はじめから よむ (第1回へ)

「おい! おいおいおい! 落ち着けオマエ! いくらやってもムダだぜ!」

 心臓が破裂しそうなほど全力で走っても、フェイントをかけても、ヨコリンがものすごいスピードであっさり僕に追いついて行く手を阻む。酒場の入口までほんの2メートルほどしかないのに、今はその2メートルが気が遠くなるほどの距離に感じた。頼む出してくれ。ここから出してくれ。もういいだろ。僕はちゃんと勧誘したんだ。なのになんでこんな目に。どうして僕がこんな目に。変なゴブリンにまとわりつかれて、酒場はどんどん増築されて、いつまで経っても終わらない。旅立てない。負のスパイラル、無限ループ。その上今度は僕よりも勇者らしいニセモノの勇者だって? はは、勘弁してよ。厄日か。大殺界か。悪い夢でも見ているような気分だった。夢なら覚めてよお願いだから。あれ? 雨かな? ああ……すごい雨だな……ちょっとこっち見るなよ……もちろん酒場の中だから雨なんかじゃない。止めどなく流れる僕の涙だった。顔で笑って心で泣いて、という言葉があるが、今の僕は顔も泣いてるし心も泣いていた。要するにただ泣いてました。普通だ。普通のことを言ってしまいました。はい自害ポイント獲得。ボーナスポイントが付与されたのであと2ポイントで僕は自害します。

 

 すると、僕の様子を見ていたドレアさんがカウンターの奥から声をかけてきた。

「ねえ。座って。あなたに渡すものがあるの」

 そう言ってドレアさんが僕に差し出したもの。それは、一本の剣であった。

 だいぶ古びてはいるが、しっかり手入れされているのが見てとれた。刀身の放つ静かな輝きは、不思議と気持ちを落ち着かせた。どこか懐かしいものを感じる。昔これとよく似たものを、僕は見たことがなかったか。いつだ。あれは。きっと僕がまだ幼い頃。

「これはね。先代の勇者が魔王を封印した時に使っていた剣よ」

 え?

「つまり……あなたの、お父さんの剣よ」

 言い知れぬ感情が一気に胸の底からわき上がる。それを興奮といえばいいのか、悲しみといえばいいのか、今の僕にはわからない。父さんの。魔王討伐に向かい、ついに帰ってはこなかった父さんの剣。そうだ、きっと。旅立つ時に父さんが持っていた。あの剣。物心つく前の僕が確かにこの目で見た、あの、剣だ。

「ヒロイックブレイド。代々勇者の一族に受け継がれる、伝説の剣、とでも言うのかしらね」

 ドレアさんはやっぱり僕が勇者だと気づいていたんだ。でもどうして。なんでこの剣を、ドレアさんが持っている? 僕は震える両手で差し出された剣を受け取り、剣とドレアさんを交互に見た。妙に素早い首の動きと縮こまり具合から、その姿はまるで小動物のようだったと思う。

「もう何年前になるかしら。あたしも一緒だったのよ」

 一緒。一緒というのは、つまり。

「あなたのお父さんと一緒に、魔王討伐に行ったのよ」

 ドレアさんの言葉を聞いて、心臓が大きく高鳴った。ドレアさんが。父さんと一緒に。そうか。そうだったんですか。

「あなたのことを最後まで気にかけていたわ」

 父さんが。そうかこの人は。父さんの死に際を見ていた人なのだ。最後の、最後まで。父さんは一体どんな人だったのか。どんなふうに戦ったのか。聞きたいことは山ほどあった。僕の記憶の中の父さんはいつもおぼろげで、詳しいことは何も覚えていない。顔も、声も、記憶の渦に巻き込まれてコナゴナになって、もう思い出すことができない。唯一ひとつだけ覚えている光景は、父さんが旅立つ瞬間の、あの大きな背中。

「立派だった」

 そうだ。立派だった。僕はきっとあの背中を追っている。立派だった父さんからこんな僕が生まれてきてしまったのは何かの冗談みたいだが、生まれてきてしまったものは仕方ない。父さんに罪はない。きっと僕が今こんな性格で、人と話すことにすらひどい苦しみを感じているのは、僕に原因があるのだ。責任の所在は、僕にあるのだ。全部が全部僕のせいなのかと言われればそれはわからないが、原因の一端を担っているのは間違いないのだ。

「あなたが今、自分のことをどう思っているかわからないけど」

 ドレアさんが僕の目をまっすぐ見据えて、言葉を紡ぐ。

「あなたにならできるわ。だってあなたは、あの人の血を引く、勇者だもの」

 ずしん、と重たいもので胸を殴られたような。そんな気分だった。

「その剣にはみんなの思いがこもっているわ。あたしや、あたしと一緒に戦った仲間や、行く先々で会った人々や……あなたのお父さんの気持ちも」

 それを聞いた瞬間、手に持っていたヒロイックブレイドがずしりと重たくなったような気がした。当たり前だがいきなり重さが変わるわけがない。剣に込められた様々な思いを想像したら、そんな気持ちになったのだ。重い。そうだ。重いのだ。

 期待というのは厄介だ。されてもされなくても困る。さっきまでの僕はまるで期待なんかされちゃいなかった。期待される要素もどこにもないと思っていた。でも違う。本当は、僕が気づいてないだけで。知らなかっただけで。期待はされているものなんだ。まだ見ぬ人が助けを求めているかもしれない。僕が気づいていないだけで、心配してくれている人がいるかもしれない。それが誰なのかわからないけど、そんな人たちの期待を一身に受けて戦うのだ。それが勇者の役割なのだ。この剣の重さがそれを証明している。本当はドレアさんだって魔王を倒しに行きたいのかもしれない。仲間や大事なものをいくつも失ったのかもしれない。魔王のことは憎いはずだ。どんな気持ちでいるんだろう。本当は行きたいのに行けないのだとしたら。それは一体、どんな気持ちだろう?

 そんな気持ちが、いろんな人のいろんな形の気持ちが、期待が、この剣にすべて乗っている気がした。ヒロイックブレイドこそ勇者の証。ニセモノには絶対に手に入れることができない、正統な勇者の証だ。父さんのようにできるかわからないけど、見ていてください、父さん。

 僕は眉にぐっと力を入れ、自分なりの凛々しい顔をして、再び階段を登っていった。ただドレアさんの話を聞いている間も感極まってずっと泣いており、完全に両目が腫れていたため、すれ違いざまにポマードから「なんだお前、フランケンシュタインみたいな顔だな!」と言われた。フランケンシュタインといえば優れた体力と知力、そして人間の心を持ち合わせていたが、容姿があまりにも醜かったために迫害されたと言われる怪物だ。凛々しい顔まで作ったのに怪物の域を出ないのは自分でもどうかと思ったが、腐った死体から考えればかなりの格上げではないですか。この際、怪物であることには目をつむろう。

 ほんのわずかの自信と誇りを胸に抱いて、僕は勧誘を再開した。


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