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非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説②『ピース』第4話
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非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説②『ピース』第4話

2018-06-30 20:27

     今から十年ほど前――すなわち、俺が小学五年生の頃。

     詳しい日付まではちょっと忘れてしまったけど、気の早いセミが鳴いており、制服が汗でべとついていたのを覚えているから、たぶん七月中旬くらいだったと思う。

     ……その日は、俺の人生における初体験が三つあった。

     第一の初体験――それは『家出』だった。

     もちろん、小学五年生の家出に高尚な理由があるはずもない。控えめすぎる数字が赤く書かれた答案用紙を素直に学校から持ち帰ってしまったせいなのか、もしくは台所で作られていた晩御飯が俺の大嫌いな緑黄色野菜をふんだんに使ったメニューだったせいなのか、あるいはもっと他のくだらない理由があったのか、これも例によって失念してしまったのだけど、とにかく俺はその日の夕方、母親と大喧嘩したあげく、家を飛び出してしまったのである。

     しかしながら、というべきか、当然、というべきか、家を飛び出した俺はすぐに途方に暮れてしまった。なにしろ、財布には百五十円しか入っていなかったのである。電車で一駅移動したところでどうしようもないってことがわかるくらいには、俺だって成長していた。

     かといって、たった百五十円ぽっちで長時間利用できるような施設なんてのも、そうそう存在していない。友達の家に匿ってもらうというアイデアも考えたものの、普段は仲良く遊んでいる連中だって、さすがに厄介事に巻き込まれて自分も怒られるといった馬鹿な判断はしてくれないだろう。

     ……結局、俺の思考が辿り着いたのは『とりあえずどこかで時間を潰そう』といったその場しのぎの結論だった。同時に、俺の体が辿り着いたのは、家から徒歩で二十分くらいの距離にある小さな公園――通称、『埴輪(はにわ)公園』という場所であった。

     この埴輪公園は、昔から人気(ひとけ)がないことで有名だった。だからこそ、俺の足も自然にこの場所へと向かったのだろう。

     もし先客が一人でもいたならば、また他の場所を探すつもりだった。けれど、幸いながらその必要はなかった。とっくに学校が終わっている時刻だというのに、公園内には見事なまでに人影が存在していなかったからである。

     もっとも、この公園に人が集まらないのも当たり前の話だった。俺の家や、俺の通う小学校や、ほとんどの地元民が利用する私鉄の駅や、ほとんどの地元民が活用する商店街のある地域――言い換えるならば、『泉集(せんしゅう)市』という中途半端な田舎町の中心部からこの公園へ来る為には、ひとまず森みたいなエリアを通らなければならない。

     ちなみに、この森みたいなエリアを我々地元民は『古墳(こふん)の森』と呼んでいる。 『埴輪公園』に繋がる道だからという、実に安易かつ幼稚な理由で、だ。

     とりあえず、この『古墳の森』が曲者だった。

     まず、覆い茂る樹木のせいで、太陽光がほとんど内部に差し込まない。おかげで日中でもずいぶん薄暗い。照明や街灯なんて洒落た代物は存在していないから、夜になると完全に周囲は暗闇と化してしまう。

     さらに需要がないせいか、道がまったく舗装されていない。自転車で行くには地面の凹凸が激しすぎるし、自動車に至ってはそのスペースすら用意されていない。なので、枯れ葉が潰れる音を楽しみながらゆっくりと徒歩で進むしか方法がない。

     なおかつ、無駄に広大でもある。足を踏み入れて三分後には、すっかり視界が草木で埋め尽くされてしまう。まぁ、さすがに迷って永遠に外に出られなくなるってことはないだろうけど、それでもハイキング気分で散策すれば、ちょっと痛い目に遭いそうなくらいの面積はあるだろう。

     とまぁ、そんな素敵な場所を十分ばかし歩かないと、『埴輪公園』に辿り着くことはできないのだ。

     そして言うまでもなく、件の『埴輪公園』自体も惨憺たる様相を呈している。

     野球やサッカーがギリギリ可能な広さの敷地では、雑草がいたるところでのびのびと育っているし、地面には何かのトラップのようにたくさんの小石や木の枝が転がっている。周囲を取り囲んでいるのは、たぶん花壇なのだろうけど、残念ながら花を確認することもできない。とっくに枯れてしまったのだろう。

     いずれにしても、ただでさえ泉集市には公園が多いのだから、埋蔵金が眠ってでもしない限り、この立地条件と環境では人が集まる訳もないってもんである。

     話を戻そう。とぼとぼとした足取りで寂れた公園へと入っていった決意なき家出少年の目にまず飛び込んできたのは、一本の大きな木であった。

     テナガザルの腕でも包み込めないほどの太い幹を誇るその木は、公園のちょうど中央辺りに堂々とそびえ立っていた。

     高さはざっと二十メートルくらいだろうか。どう考えたって公園利用者からすれば妨害物でしかないのだけど、それでも存在しているということは、もしかすると人間が抜こうとすれば呪われてしまうような神木なのかもしれない。

     それ以外で目についたのは、ブランコ、ジャングルジム、砂場、滑り台といった、ごく平凡な遊具だった。

     余談になるけど、この滑り台の構造がちょっと変わっていて、左右対称になるような形で両側にスロープが設置されている上に、本体には大きな二つの窓が存在していた。側面から見ると、まるで埴輪の顔みたいな形である。だからこの公園は昔から『埴輪公園』と呼ばれているんだよ――以前、一度だけ俺がここを訪れた際に受けた友人の説明は、少年心に照らし合わせても充分胡散くさいものであった。

     赤みが混じった夕刻の日差しの中、俺はひとまず公園の端に置かれてあるボロベンチに腰掛けた。なおかつ、すぐさま頭を抱えこんでしまった。

     さて、自分はこれからどうするべきなんだろう? 母親に謝るつもりなんてまったくなかったけど、その手段を否定するってことは、家に戻れないってことをも意味する。下手すれば、ここで一泊するくらいの覚悟も必要になるだろう。その場合、食料はどうするんだ? 風呂はどうするんだ? そもそも、クーラーなしで眠れるんだろうか?

     考えれば考えるほど、憂鬱になってしまう。しかし、何も考えない訳にもいかない。

     俺の脳内で無意味な反復運動が繰り返されている、そんな時のことであった。

     ……あの奇妙な音が聞こえてきたのは。

     それは、明らかに何かの衝突音だった。大地に響き渡るとまではいかないものの、俺の腹の底には響き渡るほどの重低音である。

     音の発信源を探るのに、それほど苦労はしなかった。ただ両手で抱えている頭の角度を、少し上げればいいだけのことであった。

     どうやら、いつの間にかこの埴輪公園に俺以外の人間が入ってきていたらしい。それも、俺と同年齢くらいの女の子が。

     肩まではぎりぎり届かないくらいの黒髪をおかっぱみたいに整えているくせして、その少女の横顔はやけに大人びていた。

     それでもまず間違いなく彼女は、俺と同じ小学生のはずだった。なにしろそのおかっぱ娘は、俺と同じ小学校の制服を着ていたのである。

     とはいえ、面識はなかった。たぶん別の学年か、あるいは別のクラスなんだろう。

     一見するとなかなか可愛い容姿をしているものの、その少女の表情は実に険しいものであった。何故ならば、彼女はさっきから一心不乱に、公園の大木を己の拳で殴りつけている様子なのだ。ドスンドスンという、嫌な音をたてながら。

     小学生の女の子が、真剣な眼差しで木の幹を殴りつけている――その異様な光景を目の当たりにした俺は、言い知れぬ恐怖を覚えるのと同時に、ちょっとだけ興味も沸いてしまった。どうして可愛らしい少女が、怒りをぶつけるように木を痛めつけているのか。その原因が知りたくなってしまったのだ。

     意を決してベンチから立ち上がった俺が、ゆっくりと公園の中央に向かって歩いていく。

     そして俺は、あいかわらず木を殴り続けている少女に、声を掛けた。……そう、声を掛けてしまったのである。

     それは俺の人生において、初めて気の迷いが生じた瞬間でもあった。

    「なぁ……さっきから何してるんや?」

     俺が話し掛けるや否や、少女はわかりやすいほど大きく体を震わせた。すぐに振り向いた彼女の顔も、驚愕によってはっきりと歪んでいた。

     もっとも、驚愕したのは俺も同じだった。彼女は木に向けていた拳を、体ごと違う方向に向けたのである。

     言うまでもなく、そこは俺が立っている方向でもあった。

     俺の人生における初体験、その二――それは、突然顔面に見舞われた強烈なパンチによって引き起こされた意識の消失……要するに、『気絶』であった。

     ……そして気がつけば、俺はまたボロベンチにいた。厳密に言えば、そこで寝かされていた。

    「大丈夫?」

     隣に座っていた少女が、目を覚ました俺にすかさず尋ねてくる。凛としていて、張りのある声であった。「ていうか……生きてる?」

    「……生きてるけど、大丈夫とちゃうわ」

     体を起こしながら返答する俺。両目の間がやたらとズキズキする。ここを殴られて、俺は失神してしまったらしい。

    「やろうなぁ!」

     いきなりケラケラと笑い始めたその少女は、紛れもなく俺をこんな状況に追い込んだ暴行犯だった。至近距離で観察してみると、大人っぽい顔立ちに似合わない、年相応の無垢な瞳が印象的な女の子でもあった。

     それにしても、反省しているそぶりが一切見受けられないってのはどういうことなんだ? 一歩間違えれば大事故に繋がっていたかもしれないのに、一言も謝らないどころか、痛がる被害者を前に大笑いするだなんて、まったくふてぶてしい、腹の立つ女である。

     なおかつ、もっと腹が立つ点もあった。

     妙に楽しそうな彼女の笑顔が、その背後に透けて見える夕方の太陽よりも遥かに輝かしく感じられたのである。

     ……だから、俺は黙り込んでしまった。怒りの発露や、謝罪の要求といった、当然この場で発するべきだったであろう言葉を、完全に忘却して。

    「じゃあ、行くわ」

     ひとしきり笑ってから、彼女は勢い良く立ち上がった。制服のスカートが、ふんわりとめくり上がる。「……バイバイ!」

     ひょいっとあげた右手で額の汗を拭った後、彼女は早足でその場から去っていってしまった。俺はその華奢な後姿を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

     ところが、である。公園の出口付近で、彼女は急に踵を返した。そして、再び早足で俺の近くまで戻ってきたと思えば、

    「喉が渇いたわ!」

     怒ったような口ぶりでそう述べるのであった。「あんたをベンチまで運ぶのに、えらい体力を使ってもうたからな」

    「やったら、ジュースでも買ったらええやん」

    「落とてもうたねん、財布」

     言い放つと同時に、彼女の手のひらが俺に向けて突き出されていた。よく見れば、うっすらと血が滲んでいる。素手で自然界と戦った代償ってやつか。「なぁ、お金貸してや!」

     やむを得ず、俺は持っていた百五十円を彼女に手渡してやる。全財産だ。

    「自動販売機は、どこにあるん?」

    「確か、公園の外にあったはずやで」

     どこまでもお人好しな俺が、この辺りで唯一確認できた人工物を指差してやると、今度こそ彼女は本当に公園を出て行ってしまった。つまり話をまとめると、俺は殴られた女に金まで請求されたって訳である。完全にカツアゲやんけ。

     ……予想外の現象が起こったのは、それから三分くらい経った後のことであった。

     てっきりそのまま帰ってしまうのだろうと思っていた彼女が、またもや公園に姿を現したのである。

     さも当たり前といった表情で隣にちょこんと腰掛ける少女を見て、あっけに取られてしまう俺。

     そんな中、彼女はすました顔で買ってきたジュースを飲み始めた。

     それは『ハイパーサイダー』という、大阪府――というより、泉集市周辺でしか販売していないという噂の、サイケデリックなデザインの缶ジュースだった。なんとも趣味の悪いチョイスである。

     喉を潤わす作業に夢中な少女と、そんな少女の横顔をちらちらと窺うだけの少年。当然の帰結として、嫌な沈黙が小学生二人を包み込んだ。

     仕方なく、俺が口を開く。

    「あのさ、おまえは誰なんや?」

     我ながら、直球ストレートな質問だった。

    「誰やと思う?」

     缶に口をつけたまま、もっと言えば、公園の中央に視点を固定したままという、ふざけた態度で応じる彼女。

    「木を殴る女やろ?」

    「そうやけど、そんな名前やないで」

    「じゃあ、なんて名前やねん?」

    「……早苗(さなえ)

     少し間を空けてから、彼女は呟くように答えた。「早い苗と書いて、早苗や」

    「苗字は?」

    「苗字? ……ああ、『木を殴りつける女』や」

    「はぁ?」

    「だから、うちは『木を殴りつける女・早苗』って名前やねん」

    「じゃあ、俺の解答も結構惜しかったんやな」

    「そうやな、びっくりしたわ」

     ニコリともせずに頷く彼女であった。「ちなみに、あんたの名前は?」

    「光樹(みつき)や。樹木の樹が光ると書いて、光樹」

    「漢字までは訊いてへんけど。苗字は?」

    「そうやな……『女に殴りつけられる男』、かな」

    「ひどい苗字やな」

    「お互い様やろ」

    「……で、光樹君」

     飲み終わった缶をベンチに置いた彼女が、ようやく俺の方に顔を向けた。「あんたは、こんな場所で一体何をしてたんや? 友達おれへんのはわかるけど、いや、マジでようわかるけど、痛いほどわかるけど、それでも一人でこんな場所におって、寂しくないんけ?」

     早口でまくしたてるこの早苗という少女、どうやら手だけではなく、口の暴力にも長けているらしい。

    「ええっと……家出してきたねん。親とケンカしてさ」

     両目の間の痛みが悪化するような感覚に陥りながらも、俺が馬鹿正直に返答すると、

    「マジで!? ……実はな、うちも親とケンカして家を飛び出してきたんや!」

     同志と巡り会えてテンションが上がったのか、早苗はうって変わったように明るい口調で語り掛けてきた。「よっしゃ! じゃあさっそく話し合おうか!」

    「話し合うって、何をや?」

    「家族を皆殺しにする方法に、決まってるやん!」

    「嫌やわ!」

    「冗談やんか」

     そう言ってから、もう一度早苗は笑った。

     ……やっぱりそれは、むかつくほど煌いた笑顔だった。

    「そういえば、さ」

     思わずそんな彼女から視線を外しながら、俺は訊いた。「なんでおまえはあの木を殴ってたんや?」

     外した視線が、自然と公園中央の大木を捉える。彼女のパンチを何発も浴びたはずなのに、その佇まいからは何一つ変化を見出せなかった。むしろ、一発だけパンチを浴びた俺の方が、致命的なダメージを食らっている始末である。

    「……あんた、知ってる?」

     ふいに、早苗は俺の腕をつついてきた。

    「何をや?」

    「あの木って、百年以上も生きるらしいで」

    「いやいや……そんな凄い木が、こんなしょぼい公園にある訳ないやろ。絶対にガセ情報やって、それは」

    「ところがほんまやねん、これが」

     彼女の眼差しは、真剣そのものだった。「だから、うちはあの木に戦いを挑んでたんや。ケンカ相手としては、上等ってもんやろ?」

    「はぁ……」

     力説する彼女には申し訳ないけど、俺にはその論法がさっぱり理解できなかった。仮にあれが本当に百年以上生きるような凄い木だったとして、どうして戦いを挑まなければならないのだろう?

    「凄い女になる為に、な」

     早苗はそう付け加えた。まぁ実際のところは、深い意味なんてなかったのかもしれない。とにかく彼女は、何かに怒りをぶつけたかったのだろう。

     好意的に考えれば、その対象が少女の力ではとても揺るぎそうにないほどの大木だっただけ、まだ可愛げがあるってもんだ。これがいたいけな犬や猫だったり、あるいは子供だったりしたならば、俺は彼女に自動販売機ではなく、自首を受け付けている警察署の場所を教えてやる必要があっただろうから。

     ……それからほんの少しだけどうでもいいやり取りを交わしてから、俺と早苗は埴輪公園を後にした。俺は家出に飽きてしまっていたし、早苗だってそんな俺とこの場所で喋ることに飽きてしまったのかもしれない。

     それでもくだらない会話を続けながら二十分ほど歩いて、『泉集駅』近くにまで辿り着いた我々は、そのままそこで解散することにした。

     正直に言えば、手を振りながら早苗が去っていった直後、俺はちょっぴり後悔の念を抱いていた。とうとう最後まで、彼女の本当の苗字を聞けなかったからである。

     結果として、俺が早苗の苗字を知ったのは、初めての家出から十日ほど経った、一学期最後の日――すなわち、何気なく再訪した埴輪公園で、またもや一心不乱に大木と戦っている彼女を見つけた日のことであった。

     本人の説明によると、このバイオレンス少女は、私生活で何か腹が立つような出来事と遭遇するたびに、埴輪公園で木を殴っているとのことだった。なおかつ、かなりの短気者であるらしい彼女は、毎日のように腹が立つような出来事と遭遇するともいう。要するに、早苗は毎日のようにこの公園で木を殴っているって訳である。

     ……そう、俺の予想は完全に当っていたのだ。

     とにかく、その日を境に俺と早苗は仲良くなった。ちゃんと教えてはくれなかったものの、幾つか言葉を交わしているうちに、この見た目は可愛いのに暴力的な少女の苗字が、『月川』だということを知った。ついでに言えば、月川早苗は俺と同い年であり、同じ小学校に通う、別のクラスの女子でもあった。だというのに、今まで校内で見かけたり会話したりした覚えがないのは、きっとお互いが意識していなかっただけであろう。小学校なんて、意識しなければ他人の集まりでしか過ぎないから。勝手に早苗はそう推測した。

     思えば、彼女はこの頃から何でも独断で決める奴だった。

     こうして次の日から、言い換えれば夏休みの間、俺達は毎日のように埴輪公園で集まった。集まる時刻は、決まって夕方五時過ぎであった。その時間までは、お互いの友人と遊んだり、うっとうしい宿題に明け暮れたりする。そして夕刻になれば、埴輪公園に集まって、缶ジュースを飲みながら愚痴を言い合う……というより、早苗の愚痴を俺が一方的に聞かされる。大木に代わって、俺が彼女の怒りを受け止める。……別に話し合ってちゃんと決めた訳ではないけど、おおむね俺達のスタイルはそんな感じだった。

     ちなみに早苗の愚痴のテーマは、ほとんどが自分の家族についてであった。しかも、あいかわらず具体的な情報は提示してくれないまま喋り続ける彼女でもあった。

     つまり俺は、顔も年齢も職業も、そして名前すらも知らない人物の悪口を延々と聞かされていたって訳である。

     もちろん、俺からすればそれはけっして楽しい話題ではなかったけど、矛盾を覚悟の上でいうと、それでも俺は楽しかった。だからこそ、俺は何かに導かれるように連日この公園を訪れたのだろう。

     たまに早苗が姿を現さない日もあり、その時はひどくがっかりした。そういえば、たまに俺達以外の人間が公園に姿を現した時も、ちょっとだけがっかりした。

     ……そこまで交流を深めたはずなのに、である。夏休みが終わり、たまたまお互いの通う小学校で邂逅した際の早苗の態度は、実に冷淡なものであった。

     初めて公園以外の場所で出会ったことに軽く興奮していた俺が、「おはよう」と緊張した声で話し掛けたところ、彼女は一瞥しただけでそのまま去っていってしまったのである。それはまるで、「誰ですか?」とでも言わんばかりの対応だった。当然、激しい衝撃を受ける俺。

     とはいえ、不思議と納得してしまう俺もいた。小学校での月川早苗は、清楚な雰囲気を漂わせている少女であった。違う言い方をすれば、とても人をいきなり殴りつけるような女の子には見えなかった。早い話が、公園で毎日会っていた彼女とは、まったくの別人みたいだったのである。

      果たして、俺の心配は杞憂に終わった。昼間にそんな出来事があったというのに、早苗はいつも通り、そう、夏休みに毎日そうしていたように、夕方になると埴輪公園へやって来たのである。

     けれど、彼女は俺の隣に座るなり、こうも言い放った。

    「……お願いやから、学校では普通の友達面せんといて」

     どうやら、俺達は普通の友達ではなかったらしい。もっとも、それが吹けば飛ぶような関係を意味しているのか、あるいはもっと別の関係を意味しているのか、少なくとも当時の俺には想像すらつかなかった。人間と人間の関係性がいかなるものかだなんて、小学五年生には高尚すぎるテーマってもんである。はっきり言って、今だにまったく理解できていないくらいなのだから。

     だけど、早苗は当時からほんの少しだけ理解していたのかもしれない。

    「人間なんて、空気よりも軽い存在なんや」

     それが、早苗の口癖だった。「そうやなければ、人生が簡単に狂うはずもないやろ?」

     やから、こんなくだらんことで悩んでてもしょうがないよな。――彼女の愚痴は、いつもそう締めくくられた。この言葉が、沈みかける太陽を確認した上での方便だったのか、もしくは早苗の本心だったのかはよくわからない。

     ただ一つ、確実に言えるのは、俺がその意見に一切賛同できなかったということだ。人間が、そして人生が空気よりも軽いだなんて、小学生にしてはあまりにも虚無的な考えに思えたからである。

     しかし、その考えもあながち間違いではなかったらしい。

     ――なにしろ、月川早苗の人生は、それこそ空気よりも軽い存在かのごとく簡単に、吹き飛ばされてしまったのだから。

     早苗が交通事故に遭遇したという知らせを受けたのは、彼女と初めて出会ってから十年くらいの月日が経ったある日――具体的に言えば、今年の七月五日、早朝六時頃のことであった。

     余談になるけど、俺も以前、交通事故に遭遇した経験がある。中学二年生の時、自転車で近所のコンビニに向かっていた最中、猛スピードで交差点に入ってきた原付バイクと正面衝突してしまったのだ。その結果右足を骨折して、そのまましばらく入院する羽目にもなってしまった。

     ちなみに、幼馴染の不幸がよっぽど嬉しかったのだろう。家族よりも誰よりも早く病室を訪れた早苗は、足をギブスで固定されている俺の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねてみせたのであった。

     ああ、自由に歩けるって、ほんまに素晴らしいことやなぁ。恨めしい顔で睨みつける俺に、彼女は満面の笑顔でそう言い放ったものだ。しかも、その嫌がらせは俺が退院する二週間後まで、ほぼ毎日続いたのである。

     いよいよ復讐の時は来た。今度は、俺が動けない幼馴染を笑う番であった。

     でも、結局俺は復讐を遂げることができなかった。何故なら、病室で横たわっていた早苗は、足だけでなく、心臓の動きをも止めてやがったからである。

     俺の復讐を阻止して、なおかつ彼女の動きを完全に奪ったのは、一台の軽自動車だった。大型トラックでも、バスでも、戦車でもない。可愛らしいとしか形容しようのない外観の、小さな車であった。ついでに言えば、たまたま寝不足だった老人の運転する軽自動車が、たまたま注意力が散漫になっていた女の子を飲み込んだ、それだけの話でもあった。

     なんてつまらんオチやねん! 今どき新聞の四コマ漫画かって、もう少し気のきいたオチを用意しそうなもんやわ!

     俺の知り合いである自称クリエイター女にこの話を聞かせたならば、きっとそう怒り出すに違いない。

     ……それでも、月川早苗の人生の脚本がそこであっけなく途切れてしまったのは、紛れもない事実であった。

    「……それでは、さっそく月川先輩の脚本をお渡ししましょう」

     ふいに、前方から声が発せられる。

     舌っ足らずではあるものの、それは有無を言わせないような力強い声でもあった。

     ……どうやら、俺がつまらない回想にふけって我を失っている間に、眼鏡少女の方はすっかり我を取り戻していたらしい。その証拠に、ついさっきまで怯え気味だったのが嘘のように、彼女の視線はまっすぐと俺の瞳を捉えていた。

    「『月川先輩の脚本』ってのは何やねん? ……ていうか、その、何ですか?」

     むしろ、俺の方が怯え気味になってしまう始末だった。

    「月川先輩がこの映画の為に書き下ろした脚本のことですよ」

     なんと、早苗はこのいかにもくだらなさそうな自主映画の監督だけではなく、脚本も担当していたらしい。まぁ、なんでも自分で決めなければ気がすまない、というあいつの性格を知り尽くしている俺からすれば、特に驚く必要もない新事実だったけど。

    「いやいや、ちょっと待ってくれよ。俺はまだ、この映画の代理監督を引き受けるやなんて一言も言ってへんやろ?」

    「杉田さんに残された選択肢は、次の三つだけです」

     全体が紅に染まりつつある視聴覚室内に、再び彼女の冷徹な声が響き渡る。「このラブレターがネットで公開されるのを甘んじて受け入れるか、無理矢理あたしからラブレターを奪い取ってセクハラと暴行容疑で訴えられるか……それとも、素直に代理監督を引き受けるか」

     大きく溜息を吐いた俺は、ゆっくりと椅子から立ち上がって、眼前の脅迫犯に問い掛けた。

    「……目的は何や? 金か?」

    「あのですね、あたしの話をちゃんと聞いてはりましたか!?」

     苛立ったように眉を吊り上げる彼女。自分以外の人間が冗談を言うのはあまり好まない性格のようだ。「……ああ、もういいですいいです! あなたは、黙って監督を引き受ければいいんですよ!」

     吐き捨てるようにそう述べてから、彼女はゆっくりと俺に近づいてきた。なおかつ、スカートのポケットからスマホを取り出して、それを俺の眼前に突きつけてみせた。

    「機種を当てればええんか?」

    「ちゃいます! バーコードリーダーでしょ!」

    「ああ、なるほど……」

     つまり、お互いの連絡先を交換しようってことらしい。こんなエキセントリックな少女との接点を持つことに若干のためらいを覚えつつも、気の弱い俺は促されるまま、自分のスマホを取り出すのであった。

     ……そういえば。連絡先の交換が終了してから、俺は大事なことに気がついた。これから多少なりとも彼女と交流を持つのならば、スマホの番号やLINEのID以前に、もっと知っておかなければいけない個人情報があるではないか。

    「ところでさ」

     なので、俺はおずおずと尋ねてみた。「君の名前は何ていうんや?」

    「…………え?」

     どういう訳だろうか。ついさっき知り合ったばかりの男にためらう様子もなく連絡先を教えてきた彼女が、そんな単純な質問を受けただけで、一気に顔を強張らせたのである。

    「やから、その、なんていうか……君の名前をね、教えてほしいんやけど」

     その様子につられて、俺まで言葉をつまらせてしまう。

    「……田中です」

     何故か恥ずかしがるようにちょっと顔を俯けながら、同時に何故かちょっと頬を紅潮させながら、彼女は答えた。「田中育(たなかいく)()です。……以後、お見知りおきを」

     ……田中育枝、か。外見通り、古めかしい名前だ。

     俺が失礼な感想を抱いている間に、彼女――田中育枝は、自分の鞄から一冊の赤いファイルを取り出していた。

    「今度は何やねん?」

     恐怖の前例があるだけに、警戒心を高める俺に対して、

    「さっきお話しした、月川先輩の脚本です。……大事なものですから、なくさんといてくださいよ」

     とかなんとか言いつつ、殴りつけるようにそのファイルを手渡してくる田中育枝であった。大事なものだったら、もっと丁寧に扱えってもんである。

    「だからさ、俺はまだ一言も、代理監督を引き受けるやなんて……」

    「残念ながら、お別れの時がやってまいりました」

     これ見よがしに腕時計で現在時刻を確認した後、彼女は素早く鞄を持ち上げた。

    「いや、俺の話を聞けや!」

    「本当ならば、また一緒に電車で帰りつつ、もう少し杉田さんと交流を深めたいところなんですが……あいにくあたしには、まだこの後に用事が残っておりまして」

    「どんな用事やねん?」

    「今の段階で詳しくお教えすることはできませんが、とりあえず、『呪いの儀式』でないことだけは確かです」

    「そんなことはわかってる! ていうか、呪いの儀式をとりおこなうような女の子と連絡先を交換なんかしたないわ!」

    「すみません、嘘をついてしまいました」

    「呪いの儀式なんか!? マジで呪いの儀式なんか!?」

    「とにかく!」

     眼鏡の位置を直しながら、田中育枝は言った。「これからのことについては、今夜にでもお知らせします。あたしだって、本気で呪いの儀式をとりおこないたい訳ではないんですから、ちゃんとその電話に応じてくださいね。それも三コール以内に。……それでは、さようなら。アディオス。また逢う日まで。逢える時まで」

     そして彼女は、往年の名曲を口ずさみながら、本当にそのまま視聴覚室から足早に去っていってしまったのだった。

     今日初めて足を踏み入れた場所で呆然と立ち尽くす俺の聴覚が、今日初めて出会った女性のどんどんと遠ざかっていく足音を捉える。もはや、ちょっとした怪談話である。

     やがて、廊下と田中育枝の靴によって引き起こされた衝突音が完全に聞こえなくなった時――俺は、一つの真理を理解した。

     そう、遅ればせながら、やっと理解することができたのだ。

     ……どうやら俺も、空気より軽い存在らしい、ってことを。

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