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とっぷりと日の暮れた田舎道。ひなびた農村の景色の中、ぽつんと立っている一本のバス停留所の前でイグニスは首を捻っていた。
小鳥から渡された連絡用の携帯端末の液晶に表示されている時刻は20:03――。
停留所に書かれている時刻表、最後の一本を記す時間は19:35。
「ム……」
液晶を見る。
「……ムム」
時刻表を見る。
「…………」
何度見ても結論は変わりはしなかった。がっくりとしゃがみこむイグニス。
「乗り……遅れた……フ、フフ……任せておきなさいと言っておきながら……そんな器なんてなかったわね……」
地面に指を這わし「こ と り」等と書いてみる。のの字でなかっただけ上出来なのかも知れない。
ことり、ことり、ことりと三回書いてから指がぴたりと止まる。
「このままでは駄目ね」
考えてみれば――今、自分の手元には今日の夕食の食材があるのだ。すなわち、このままでは自分はおろか小鳥や神主も晩御飯抜きになってしまう。
「車で二十分……直線距離なら10kmもないわね」
この程度の距離ならば、自分が神社の祭神――火之迦具土神の神気を感じ取れない筈はなく、方角を見誤る事もない。
「それに走った方が車より早いわ」
その言葉にも嘘はない。常日頃弛まず鍛えてきた身体と祭神の加護。その両者を持ち合わすイグニスは、人の身では到達出来ない領域に属している。
「少し本気で……早めに帰るとしましょうか」
そんな折、手にした携帯端末が着信に光る――通知名『ことりちゃん』にビクリと反応してしまう。
右を見ても左を見ても助けの手はない。正面の暗闇に携帯端末を投げ捨てる訳にも行かず、通話ボタンに指をかける。
「もしもし……小鳥?」
『イグニスさま! 大丈夫ですか何やってるんですか泣いてませんか!?』
「泣いてないわよ」
『ほっ。あの今どこです?』
「停留所の前」
『……もう最終出てるじゃないですか』
「大丈夫、走って帰るわ」
『へ……?』
即座に意味をはかりかねた小鳥との電話を切り、イグニスは一散に駆け出した。
☆★☆
20:20
時計の針が綺麗に扇形を作る頃、イグニスは千本鳥居の下を通り抜けた。
僅かに10分を越えてしまったが、山の中、直線10kmを踏破した記録としては上出来だ、と頬が緩む。
「あら」
見てみれば木の枝にひっかかったのか、服の数箇所が破れ、ところどころに泥もついていた。
「普通の服は扱いにくいわね――」
いつも自分が身に着けている装束ならば、この程度で破れたりはしないだろう、と思う。泥がつくような動きにくさとも無縁だ、と。
そのように自身の姿を見繕うイグニスの元へ、小鳥が駆け寄ってきた。
「イグニスさま!」
「あら、小鳥。ただいま」
平然として応えるイグニスにいつもどおりの返答をしようとして、言いよどむ小鳥。
「おかえりな……どうしたんです、その格好……バス、乗れなかったんですよね……」
気づいてる事を知りたくない、と言った面持ちで小鳥の声が段々と小さくなる。
「ええ。森を抜けて帰って来たのよ」
「怪我……してるじゃないですか……」
「? ああ、これぐらい何でもないわ。この服がね。動きにくいから」
「……え」
「泥に汚れてしまったし。早く着替えたいわ」
何気なく呟いた言葉に合いの手は返って来ない。
「小鳥……?」
見てみれば、僅かに俯いて何かを我慢しているような小鳥がいた。
「どうして……そんな無茶をするんです。待ってくれれば、タクシーでも何でも迎えにいったのに……」
人の機微を敏感に察する事は――どんな考えを経て小鳥がそう言ったのかは、イグニスにはわからない。
「この程度、無茶でもなんでもないわ。早く帰った方が美味しく食べれるでしょう。タクシーは無駄遣い、無駄遣いは駄目、ですからね」
わからない以上、端的に聞かれた事を答えるだけだ。最後の「無駄遣いは駄目」のくだりは小鳥の口調を真似る事が出来たので上出来だ、とすら思った。
地雷だった。何かに耐えていたような小鳥が遂に爆発した。
「怪我してるじゃないですか……! 神主様だって私だってイグニスさまが怪我してまで美味しく食べたい訳ないじゃないですか! 心配するんですよ、したんですよ!」
「小鳥……?」
怒られている訳ではない。が、何に激しているのかがイグニスにはわからない。どこかで食い違いがある、という事だけはかろうじて理解する。
イグニスから言えば怪我をする事を選んだのではなく、最も早く帰る事を選んだ結果、怪我をしてしまっただけだ。怪我はただの過程だ。
「これぐらいの怪我、明日には治るわ。心配しなくても大丈夫よ?」
炎神の巫女としてその加護を総身に受けているイグニスは、炎を自在に操れる他、様々な力を用いることができる。身体能力だけを取ってみても、10kmの森の中を突っ切る事も可能であれば、怪我の治癒も常人とは桁違いに早い。
「怪我はすぐに治るけど、ウナギの鮮度はそうもいかないでしょ……?」
ならば皆が美味しく食べられた方がいいではないか、とイグニスは思う。取り返しのつく事と取り返しのつかない事。両者を比べた時、取り返しのつく事を犠牲にするのは当然だろう、と。
「だから、心配なんかしなくても大丈夫よ」
宥めようとして小鳥の頭に手が伸びる。少しでも落ち着くだろう、と頭を撫でようとする。
「やめてください!」
強い、拒絶。小鳥の腕がイグニスの手を振り払う。不意の衝撃に体幹が崩れてしまう。
しゃりん、とイグニスの髪飾りが地面に落ちる。
「あ……」
「……」
しゃがみこみ、髪飾りを拾い上げる。
「ああ……壊れてしまったわね……」
見れば一部の金具が欠けていたが、直せない程ではない、と安堵するイグニス。
「ご……!」
「?」
見上げれば小鳥の顔が蒼白になっていた。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
謝り、脱兎のごとく駆け出す小鳥。何故、小鳥が逃げ出したのかがイグニスには理解出来ない。
出来ない以上、呆気に取られたまま小鳥の背中が消えた方を見続ける事しか出来なかった。
「小鳥……」
イグニスが髪飾りを大切にしている事も、髪飾りが、魔法使いの間で言われる魔術焦点具――神器である事も小鳥は知っている。
知っているが故に破損させたと言う「事実」に小鳥は怯えてしまったのだろう、とイグニスは考える。
「あまり気に病まなければいいのだけれど……」
完全に壊れてしまった、と言うのなら話は別だが、修繕が出来ない訳ではない以上――つまり「取り返しのつく事」でしかないのだ。
ならば必要以上に負い目を感じる事もないだろう、とイグニスは思う。
明日の朝にでも「気にする事はないわよ」と一言、二言声をかければいいだろう――そんな思いを巡らせるイグニスだった。
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