翌朝、起床した俺をまず戸惑わせたのは、見慣れない周囲の風景であった。まぁ、新居に引っ越してきて初めての朝なんだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
しかし、俺は戸惑いと同時に、何故か軽い興奮めいた感情も覚えていた。その正体が、新生活、もとい新婚生活に対する高揚感だと確信できたのは、瞼を擦りながら寝室を出てすぐに、もっと見慣れない光景、すなわち、リビングのソファで佇む新妻の姿を目にした瞬間だった。
「……おはようございます」
俺の姿を確認するなり、深々と頭を下げてくる麻淋さん。ぎこちなくも愛らしい彼女のエプロン姿を眺めていると、自然に顔が緩んでくるのが自分でもはっきりとわかったさ。
「ああ、おはようございます」
「あの、朝御飯がテーブルの上にありますので……」
なるほど、朝食を作る為に夫より早起きしたって訳か。なかなか良い心掛けじゃないか……なんて能天気に感心していた俺は、大理石テーブルの上に置かれてある朝食を見てすぐに愕然としてしまった。
「近くのコンビニで買ってきました」
まったく悪びれる様子もなく彼女が指差したのは、袋に入ったままのアンパンと牛乳パックであった。
ええっと、僕は今から張り込みでもすればいいんですかね?
「あれ……麻淋さんの分の朝食は?」
しばらく言葉を失っていた俺が、なんとか気力を振り絞って訊いてみると、
「ああ、私は先に食べておきましたので、大丈夫ですよ」
なんとも泣かせるような返答が返ってきやがった。
なるほど、朝食を購入する為に夫より早起きして、なおかつ自分はとっとと先に朝食を済ませておいたって訳か。なかなかユニークな心掛けじゃないか。
でもさ。じゃあ、あなたは何の為にエプロンを羽織ってるのですか?
半ばやけっぱちになった俺が、無言でアンパンを頬張っていると、唐突に麻淋さんが尋ねてきた。
「天野さんは、いつもだいたい何時くらいまで仕事をなさっているのでしょうか?」
「……あのさ」
牛乳でパンを流し込んだ後、俺が応じる。「その “天野さん”ってのはやめようよ」
「え? どうしてですか?」
キョトンとした表情を浮かべる彼女。
「ほら、俺達はもう夫婦な訳だよね。だったら、やっぱり下の名前で呼び合った方が自然じゃない?」
自分でもこっ恥ずかしくなるような提案だったけど、これは至極当然の要望でもあった。いつまでも他人行儀でいる訳にはいくまい。
少しの間考え込むように顔を俯けていた麻淋さんだったが、やがて
「そうですね」
と、納得したように大きく頷いた。「……では、太郎さん」
「優介です」
「優介さん」
夫の名前を間違うといった致命的ミスを犯した直後とは思えないほど爽やかな笑顔で、彼女はこう続けた。「優介さんは、いつもだいたい何時くらいまで仕事をなさっているのでしょうか?」
あくまでも、その質問が優先なんだな。
「民芸館は五時閉館だから、家に帰ってくるのはだいたい六時くらいかな」
「それは、確実ですか?」
「まぁ、よほどのことがない限り確実だろうね」
「マジ、ですか?」
「いや、マジだって!」
えらくしつこいな、おい。
「……了解致しました」
何故か安堵するように大きく息を吐いてから、麻淋さんは再びにっこりと微笑んだ。「では、お仕事に行ってらっしゃいませ」
えらくあっさりだな、おい。
なんだか、俺の思い描いていた新婚二日目の朝とは少々異なる展開だな。こんなことを言うと笑われるかもしれないけどさ。普通こういうのって、もっと甘酸っぱくて、初々しくて、ほんわかしたもんじゃねぇのか?
……それでも、この時の俺には好意的に解釈する余裕が残っていた。素っ気ない態度を取ってしまうのは、彼女だって新婚生活にまだ実感が沸いていないからだろう。素っ気ない朝食が出てきたのは、キッチンの使い勝手がまだちゃんと理解できていないからだろう。うん、なかなか整合性の取れている仮説じゃないか?
鞄を持ちながら玄関まで俺を見送ってくれる麻淋さんの甲斐甲斐しい姿は、そんな推測を充分裏付けるものであったし、にこやかに小さく手を振ってくれる彼女の姿は、俺の心を充分晴れやかにしてくれたさ。おかげでこの日の俺は、職場で人生トップクラスのからかいや冷やかしを受けたにも関わらず、人生トップクラスの上機嫌な時間を過ごせたのである。
……仕事が終わって帰宅するまではな。
意気揚々と自宅玄関のドアを開けた俺を待ち構えていたのは、『おかえりなさい、あなた!』という甘ったるい台詞なんかではなく、もうもうと上がる煙と凄まじい悪臭だった。
「何だこりゃ!?」
慌ててリビングに飛び入ると、エプロン姿の麻淋さんが、蒼ざめた表情を浮かべながら立っていた。いや、立ち尽くしていたという方がより正確な表現だろうな。
「あ、あの、おかえりなさい……」
「どうしたんだ!? 火事でも起きたのか!?」
「え? ……ああ、確かに家事をしてましたけど……」
「字が違うだろ!」
くだらない漫才みたいなやり取りのおかげで少し冷静さを取り戻せたのか、俺はすぐに煙と悪臭の原因を発見することができた。
……それは、ぐつぐつと音を立てながら揺れている、ステンレス製の大きな鍋であった。
恐る恐る中を覗いて見ると、真っ黒なマグマ状の物体が不気味に蠢いている。
「これは、一体何ですか?」
顔をひきつらせながら俺が尋ねてみると、
「ええっと、カレーです」
びっくりするような答えが返ってきた。
「……あのさ、カレーってこんなにドロドロしたもんだったっけ?」
「水って、無味無臭ですよね」
「え?」
「じゃあ、味付けにほとんど影響しないってことでもありますよね」
やけに早口で説明する彼女。「……そう考えた私は、水をほとんど入れないでカレーを作ったんです」
「はぁ……」
「ところがその結果、こんなことになってしまいました……」
まるで悲劇のヒロインのように悲壮感溢れる声で麻淋さんが呟いた。でも、どう考えたってこの場合、腹を空かせて帰宅したら新妻が水分っ気まったくなしの悪魔じみたカレーしか用意していなかったという境遇の俺の方が、よっぽど悲劇的だと思う。
とはいえ、塞ぎこむように顔を俯けてしまった彼女を前にすると、とても怒る気にはなれなかったさ。
……結局その後、我が家の食卓に並んだのは、『芸亭』のラーメンとチャーハンであった。
しかしまぁ、別に焦る必要はないのかもしれない。いくら洗練された美貌を誇っている麻淋さんでも、まだまだ妻としてはレベル1の状態なのだ。レベル1の勇者がいきなり次の城に行けないのと同じで、新婚二日目の女性にいきなりハイスペックな主婦業を期待するのは、ちょっとムシが良すぎるってもんだろうよ。違うかい、世の男性諸君よ?
ついでに言えば、この日も俺は普通に一人で寝てしまった。心労のせいか、あるいはあんなドタバタ劇の後だからそういう気分にはなれなかったのか。とにかく、前日と同じように、麻淋さんが部屋に入って来た途端、俺の意識はまどろみに溶けていってしまった。
もっとも、こちらに関しても別に焦る必要はないんだろうね。俺だって、夫としてはレベル1なんだ。そしてレベル1の勇者は、最初の洞窟だって攻略できないもんさ。
……できれば一刻も早く攻略したいってのが、偽らざる本音だったとしてもな。
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