得できないことはやらないし、納得できるまでやろうとする。親御さんの「人と同じことはするな」というのは、すごくいい教育を受けられたなと思います。

社会人の勉強はすぐに役立つ
トイレで泣くのを止めた日に、立ち直れた

野田 話を戻すと、なぜ投資信託に行ったかはわかりました。
藤沢 全く興味はありませんでした(笑)。というよりも、経済の勉強もしていませんでしたし、何にも知識がなかったから、入ったときに本当にへこみました。
野田 そうですよね。科学者ですものね。
藤沢 会社に入ったときに外国に来たみたいでした。まず標準語をしゃべれず、関西弁しかしゃべれなかったので、日本語でもハンディを感じる中で、さらに言っている言葉の意味が全くわからないという……
野田 やっていて、おもしろくなりました?
藤沢 とにかく最初にすごく苦労しました。
 実は、入って3日で辞めようと思ったのです。同期で女子がもう一人いたのですけど、彼女は最初、私と同じ企画部門に配属されました。私はアナリストになりたいのに、企画部門に配属された瞬間にもう辞めたいと思ったのですけど、その子はあっという間に、運用部に異動していったのです。運用会社は運用部が花形じゃないですか。企画部なんて、裏方の裏方なわけです。だから、もう切なくて、切なくて、最初はトイレで泣いていました。それで、「こんなことのために東京に来たんじゃない。もう帰る!」という感じで愚痴っていたら、友達が誰も電話してきてくれなくなってしまったのです。やっぱり愚痴っていると友達もいなくなるんだと思って、とにかく頑張ろうと思い直しました。
野田 そこからが勝負ですね。
藤沢 気持ちを入れ替えて、会社でわからなかったことを全部、二度とわからないと言わないように、予習復習を始めたのです。定款・諸規則集という投資信託のルールが書いてある本があるのですが、それと証券六法と税法を1年間、毎日勉強しました。
 家に帰って今日わからなかったことをノートにまとめて、税法とか諸規則集とかそういうものを覚えて……。1年経つと証券がらみのことは、結構マイナーなことまで詳しくなっていました。そうすると皆から頼りにされるようになるんです。「これは法律上、問題ないのかな?」などと聞いてくれるようになって、やっと自分にも自信が持てたのですね。
 その時に強く思ったことは、学生の頃はこれが何になるんだと思っていた勉強が、社会人になるとすぐに役に立つということです。

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高給が重荷で逃れたいから

日本にまだない会社の起業を思いついた

野田 なるほどすごいですね。その他に、何か自分に課していたことなどありますか?
藤沢 起業しようと思っていたので、もう1つ自分に課していた課題は、とにかく社長と話すということです。社長室に行く理由を常に考えて、何かきっかけがあったら、とにかく社長室に行くようにしました。100人しかいない会社だったのですが、最初は書類を持っていくことから始めて、半年くらい経った後は、社長室に行くときは必ず提案書を持っていこうと決めて実行しました。とにかくいろんな提案をしました。もっとも、くだらない提案もありました。たとえば女性の制服を止めてくださいとか(笑)。
野田 制服だったのですね?
藤沢 男性は制服じゃないのに、女性は制服でした。「だったら男性もネクタイを統一しろ」などと言って怒られました。
野田 私は野村総研時代に全く逆の提案をした経験があります。男性に制服を作ってくれと提案したのです。それは、背広が高くて買えなかったからです。
藤沢 でも、野村総研は給料がよかったでしょう?
野田 いや~、きつかったですよ。僕のときは初任給が9万8000円くらいでした。
藤沢 私たちも9万4000円だった、確か。
野田 それでお金なくて、女性はジーパンでTシャツみたいな格好で出社して、制服に着替えるわけです。俺たちだってジーパンとTシャツなら持っている。あれで通勤できれば楽だって思ったのですね。
藤沢 まさに、そういう説明を社長からされました。「皆、お金が大変なのだから、制服が必要なんだ」「君は一体、何を言っているのだ」と怒られました。
 逆に、提案が通って、そのプロジェクトを任されたこともあります。投信運用会社には、証券会社各社の方々が来社するわけですが、商品について説明するような、プレゼンルームがなかったのです。それを作りましょうと提案したら、「じゃあ、やってみろ」と言われて、それで舞い上がって部屋のレイアウトなどを考え始めたのです。備品は何が必要かと考えて、直属の上司に見せたら、「こういうものを揃えるにはお金がかかるのだぞ」って、ものすごく基礎的なところを指摘されて、「ああ、お金がいるのか」って思ったのです(笑)。お金が掛かるものに関しては稟議書を作って総務部に提出して、担当役員の承認を得ないといけないと聞かされて、それで総務部長に相談に行きました。部長から「いくらかわかっているのか?」と聞かれて、「わかりません」と答えたら、とにかくカタログをたくさん渡されました。それを見て、「こんなに高いの?」って、現実を知るわけです。
 そんなふうに、その会社ではいろんなことを学びました。何かをやるには、こんなにお金が掛かって、こんなに段取りが必要で、こんなにいろんな人に話をしないといけないのかということも学びました。そんな経験をずいぶんさせてくれた社長でした。だから、国際投信には本当に感謝しています。いろんなことを学ばせていただいたし、いろんなことに気づかせてもらえました。
野田 それで転職されますよね。
藤沢 はい。国際投信から外資系企業に行ったのは、起業をしたいと思っていたので、起業を勉強できるところに行こうと思ったからです。シュローダーが日本で運用会社を立ち上げる(シュローダー投信。現在のシュローダー投信投資顧問)というのでいい機会だと思いました。それで会社の立ち上げに参画して、次に、起業するには営業を知らないといけないと思って、営業をやりたいと言ったのですが、「女性は営業させない」と言われて、それで営業できるところに行こうと思って、26歳のとき、次にウォーバーグ投信(現在のメリルリンチ・マーキュリー投信投資顧問)に転職したのですが、年収1000万円で入ったのです。だけど、営業を始めたら、全然できなくて、どうやって営業したらいいかわからないのですね。外資系企業だから、誰も教えてくれない。営業先は、名だたる企業の猛者ばかりで、話も聞いてもらえないのですよ。雑談しようにも、26歳の女の子が、一癖も二癖もありそうな部長に対して雑談のネタも持っていなくて、「ダメだ、これは」と思いました。給料こんなにもらっても何の役にも立たないというのは重荷で、何とかここから逃れたいという気持ちが高まってきたときに、たまたま大蔵省(当時)の金融審議会の答申書か何かを読んでいたら、「日本には投信評価会社が必要だ」と書いてあったのです。だったら私、そういう会社を起業すればいいんだと思ったわけです。
 だから、直接の原因は、給料をもらい過ぎていたところから逃げたかったのです(笑)。

人生はやった者勝ち
だから躊躇している暇なんてない

野田 そこが普通じゃないのですよね。普通はそんなふうには結びつかない。
藤沢 必死だったのですよ。それがちょうど年末だったので、年末年始に奈良の実家に帰ったときに、パソコンを買ってきて企画書を作りました。年明け、パソコンと一緒に東京に戻ってきて、隣の席の同期を、「ねえ、一緒に会社をやらない?」と言って誘ったのです。それからは、「営業行ってきます!」と言って会社を飛び出して、QUICKとか共同通信とかに出掛けていって、「こういう評価会社をやりたいのだけど、一緒にやりませんか?」と営業をして回って、それで会社を作ったわけです。
野田 とにかく、すごく主体的に動いていますよね。
藤沢 若いときは確かにそうだったのですよ。25歳で結婚して、30歳までに起業するというところまでは計画していたので、その通りにやってきたのです。でも、起業してびっくりしたのは、「しまった。いつまでやるか決めていなかった!」ということなのです。起業しちゃったけど、これから先、どうしようって、そんな感じでした。
野田 それで売却したのですか?
藤沢 起業してビジネスをやり始めて、同時にインターネットが世の中に普及し始めました。そうするとサーバーの投資にもかなりの資金が必要になって、ベンチャーキャピタルからお金を出してもらおうという話になりかけたのです。
 だけど、何か無責任ぽい人がやってきて、「あなたたちに生命保険掛けます」とか、「上場していただかないと困ります」などと言うわけです。こんなに情熱も何もない人に、お金を出すからって、こんな偉そうに言われるのは嫌だと思って、ベンチャーキャピタルからはお金を出してほしくないと思いました。それで、試行錯誤をしていて、会社の売却ということを考えるようになったのです。
 独立系だったことが幸いして、海外の企業5社くらいから売ってほしいというオファーが来ました。どこを選ぼうというときに、その中で一番、私たちの社員が正面から行っても入れない会社に売ろうと決めました。そのほうが痛快じゃないですか。それでスタンダード&プアーズ社に決めました。
 誰もMBAを持っていないですし、誰も英語をしゃべれない。だから普通、絶対に就職できない会社ですが、会社を売ると社員になれるわけです。もちろん、ビジョンなど共有できるところが多かったですし、データもグローバルに持っていたという理由もあります。それで起業してから4年経ったところで売却しました。
 そこまでですよ、いろいろ計画通りに行ったのは……(笑)。
野田 その後は紆余曲折があったのですか?
藤沢 そうなのです。それからは本当に苦労しました。その時点で32歳くらいでした。会社を売った後、1年くらいスタンダード&プアーズ社にいて、「次に何をしようかな」「もう一回会社作ろうかな?」などと考えていたときに、田坂広志さん(当時は日本総合研究所取締役)に出会ったのです。ずーっと私が知りたいと思っていたことを、この人は何でも知っていそうだなと思いました。
 何よりも資本主義が今後どうなるのかということに、その頃すごく興味がありました。資本主義が進んでいくと、強いものが全部を食べちゃう。そうなったら、小さなものはどうなってしまうのだろう。小さなものたちが全部吸収されて、なくなっていくような、そういうイメージがあって、資本主義はこのままでいいのだろうかと考えていたわけです。
野田 確かに、放っておけば、そうなりますよね。
藤沢 投資信託の仕事をしたときに、いろいろな意味で投信は素晴らしいと思ったのですが、1つあったのは、たった一人の名もなき人間でも、自分のお金をファンドに投資することによってマーケットを動かせるという事実でした。つまり、個人一人ひとりは社会なんか動かせないと思っていたのに、投資信託という器で社会を動かせるのだということを知ったわけです。だから投信というツールは、名もなき個人をエンパワーするすごい道具だと思いました。
 だから私、そこにヒントを感じていたのですね。しかも、起業したら、こんな名もない若造が、社会に1つのビジネスを生み出して、投信の歴史の本などに名前が出るまでのことができたわけです。
 そう、動けば社会は変わるのだと思ったのですよ。ところが、資本主義の究極のイメージはそうしたことと真逆じゃないですか。そんな矛盾を抱えていたときに田坂さんにお会いして、「資本主義の未来はどうなるのですか?」という質問をしたのです。
 そうしたら田坂さんがおっしゃったのですね。
「これからは、東洋的思想がすごく大事になってきます。アメリカの西海岸ではそういった思想によって新しい資本主義の形が生まれ始めているのですよ」って。そう言われて、「この人と仕事したら絶対おもしろい」と思ったわけです。
野田 なるほど、田坂さんらしい答えですね。
藤沢 そのすぐ後に、田坂さんがシンクタンクを立ち上げるという話を友達から聞いて、ぜひともそのプロジェクトに参加したいと思ったのです。最初田坂さんは、ソフトバンク・ファイナンスの北尾吉孝社長(現・SBIホールディングスCEO)と一緒に始めるつもりだと聞きまして、北尾さんには面識があったので、一緒にシンクタンクを創るメンバーにしてくださいとお願いしました。そうしたら快諾してくださって、「田坂さんにも会ってお願いしてごらんなさい」と言われて、出掛けていって「北尾さんがいいよとおっしゃってくださったのですけど、ご一緒させていただけませんか?」って、押しかけですね。そうしたら、田坂さんも「いいですよ」と言ってくださって、それで決まりました。
野田 真逆の世界ですよね。それまではどちらかと言うと左脳を使ってさばくといったイメージの世界にいらっしゃって、そこからポンと、言ってみれば右脳で勝負する世界に飛んでいったわけですよね。外面上は全く違う方向に行ったと見えますね。ただ今お聞きすると、ストーリーはつながっているのですね。
藤沢 そうですかね。私自身は真っ直ぐ進んできたような気がします。投資信託についてはずいぶん自分でもいろいろなことをやってきた気持ちがあったし、その上で起業して何より思ったのは、1回の人生ですから、やりたいと思ったことをやった者勝ちだろうって。そのほうが後悔をしないですみますよね。
 だから皆、やりたいことをやったほうがいいはずです。
 それと思ったのは、起業家とか経営者という人種は、それぞれ素晴らしい発明を日々行っている人たちだという実感があったので、そういうことをより多くの方に伝えたいと思いました。それがシンクタンクだったらできるだろうと思ったのです。


*次週に続く



NPOは社会を変えるか?

NPO、NGOなど非営利セクターの維持拡大は、今後の日本、そして世界の安定的成長に欠かせないテーマでしょう。しかし、特に日本において、まだまだNPO法人などは不幸なままです。ボランティア活動も重要ですが、長く民間発の社会貢献活動を安定的に継続させるためには、通称、NPO法人といわれる特活法人、あるいは一般社団法人や財団法人などがもっともっと力を発揮しなければいけません。では、その世界とは一体、どのような世界なのか。このコーナーでは、さまざまなNPO法人、一般社団法人、財団法人の理事長や理事、事務局の方々にご登場いただき、非営利セクターの今を見ていこうと思います。

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第15回  被災地から日本、そして世界に発信する夢がある

4回にわたって、一般社団法人MAKOTOについて紹介している。取材に答えていただいたのは、MAKOTOを作った代表理事、竹井智宏氏だ。MAKOTOは、東日本大震災後、荒廃した被災地にいち早く生まれた、起業家を支援するソーシャルインキュベーターと言っていい。支援する対象は、「志」企業であるという。その心は、(社)社会人材学舎の理念にも通じる。今回は、東北を元気にしようと頑張るベンチャー企業を紹介する。

美容師チェーンや日本一のイチゴづくり
さまざまな取り組みが始まった

「志を持って頑張っている会社が今、東北に増えています。この地を復活させたいと別の地域からやってきた起業家もいます。東北の出身者ももちろんいます。業種や職種はまちまちです。IT関連や農業、食、伝統工芸などもあります。共通しているのは、東北を元気にしたいという思い。そういう企業を支援しています」

 たとえば株式会社ラポールヘア(早瀬渉社長:1976年生まれ)は、美容院チェーン。早瀬社長は、もともと東北に縁もゆかりもなかった。モッズヘアジャパンの役員だったのだが、震災を受けて退社、被災地の雇用を作る必要があると考え、被災してしまった美容師の方々、店舗が流されてしまったという美容師に職場を提供した。