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広島を忘れないために 〜被害と加害の両面で語った故伊藤サカエさん
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広島を忘れないために 〜被害と加害の両面で語った故伊藤サカエさん

2013-08-06 15:00
     広島市で8月6日、「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)がありました。8月6日は日本にとって、いや人類にとって特別な日です。1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」がウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を広島市に投下しました。人類史上初めて原始爆弾が実戦で使われたのです。

     つづいて、8月9日には長崎市に、B29爆撃機「ボックスカー」によってプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を投下しました。この日の第一目標は福岡県小倉市(現在の北九州市)でしたが、爆撃経路侵入に失敗。天候も悪化したことで、第二目標の長崎市に変更になったのです。

     ちなみに、これらの原爆が落とされる前、模擬原爆が製作され、実戦で投下されています。模擬原爆は、「パンプキン爆弾」と呼ばれ、「ファットマン」と同じ形です。正式名称は「一万ポンド軽筒爆弾」。実際に投下した場合の爆弾の爆弾の特性を知るために使用されたのです。富山市、長岡市、福島市、練馬区、西東京市、島田市、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市、春日井市、豊田市に落とされました。ちなみに、命令違反でしたが、昭和天皇暗殺のために皇居を目標にしたものの、目標が外れ呉服橋に落ちたということもありました。

     私は大学2年のとき、1990年、広島の平和祈念式典に参列したことがあります。当時、平和運動をしていた友人たちと一緒に行きました。当時は、チェルノブイリ原発事故からまだ4年しか経っていません。日本にもチェルノブイリ原発事故により降り注いだ放射線の影響もややありました。そんなことが話題になっていた頃です。この頃作られたドキュメンタリー「チェルノブイリ・シンドローム」や「チェルノブイリ・クライシス」を事前に見て行きました。また、平和運動だったために、広島に行く前に、駅前で署名活動などをして行ったことを覚えています。

     しかし、1990年といえば、世の中はバブル絶頂の頃です。また、平成2年であるため、まだ、「新しい時代」の幕開けを予感していた時期でもあります。そんなタイミングで過去の、しかも45年前の原爆投下について考えるのは、時代のムードとはまったく合いません。今から考えてみても、ある意味「ダサい」「かっこわるい」ことをしていたと思います。と同時に、平和運動は、政治運動でもありました。そのため、活動をしていると、必ずといってもいいくらい、公安警察にチェックされ、写真を撮られていました。

     広島では、原水禁系の集会や学習会に出ました。日本の原水禁運動は、1955年に「原水爆禁止国民協議会’(原水協)」が作られたのが最初でした。その後、日米安保条約や原発問題の対応で対立し、自民党系と民社党系が離脱。民社系は「核兵器禁止平和建設国民会議」(核禁会議)が作られました。

     さらに、ソ連の核実験を機に、「いかなる国の核実験に反対」と主張する社会党系と。「社会主義国の核兵器は侵略防止」と容認する共産党系が対立。1965年に社会党系が離脱して、原水爆禁止国民会議(原水禁)が誕生します。私が参加した平和運動は、社会党色があったわけではありませんが、アンチ共産党=民青同盟色があったため、原水禁に参加したのです。
     
     式典の周辺には、各政治党派が集まっていました。竹槍を持っている政治党派を見て、「この時代にあっているのか?」と思ったりもしました。原爆投下の時間に、ダイ・インをしたり、原爆ドームを人間の鎖で取り囲むといったことをしました。原爆ドームを人間の鎖で囲むことは、私の企画で、私たち20人近くだけでは実現できません。そのため、通りすがる人に呼びかけて、一時間ほどで囲むことが出来ました。そんなこともよい思い出になっています。

     6日前後は広島市内では学習会がたくさん開かれていました。幼稚園でも開催されているのを見て、「広島は平和学習、原爆学習が当たり前のように行なわれている」と思ったものです。

     8月6日といえば、思い出す人がいます。伊藤サカエさんです。伊藤さんは広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)理事長で、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員でしたが、2000年1月、亡くなりました。伊藤さんと出会ったのはこのときです。

     原爆というと、非戦闘員を含めて多くの犠牲者がでたことから、当時の国際法に違反するとの主張もあります。私も同じことを思っていました。そのため、原爆を語るとき、被爆国と、被害者的な側面で語るのが普通だと思っていました。

     しかし、伊藤さんは被曝を「被害者」だけの視点では語りませんでした。国家総動員法があったとはいえ、伊藤さん自身、戦争の遂行者であったことで、「加害者」としても語ったのです。伊藤さんはもう亡くなりました。被曝者は高齢化し、当時を語る人は少なくなっています。そんな中で、原爆を「加害」と「被害」の両面で語っていた伊藤さんのことは今でも忘れません。

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