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 しゃらん、しゃらんと鈴の音がする。
 鈴を鳴らしているのはひとりの女性だ。
 燃えるような赤い髪と、赤みがかった肌、そして金色の瞳。
 妖しくも秀麗な雰囲気と、肌もあらわな巫女衣装をまとった彼女は、古ぼけた白木造りの幣殿――祭神に儀式を捧げるための場所――の中で、ただひとり、奉納の舞を踊っていた。
 その舞も、今様の神楽ではない。上古の時代より伝わる、神降ろしの儀式に近いものだ。
 右に回り、鈴を鳴らす。
 左に回り、鈴を鳴らす。
 その舞はだんだんと激しくなっていく。くるりくるりと回る速度が早くなり、振り鳴らされる鈴の音もより高くなっていく。
 そしてそれが最高潮に達した時、彼女はとんと跳躍し、たんと床を踏み鳴らすとともに、りん、と、ひときわ高く鈴の音を鳴らした。
――しばしの静寂のあと。
 彼女は本殿のご神体へと拝礼し、神体の前に安置されている大振りの剣(ツルギ)を手に取る。
「それでは――行って参ります」
 静かに一礼するとくるりと振り返り、足音を立てる事もなく幣殿から退出する。
 幣殿から拝殿――参拝者が礼拝を行う場所――へと続く石畳の上に、しんしんと月明かりだけが静かに降り注いでいる。
 夏もまだ終わっていないというのに、肌に抜ける風は涼やかを通り越して僅かに冷たさも感じる。
 標高千二百メートルの山頂にある神社ならではの、冷たく静かな風。先の舞で汗ばんだ肌に、その風はどこか心地よさを感じさせる。
 拝殿を抜け、参道をひたひたと歩いて行く。その先にあるのは神社の入り口とも呼べる千本鳥居――ふもとから階段を登りきった場所にある巨大な鳥居だ。
「よぉ……」
 そこに一つの人影が宵闇より尚、昏い影を纏って立ちはだかっていた。
「ようこそ、化外の民」
「ハ。ようやくお出ましか、炎神の巫女……!」
 二人の間で膨れ上がる敵意と殺意。
「どういう目的かは知らないけれど。まつろわぬものに神器、祭器は渡す事はおろか霊脈を汚す事なぞ――このイグニスがいる限り不可能と知りなさいな」
「いいねぇ、話が早いねぇ、その通りさ! 最古の一柱でもあるカグツチを祭るこの神社! そのパワーチャンネルを手に入れる! つまりそれはあたしが最強になるって事だ! この、カバネ=ヴァム様がだ!」
 深紅のコートをなびかせ、カバネと名乗った化外の民が吼える。
「行くぜぇ! サイバーアァァッ」
「遅いわ」
「ァァムオッ……ン? え、ちょ」
「隙だらけよ、貴女」
 斬光一閃。きらりと月明かりを受けた剣(ツルギ)が閃き、カバネの胴へと吸い込まれていく。
 鋭利な刀身ではなく、古い造りの太刀である。ほぼ鈍器と言っても申し分ない剣を振り抜けば、それは相手を斬り裂く事なく吹き飛ばす事となる。
「え、ま、落ち、ちょ、ああああああ!?」
「いつまでもそんな場所に立ってるから」
 眼下に広がる石段は、闇の中へと続いているかの如くどこまでも長く、先が見えない。
「力に酔い、自分に酔い。せめて素面になって出直して来なさいな」
 闇の中へ吸い込まれるように落ちていった相手に告げた所でその言葉が届いたかどうか。
「それにしても――」
 びょう、と風が吹く。
「この神聖な場所で力にあてられ、力に酔えるなんて、単純な子ね」
 風に流される髪を押さえながらくすりと笑う。最後の一瞬の、相手のどうにも驚いた顔を思い出し、頬が緩む。
「さて」
 ひゅひゅん、と剣先で印を切る。ひゅぅんぴぅんと空気を切り裂く音すら一定の律を保ち複雑な音階を奏でてゆく。
「これで暫くは大丈夫かしらね」
 言い終わるや否や、千本鳥居がほのかに輝いたのも一瞬の事だ。
「明日から早いし……お返しして私も休むとしようかしらね」
 誰に言うともなしに呟き、くるりと鳥居に背を向ける。

☆★☆

――イグニス・立里。炎神の巫女と呼ばれる彼女は、御役目――祭神守護と御霊を鎮める儀式。その二つの為に存在すると言っても過言ではない。
 時に化外の民から神器祭器、土地や霊脈を守り。
 時に御霊を鎮め人々を護る。
 界隈でも名の知れた実力者である。イグニスに比肩する実力の持ち主は五指に足りるかどうか。
 人の身でありながら遥かに人を超えた力を持つ彼女は、幼少時よりたった二つの存在意義の為に存在を許され、力を磨いてきたとも言える。
 結果的にどこか―そして何かが欠落しているのだと、本人も自覚しているが、その何かを捨てなければ人の身では届きようもない力を、得ていることも確かだ。
 それもまた人の業であろう。
 本人は、一向にそんなことを気にしていないのだが。
――そんなイグニスが早朝、千本鳥居の下で剣持つ手を箒に代え石段を掃いている。
 イグニスとて神社の巫女の一人である。人手が足りない時は普通の仕事の手伝いをする事もあった。

午前八時。
 まずは境内の清掃だ、と思い至ったイグニスは、竹箒を片手に参道の千本鳥居へと続く石段の掃除を始めた。
「ええと……こう、かしら」
 石段の一列を右から左へとさっ、さっと掃いていく。端に到達すれば集まった塵を下の段へと落とし、自らも一段降りる。そして次は左から右へと。
「ちょっと……ほんとにこれでいいのかしら」
 ふい、と視線を外せば遥か下方まで続く石段が目に入る。その数ざっと三百二十四段。
「……えー」
 気が遠くなった。煩悩の数の三倍である。そもそも煩悩が人が持つ36の欲に過去、現在、未来の三つを掛け合わせて108の数として数えている。
「何故、そこに更に三倍掛けてるのよ、この階段……」
 ざっざか、ざっざかと掃除を再開するイグニス。石段二段目にして丁寧さは微塵もなくなっていた。
「一つ掃けば煩悩が一つ減る、という訳でもないでしょうに……」
 そもそも煩悩を祓うのは除夜の鐘ではなかったか、と益体もない事に思考が飛ぶ。ならばわざわざ石段を掃き煩悩を祓う必要はないのではないだろうか――等と考えてしまうのはただの現実逃避と言えよう。
「つまり、掃除はしなくても……いい?」
 行き着いてはいけない答えに至る頃、降りた石段の数は百と三十二。もういいんじゃないだろうか、と足を休めた時、石段を登ってくる参拝客が目に止まった。
「炎神さまへお参りですか? 参道はこちらです」
 これ幸いと手を止めるイグニス。
「あ、はい。ええと……ここの巫女の人ですか?」
「ええ。案内が必要なら人を呼びましょうか?」
 参拝客が「え?」と怪訝そうな顔を浮かべる。「貴女は案内してくれないの?」とイグニスをしげしげと見ているが、やがてその視点はあらわな胸元へと移り、顔を赤らめ、にやけた表情になる。
「あ、あの……すいません、巫女さん」
「何かしら」
「案内より、その、写真撮ってもいいですか?」
 若い男の参拝客がそう申し出たのを誰が責められようか。
「写真? ええ、どうぞ。でも残念ね。九月になればこの参道、紅葉に包まれるから……宜しければその時、もう一度?」
「あ、いや、参道じゃなくて……」
 参拝客がスマートフォンを取り出しイグニスへと内臓カメラのレンズを向ける。
「?」
「じゃ、撮りまーす」
 ぱしゃり。枠の中に肌もあらわな巫女衣装のイグニスが収まる。
「ありがとうございます!」
「はぁ……?」
「ありがとうございますじゃありませんー!」
 境内の奥からあどけなさの残る声が飛んできた。名を小鳥という。この神社では年若い部類に入り、イグニスとも親しい仲だ。
「イグニス様ー! 駄目です! 駄目じゃないですか! その格好で!」
「撮影禁止だったかしら?」
「格好! そーじゃなくてですね! 格好が駄目って言ってるんです服が! 場所じゃなくて!」
 一気にまくし立てる小鳥はそのままスマホを没収しそうな勢いで、若い参拝客へと向き直る。
「困ります! 境内とか撮影禁止じゃありませんけど! 私たち巫女を撮ろうなんて何考えてるんですか! 煩悩ですか! この神聖な場所で!」
「す、すいま」
 しかし小鳥は最後まで言わせる事もなくイグニスへと向き直る。
「イグニス様もイグニス様です! 朝一番から何してるんですか! 部屋にいないと思ったらもう! もうもう!」
「ごめん……なさいね……?」
 何故、こんなに怒られているのだろう。
「あのですね! 神事に使うイグニス様の服装は、普段のお仕事で使う私たちの服装とは別物と思ってください!」
「……御役目もお仕事も同じ神事だと思」
 しかし小鳥は最後まで言わせる事もなく再び若い参拝客へと向き直る。
「つまり! この方は特別なんです! 撮影はご遠慮願います! データ消してください!」
「え」
「いやならスマホごと没収しますよ!?」
「は、はい! すいませんでした!」
「イグニス様はこちらへ! わたしたちと同じの用意しますからそれに着替えてください!」
「あー」
 ずるずると社務所へと引っ張られていくイグニスであった。

☆★☆

 時刻が午前十時を示す頃、イグニスは正座をさせられていた。
「あのですね! 神主さまから詳しい事は私から、って聞いてませんか!?」
「そんな事も言っていたわね……?」
「清掃とかは当番が決まってますから。基本的に山田さんがやってた事をお願いするつもりなんです、イグニスさまには」
「山田さん……?」
 ふと、首を傾げて記憶を掘り起こす。巫女たちの中でも年長者の一人だった筈だ。確か先日結婚するとか何とか言っていた覚えがある。
「はい! 山田さん、ご結婚されました! しかも噂では恋愛結婚だそうです! うらやましいですねぇ」
「そう。それはよかったわ。幸せになってくれるといいわね」
「はい!」
「……ああ、成る程。だから、人手が足りなくなった、という事に繋がるのかしら?」
「はい、なので新しい人が来るまでイグニスさまに、という事なんですけど……ですけど! 山田さん、今日は清掃当番じゃないんです!」
 右に傾けていた首を左に傾げるイグニス。
「つまり……余計な事だったのね」
「そこまでは言いませんけど……あの格好はちょっと……参拝する方に誤解を与えると言うか何と言うか」
「次から気をつけるわ」
 無論、イグニスの格好はすでに普通の巫女のそれとなっている。
「そうしてください……それで、服、サイズは大丈夫ですか? 一番近いのを持って来たんですけど」
「そうね……少し胸の辺りが苦しくて腰周りが緩いけれど」
「くっ」
「こうすれば大丈夫でしょう」
 胸元を緩め、腰帯をぎゅっぎゅと締める。
「ダメです。胸元は苦しくても我慢してください。緩めないでください」
「えー」
「次の時間はお守りの販売とかを手伝ってもらうだけですから。あまり動く必要もないですし我慢してください!」
「わかったわ。お守り、窓口でお渡しするのよね?」
「ですです」
「任せておきなさい」
 緩めた胸元を元に戻しつつ胸を張るイグニスだった。
――数十分後。
 世の中、殊に世俗に於いてはそうそう上手く行く事はない、とイグニスは知る羽目となる。
「小鳥? いちまんえんなんだけど……お釣りが足りないわ」
「すみません、すぐ用意します!」
「小鳥。火防のお守り、全部無くなってしまったのだけれど」
「ちょっと待ってください。こちらのを回しますから!」
「小鳥。撮影させて欲しいと言う方が」
「撮影禁止です! 断って下さい!」
「小鳥。恋愛祈願のお守りは」
「当社にはありません!」
「小鳥、小鳥。このお札、見た事ないのだけれど?」
「二千円札です! 本物です!」
「小鳥小鳥小鳥」
「はいはいはーい! 何ですか!」
「はいは一回にしなさいな?」
「くっ……」
 てんやわんやの騒ぎである。
 それもそのはず、幾つもある窓口の中でイグニスの座る窓口だけがひっきりなしに人が訪れていた。
 大半が若い男の参拝客であり、見目麗しい売り子を一目、という気持ちからなのは明らかである。
「くっ……煩悩らめが……っ。イグニス様!」
「何?」
「そろそろ交代ですし、ご飯食べた後は裏でお札の方を作りましょうか!」
「任せておきなさい」
――数十分後。
 世の中、たまには上手く行く事もある。
 得手不得手の中で得意とする事柄なら尚更だ。
 その部屋は販売所の喧騒と壁一枚で隔てられており、静かで落ち着いた調度の和室であった。
 部屋の中心、畳の上には、筆と硯が置かれ、その隣には無数の短冊が積み上げられている。
「すぅ……ふぅ……」
 深呼吸を一つ。心気を整えたイグニスは、硯の前に座布団を敷いて正座する。
「ふぅ……すぅ……」
 おもむろに筆を取り上げ、短冊に文字を走らせる。
 一文字一文字に祈りにも似た無色透明の想いを込めていく――ひとひらの紙を神威のこもった御札へと変えていく。
 本来、多大な集中力が必要な作業だが、日常的に神事に携わるイグニスにとってごく自然な行為の延長でしかない。
 その結果、スラスラと筆は進み、次々に御札が出来上がっていく。
「ふう……」
 御札作りが一段落する頃、小鳥が菓子盆を持って裏部屋へと入って来た。
「イグニス様ー。一息入れて休憩しませ……ええっ、これだけのお札、もう作っちゃったんですか!?」
「任せておきなさい、と言ったでしょう」
「うわー、字も綺麗……達筆ですねぇ」
 そんな驚きを見せながら菓子盆を畳の上に置き、イグニスの方へと僅かに滑らせる小鳥。
「どうぞ。お疲れのようでしたから甘いものがいいかなって」
 すぃ、と差し出された盆の上には数切れの羊羹と煎茶が注がれた小ぶりの茶碗。
「ありがとう。きんつば?」
「いえ、柿羊羹です」
 羊羹の一切れを更に半分に切って口に運ぶ。じんわりと広がる柿の甘さと羊羹の冷たさ。
「美味しい。小鳥も一緒に食べましょう」
「いいんですか! はい!」
 二人で羊羹を摘みながら煎茶を啜っていると自然と会話は今日一日の事になる。
「それにしてもイグニス様」
「?」
「結構何も出来ませんね」
「……っ」
 啜っていた茶を吹かなかったのは鍛え抜かれた集中力を土台とした強靭な精神力あっての事か。
「気のせいじゃないかしら」
「ですか。千円札五枚は五千円札一枚になるんですよ?」
「知っていたわ」
「ですか。……守礼門って行った事あります?」
「沖縄には足を運んだ事がないわ……せいぜい二千円札で見たぐらいね」
「ですか。……やりますね、ちゃんと覚えてるなんて」
「任せておきなさい」
「奈良の名物と言えば?」
「この柿羊羹もそうね」
「鹿と言えば」
「おせんべい」
 最早、連想ゲームになりつつあった会話の中、羊羹の最後の一切れを口に放り込みながら小鳥が笑う。
「イグニス様、午前中慣れてない事ばかりで大変じゃないですか?」
 ああ、だからこの子は菓子盆を携えて顔を出してくれたのだ、とイグニスは理解する。優しさに変わる一歩手前の気配り――そんな事が自然と出来る少女を愛しく思う。
「そうね。慣れない事も多いけど概ね大丈夫よ」
「どこからそんな自信が出てくるんですか……」
 呆れました、とわざとらしくため息をつくがそれも緊張をほぐそうとしての演技なのだろう。
「小鳥」
「はい」
「ありがとう」
 思わず年下の少女の頭を撫でてしまう。
「……! え、へへ。イグニスさま、イグニスさま」
「はいはい、何かしら」
「はいは一回ですよ!」
 時に照れ隠しは逆鱗に触れることもある。
「割る事には自信があってよ?」
 撫でていた手がそのまま、がしり、と鷲の爪が獲物を掴むかのように変化する。
「あだだだだっ割れる割れる中身中身でちゃうでちゃうっ」
 小鳥の悲鳴に、イグニスは艶然と微笑んだ。
「任せておきなさい」
「いーやー!?」
 そんな他愛もない、真昼の一幕。


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