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野田稔と伊藤真の「社会人材学舎」VOL.5 NO.2
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野田稔と伊藤真の「社会人材学舎」VOL.5 NO.2

2014-06-09 06:00

    野田稔・伊藤真の「社会人材学舎」VOL.5 NO.2

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    コンテンツ

    今週のキーワード
    「自律・自立・而立」

    対談VOL.5
    平野洋一郎氏 vs. 野田稔

    安定したら、ベンチャーじゃない
    世界で通用しなければ、意味がない
    挑戦を止めたら、人生はつまらない

    第2回 「自分たちで製品開発をする」という大義に突き動かされた

    政治・行政にやり甲斐はあるか?
    6月のテーマ:日本国憲法は果たして変えるべきなのか
    伊藤 真
    第2回 憲法改正の必要性をさまざまな角度から確認する

    粋に生きる
    6月の主任:「遠峰あこ」
    第2回 野毛の街が“遠峰あこ”を育て始めた頃

    誌上講座
    テーマ4 何が究極の楽観主義を生むのだろうか
    浜田正幸
    第4回 シャドウと呼ばれる免疫機能を克服せよ!

    Change the Life“挑戦の軌跡”
    女子力をビジネスに活かす! 二人で組んだしなやかな経営
    ――シルキースタイル
    第2回 不満ではなく、次のステージに行くために起業する

    連載コラム
    より良く生きる術
    釈 正輪
    第18回 山の中の非日常





    今週のキーワード

    「自律・自立・而立」

     この3つの「じりつ」の意味はどう違うのであろうか。もちろん、総じて同じ意味と言ってしまえばその通りかもしれないが、微妙にその意味は違う。

    「自律」は、自分を律する、自分をコントロールすること。他人の意志などに制約されることなく、自分で自分の言動を制御することを意味する。ちなみに自律の英訳はautonomyである。

    「自立」はどうかと言うと、これを英語にすれば、independenceだ。自律の意味を含み、さらに、独立独歩に自分の足で立つことを意味する。この場合、経済的な独立も意味する。

     そして「而立」。これは、論語の中に出てくる年齢訓の一部だ。「三十而立」、つまり、30にして立つ。30歳で自分の立場ができるといった意味になる。

     だから、自律していても、自立しているとは限らない。自立していれば、自律もしているはずなのだが、そうとは言えない人もいる。

     そして而立は、言ってみれば一人前になることだから、自律も自立も含んでいると考えられるが、一人前になっても、自立はしていないということも現実には少なくない。

     いずれにしても「じりつ」は、自分が自分の主人になることだ。行動を決定するのに、別に他人の意見を参考にしてもいいし、その意見のままに行動しても構わない。大切なことは、自分の言動に責任を持つということ。そして、やってしまったことに対してつべこべ弁解をしないということだ。

     そう、弁解ほど、みっともないことはない。

     自分で決めて、覚悟して行動し、誇れる成果は享受し、恥ずべき結果も受け入れる。その胆力こそが本来、「而立」の源なのだと思う。



    対談VOL.5

    平野洋一郎氏 vs. 野田稔

    安定したら、ベンチャーじゃない
    世界で通用しなければ、意味がない
    挑戦を止めたら、人生はつまらない

    本誌の特集は、(社)社会人材学舎の代表理事である野田稔、伊藤真をホストとし、毎回多彩なゲストをお招きしてお送りする対談をベースに展開していきます。ゲストとの対談に加え、その方の生き様や、その方が率いる企業の歴史、理念などに関する記事を交え、原則として4回(すなわち一月)に分けてご紹介していきます。

    今月のゲストは、インフォテリア株式会社の創業者、平野洋一郎氏です。同社は、昨年9月1日に、創業15周年を迎えた会社ですが、そのベンチャースピリッツは衰えることを知りません。平野社長は、「安定」を嫌います。安定とは、変化しない、つまりは成長しないということを意味するからです。1998年に六畳一間のアパートからスタートしたインフォテリアは、海外4拠点に子会社を持つ会社になりましたが、平野社長の理想にはまだほど遠いのです。永遠のITベンチャー、インフォテリアの物語の続きです。エンジニア七人衆を巻き込んだ「大義」とは何だったのか。ベンチャースピリッツとは、いかなる“スピリット”なのか。
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    第2回 「自分たちで製品開発をする」
           という大義に突き動かされた

    悪魔の囁きを封じた、ソフトウエアベンダー変革の夢

     その夢とは何か。やろうとしたことは、先に示したXML専業のソフトウエアベンダーだ。しかし、それはやりたいことの1つでしかなかった。夢は別の次元にあった。

     それは、「日本のソフトウエアベンダーというのは、少なくとも上場している規模のベンダーは多くが受託開発事業であるわけです。言いかえれば、特定のユーザーに注文されたことを注文通りに開発しているということになります」(平野洋一郎代表取締役、以下同)

    「一方でソフトウエアの最大の利点は、同じモノを複製できる点です。つまり開発コストは他の製造業と同じようにかかっても、生産コストは限りなくゼロに近い。実際世界的に活躍しているソフトウエア企業は、Microsoftにしても、Oracleにしても、Googleにしても、不特定の数多くのユーザーに使ってもらうソフトウエアを開発しています。同じビジネスモデルをとるインフォテリアも、お客様から注文書が来ないのに、プロダクトを企画して、開発して、世に出すわけです。もしかしたら一本も売れないかもしれない。しかし、世界中で自分たちのソフトウエアを使ってもらいたくて、受託開発をしない会社を立ち上げたのです」

     しかし、それは、今でもそうだが、当時はさらにイバラの道だった。「開発をお願いしたいのだけど」「ちょっと手伝ってよ」という悪魔の囁きはずっと耳元でささやかれ続けた。

    「その囁きを聞いてしまったら終わりなのです。日本のプロダクトベンダーはずっと、その囁きに屈してきたのです」

     熊本にキャリーラボがあった時代は、他にも多くの優秀なソフトウエアハウスが全国の一流大学の周りに存在していた。北海道大学の近くにはハドソンがあったし、東京大学出身者が作ったサムシンググッド、大阪大学にはダイナウエア、九州大学にはシステムソフトという具合だ。

    「ハドソンだけがゲームソフトで最近まで生き残りましたが、あそこだって昔はOSも言語もビジネスソフトも開発していたのです」

     だが、当時はアーリ-ステージに投資するベンチャーキャピタルは存在しない時代だったから、皆、自分たちで稼いだものを再投資するしかなくて、そのために、どうしても日銭稼ぎをせざるを得なかった。そうなれば、必然的に世界のプレイヤーとの間に競争力の差がついてしまう。

    「だから、皆、人数の増えた社員を安定的に養うために自社の強みを活かしたソリューションという名の受託開発に流れてしまって、日本のプロダクトベンダーが尻すぼみになってしまった。私は、外資に身を置いたことで『それではだめなんだ』ということを思い知らされ、一方で外資系ソフトウエアをマーケティングしながら、他方で忸怩たる思いで日本のプロダクトベンダーが外資に負けていくところを見ていたわけです」

     インフォテリアのエンジニアの思いも同じだった。日本のソフトウエアベンダーでは製品を開発することができない。製品を開発できるのは外資だから、製品を作りたい人間は外資に行く。しかし、先述したようにそこでも多くの場合は、コアな開発はできない。ただ、本社などを見ていて、自分ならもっと出来ることがあると思いながら忸怩たる思いを抱えている。

     そんなときに、平野氏が掲げた「日本で製品を開発する」という誘いの持つ魅力は大きかった。しかも、北原副社長はロータス時代から、オリジナルの開発をやってきた人物だ。荒野に立つ御旗としては、十分な魅力があった。「彼がやるのだから、本物だろう」という思いを強くしたはずだ。そこには、間違いなく「大義」があった。

    「ただ、資金調達をする前の段階ですから、皆にははっきりと1年後に会社があるかどうかはわからないと言いました。それでも一緒にやらないかと口説いたのです。それでも来てくれたのが最初の7人です」

     それはそうだろう。そういう人間しか、その一歩は踏み出さない。逆に言えば、皆自分に自信がある。だから外資系企業を渡り歩く人間も少なからずいる。そういう人間が大義に突き動かされる。

     ところで平野社長の場合もそうだが、優秀な人材を巻き込めるリーダーは、まず、その優秀な人材に出会えなければいけない。成功するベンチャー企業には、社長のみならず、当然、適材適所で優秀な人材がたくさん集っているものだ。

     では、なぜそうした人材に出会えるのか。やはりそこで重要なのが問題意識であり、ぶれない大義という松明なのだろうと思える。そしてもちろん行動力も必要だ。積極的に、何千人、何万人という人間に会う。問題意識があれば、自分に必要な人物を見抜くことができる。松明を掲げていれば、それに共感する人間が近寄ってくる。それは、たとえば社内であっても同じことではないだろうか。

    「自分が何をやりたいかがはっきりしていれば、何千人、何万人と会う中で、必要な人間ははっきりしてきますよね」と平野社長は言う。

    興味のない人間まで巻き込んだ、確かな着眼点

     自分たちの思いを貫くためには、つまり、受託せずに先行開発を行うためには、投資モデルしかあり得なかった。そこで、平野社長は設立の翌日から投資家を廻った。

     ロータス時代にアメリカで、投資モデルで資金調達に成功した例を数多く目にしていた。昨日まで製品開発を徹夜で手伝ってくれていた別の会社のエンジニアが、突然、「会社を辞める」と言う。「次はどこへ?」と聞くと、半数ほどはどこへもいかない。つまり、独立する。

    「お金をどうするのか?」と聞くと、ビジネスプランを持ってベンチャーキャピタルに交渉にいくという。いくらぐらいかと聞くと、「3ミリオン」という。「300万円か」と思ったら大間違いだった。3億円だ。そんなことは不可能だろうと思うのだが、意外とそうではない。ベンチャーキャピタルにプレゼンをして、すぐに3億は無理でもたとえば1億円を出してもらえることはざらにあった。

    「1億円でも驚きますよね。キャリーラボにいた当時は、社長が信用金庫に行って、それこそ数百万円を借りるのですら大変だったのですから。ゼロが2つも違う。これじゃ日本のソフトウエア業界は太刀打ちできないと思いました。向こうは何億という資金を調達して、多数のエンジニアをそれだけに集中させて短期間で製品を仕上げて世界に打って出るわけです。日本の企業は数百万円の資金を必死に工面して、それでこつこつと開発を行う。まるでミサイルと竹槍の世界なわけで、これでは勝てるわけがない。そんなことをロータス時代に目の当たりにしたわけです」

     平野社長がこだわった投資モデルはうまくいった。厳しい時を経ながらも上場に至るまで、インフォテリアは「借金をしない」というルールを守り続けている。

     ここで、同社の資本調達の歴史を少し振り返ってみよう。

     最初の増資は、設立翌年の99年3月、エンジェルを中心としたもので3400万円だった。その3カ月後に、日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)を中心とした増資で6600万円を調達している。さらに同年の11月に国内のベンチャーキャピタルを中心として6億円を調達し、さらに2000年3月に今度は海外のベンチャーキャピタルを中心に20億円の調達に成功している。そして、7年後の07年6月には、東京証券取引所のマザーズ市場に上場。初値は、公募価格の2.6倍という人気を集めた。

     NTVP代表の村口和孝氏は、ジャフコのトップキャピタリストの一人だった。日本にもベンチャー企業をもっと増やさなければいけないという旗を立てて、インフォテリアと同時期、98年11月にNTVPを立ち上げた。それまで日本では当たり前だった上場直前のレイトステージでの投資ではなく、アーリーステージで先行投資を行う米国型のベンチャーキャピタルの必要性を彼は説いて回った。

     平野社長は、エンジェルの一人でもあったローカスの藤森洋志取締役から村口氏を紹介された。平野社長はエンジェル候補者に、常に「日本で、米国型のべンチャー起業モデルをやりたいのです」と説明してきた。藤森氏は、その言葉に呼応して「ベンチャーキャピタル側で全く同じことを言っている人がいますよ」と紹介してくれたのが村口氏であったという。

     藤森氏は最初のエンジェルの一人であったと同時に、その後、同社の監査役に就任してくれた人だ。村口氏を紹介してくれたことを含めて、まさに、最初の理解者であり、支援者と呼ぶにふさわしい人物だ。残念ながらガンを患い、2000年9月2日に、39歳の若さで他界された。

     そして、村口氏もインフォテリアの支援者となった。

     村口氏と会ったのは、98年のクリスマスイブ。浜松町の喫茶店であったという。30分しか時間がないということであったが、村口氏が最初に口にしたのは、「私はソフトウエアには投資しないことにしているのですよ」というものであった。平野社長にとって、これは衝撃的なパンチだった。それでもめげずに、30分間、精一杯プレゼンを行った。しかし、最後もつれなかった。「じゃあ、時間だから」と席を立った。当然、平野社長は「だめだったのだな」と思った。

     ところが翌年の1月16日、村口氏がインフォテリアの事務所のあるマンションの一室を訪ねてきた。当然、断りに来たのだろうと平野社長は考えていたが、村口氏は「XMLはインターネットをデータベース化する技術だと理解した。この技術はかなり将来性があるらしいね」と言い出したのだ。当然、平野社長は驚いた。これは後でわかったことだが、浜松町のミーティングの後、村口氏はあらゆる知人にXMLについて聞いて回ったのだった。それで、インフォテリアを訪ねたときにはすでに、「これはいける」と判断していたようだ。

     それで2時間ほどのミーティングの後、平野社長は「検討する」という言葉を期待したのだが、それ以上の答え、「出資する」という言葉が返ってきたのだった。

     もっとも、村口氏もそのときはまだファンドを組成中であったために、すぐには出せない。そのために彼はまず、インフォテリアの資本政策を手伝ってくれた。

    「米国流の見様見真似で、財務的な点は全く素人の私たちには、それは何にもましてありがたい手助けでした。それから村口さんは何回も私どもを訪れてくれて、資本政策の詳細を作り上げてくれたのです。それを元に、その後の大口の投資が可能になったといえます。私たちだけではどうしても、技術的側面や投資をしてもらうほうの論理だけが優先されてしまいます。村口さんが手伝ってくれたおかげで、出す側の考え方がわかった。彼らがどういう情報を望んでいて、計画上のどこにポイントを置くのかということですね。そういう意味では、彼が初代のCFOと言っても過言ではないわけです」

     翌年、エンジェルからの出資と、それに続くNTVPからの出資で、資金は1億円になった。これで最初の一歩が踏み出せる。さらに、99年8月に、村口氏が港区芝に会議室を借りて、投資家向けの会社説明会を開催してくれたという。この直後に、インフォテリアは6億円の第三者割当増資に成功し、さらに2000年3月にはゴールドマンサックスなどからの出資で20億円。合計27億円の資金調達に成功したのである。

     こうしたインフォテリアの歴史であるが、大きな危機も経験している。02年のことだ。

    「資金調達が成功したので、事業計画に書いていたプランを全方位で進めたのですが、売上は思うように上がらず資金が枯渇してしまったのです。投資モデルですから、借金はしない。だから、資金が底をついたらゲームオーバーです」

    「当時は、そのままいけば後4~5カ月で倒産という状況でした。プロジェクト型の経営でしたから、出資者にも終わりはあると言っていました。しかし、実は後数カ月で主力商品となる『アステリア」(データ連携用ソフトウエアパッケージ)が完成するという状況だったのです。それを出荷せずに終わることはできなかった。そこで、リストラを敢行しました。日本で約20人、アメリカは全員、約25人の人に、状況を説明して辞めていただきました。その後、人を入れることには非常に慎重になりました」と振り返る。

     その後、アステリアが完成。インフォテリアはV字回復を果たす。自分たちの作りたいものを先行投資して作り上げて、それでデファクトを取る。まさに、平野社長と北原副社長の掲げた大義が実を結んだ瞬間であった。

     
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