そのまま眠れぬ夜を過ごした私が、次の朝――つまり、二月二十三日の朝に泉州大学へと出向いてみると、そこにエリの姿はなかった。

 もちろん、いくら私達が幼馴染で、かつ同じ大学に通っているとはいえ、キャンパス内においても四六時中行動を共にしている訳ではない。しかし、少なくとも月曜日の一限に関しては、二人とも同じ授業を同じ講堂で受けなければいけないはずなのだ。

 果たして、私が席に着くなり、彼女からのメールが届いた。

『ごめん、今日は大学休むわ』

 ……別に私に謝る事ではないのだが、エリはそういう文章で自分の欠席を伝えてきたのであった。

 もっとも、それは想定内の出来事だった。なんせ、高校時代に自宅でゴキブリを発見したからという理由で休んだ事のあるヤツである。よそ様の土地とはいえ、人間の遺体を発見して、(しかも、それがごく親しい人間のものだったのだから)彼女が休まない訳がない。

 無論、休みたいのは私も同じだった。こういった状況にさらされて、教授の話などにまるで身が入らない事くらい、大学に行くまでもなく容易に想像ができた。

 だけど、かといって家に一人で篭っていたところで、昨夜の出来事、そしてそれまでの思い出が頭を駆け巡り、もっとへビーな心境になってしまう事は、もっと容易に想像ができた。

 そこで、気分を紛らわす為という、入学当時の理念など完全に吹き飛んでしまったかのような理由で、私は大学へと足を向けたのであった。

 周囲では、他の学生達が昨夜の事件について色々な会話を繰り広げていた。今まで特に大きな話題がなかったこの田舎大学において、昨晩の一件が大学中の関心を集めるのは当然の事と言える。ただ、話の内容を盗み聞きした限りでは、『演劇部の桜井という男が、昨日の夜にプレハブで死体となって発見された』程度の情報しか行き届いていないようだ。なので、私が同じ演劇部員だと知っている人間が何人か感想を求めてきたものの、『死体の第一発見者』として何かを尋ねて来るような人間はいなかった。降矢に対して行った説明を再びせずに済む事は、私にとってささやかな朗報だった。

 ふと、携帯でニュースサイトを開いてみる。言うまでもなく、事件についての報道がなされていないかが気になったからだ。しかし、該当する記事は見当たらなかった。当事者にとってはどれほど心を痛め、どれほど脳裏に刻み込まれるような悲惨な事件でも、悲しい事に日本では多発している殺人事件のうちの一つだという事かもしれない。きっと、こんな辺鄙な土地で起こった事件など、報道する価値もないのだろう。

 ところが、講義が終わり席を立とうとした私に、こんな声が掛けられたのであった。

「昨日は大変だったみたいだね。だいぶ遅くまで大学に残らされたんじゃないの?」

 慌てて声のした方向を振り向いてみると、そこには一人の女性が立っていた。

 ……西垣沙紀だった。

「あ、ああ、そうやねん」

 意外な人物の登場に、戸惑いながらも返答する私。確かに、毎週月曜日の一限に彼女も同じ授業を受けている事は知っていた。でも、これまでこうやって話しかけられた事は一度もなかった。それほど親しい訳でもないし、何よりも私の近くにはいつもエリが存在していたので、接触しづらかったのかもしれない。「けど、なんで沙紀さんがその事を知ってるん?」

「嫌だな、もう忘れたん?」

 苦笑するような表情を浮かべる西垣。「昨日の晩、この大学で濱本さんとエリちゃんに会ったやん。ほら、『今から桜井さんに会いに行く』って言ってたやろ」

「そういえばそうか」

「それなら、桜井さんの遺体を発見したのが二人だって推理しても、そんなに的外れではないでしょ」

 言われて見れば、その通りだった。あの状況からいって、その直後に桜井の死体を発見したのが私達以外とは考えにくい。

「大変やったわ」

 ため息をつきながら私がそう答えると、

「だけどさ、ドアを蹴破るなんて、いかにも濱本さんらしいね」

 茶化すように彼女は言った。「あ、そうそう。島谷さんからの伝言があるんやけど、今日からしばらく演劇部の活動は休止するみたいやで。愛理ちゃんにも伝えといてくれる?」

「そりゃあそうやろうなぁ……」

 それは、予想できた事態であった。もっとも、『島谷』という単語が登場したのは気にくわなかったけど、西垣の前でその感情を表に出す訳にはいかない。「わかった、ありがとう」

「じゃあ、またね!」

 用事は全て終えたとでも言わんばかりに、西垣はその場から素早く去って行ってしまった。

 こんな短い会話でも、昨夜の記憶がはっきりと蘇ってしまい、ますます気分が滅入ってしまう私。

 そして、そのような私の隣に、最大のオモチャであり、最大の宝物でもあるエリが居ない事実は、ひどくこたえるものであった。どういう訳か、彼女は本来最も落ち込むべきはずである私よりも、さらに落ち込んでいる様子だったのだ。

 ……けれど、単位の状況から言って、エリは私よりもさらに授業に出席する必要がある女の子でもあったので、翌日の二月二十四日には、引っ張るようにして(もちろん、電話での話だが)彼女を無理矢理大学に来させたのであった。

 お互いその日の授業を終えた後、まだ蒼ざめた表情のエリを連れて、私はキャンパス内を歩いた。

 いつもならば、演劇部の部室であるプレハブに顔を見せる時間なのだが、活動を休止している以上、そういう訳にはいかない。よって、演劇部による今回の文化祭への参加は、見送られる事となりそうだった……というより、大学内で殺人事件が起きたのだから、文化祭の開催自体も怪しいものであった。

 我々は、この大学のあまりに単純な構造や、おかしな教授の話、そしてちょっとだけ懐かしい昔話などをしながら、ぶらぶらと歩き続けた。そこには、自然となるべく事件について触れないでおこうといった空気が流れていた。理由は簡単である。事件について、桜井について何か会話を始めてしまった場合、そこに愉快な、楽しい結論がけっして待っていない事を、二人とも完全に気づいていたからである。その辺は私達もさすがに、もう子供ではなかったという事だろう。

 その事は、基本的にデフォルトで意味もなく笑顔であるエリが、ここまで沈んでいる様子を見ても明らかだった。こうなってくると、もっと沈んでいるはずの私が、エリを励ます為に無理にはしゃいでしまう。

 ……本当に損な性格である。

 そんな訳で、二人は、事件以外のテーマという、現在では非常に困難な制約のもと、精一杯お喋りを繰り広げたのだった。

 だが、しばらくの間、そんな有益なのか無益なのかよくわからない散歩を楽しんでいるうちに、そうとも言っていられない事態が発生してしまった。

 ――その原因を、最初に発見したのはエリだった。

「……あれぇ!?

 素っ頓狂な、要するにいつも通りの声をあげる彼女。

「ど、どうしたねん?」

 突然通常のテンションに戻った相方の大声に、遅まきながら耳を塞ぐ私。

「あれあれあれぇ!?」 

 彼女は言葉で説明するという行為を放棄したようだった。仕方なく、エリの視線の先を追ってみると……

「あれぇ!?

 私の反応も同じだった。やはり、なんだかんだ言って似たもの同士なのかもしれない。

 私達の目の前に、怪しい男がいたのだ。

 ……いや、そんな一言で括るのもどうかとは思うが、ニット帽を深くかぶって、昔の映画スターのようなサングラスを掛けていて、ピンクのマフラーにオレンジのシャツ、そしてダボダボのズボンといった格好の男性を表すのには、私の貧弱な語彙からして、『怪しい』という単語しか思いつかなかった。

 とはいえ、もちろんただ怪しい男を見つけたからという理由だけで、大声を出したのではなかった。いくらなんでもそこまで度胸のある人間じゃない。

 残念な事に、私はその男と面識があったからである。

「あの~」

 ちょこちょこっとその男に近づいていったエリは、彼の顔を覗き込むように話しかけた。「フレアさんですよね?」

「“降矢”や! 俺は太陽か!」

 簡単に正体を明らかにする刑事だった。「……あ、やっぱりばれる? 怪しまれないように変装したつもりなんやけどなぁ」

「あのねぇ、こんな簡単でありきたりな突っ込みはしたくないんですけど、そんな格好やったらかえって怪しいですよ」

 私がため息交じりに指摘すると、

「そうそう、かえって怪しいから、逆にかえって怪しまれないかなぁなんて考えたんやけど、どうも最近の若い子は意外に素直みたいやな」

 そう呟きながら、降矢はニット帽とサングラスを外した。「どうも、警部補です」

「わかってます」

「でもさ、二十五歳で警部補って、実は凄いんやで。というのも、それはやっぱり俺がキャリアであって……」

「ねぇねぇ、こんな所で何をしてるんですか?」

 瞳を輝かせながら、またもや降矢の自慢の話を折るエリだった。

「え? ……あ、いやいや」

 少し落胆したような表情を浮かべながら、降矢は語った。「別に怪しい目的じゃないで。ただ、可愛い女子大生でもおらんかなぁ、なんて探してたねん」

「それを怪しい目的って言うねん!」

 再び簡単でありきたりな突っ込みを入れる私。

「おお! なんて事だ!」

 突然、大きな身振りで彼は天を仰いだ。「可愛い女子大生なら、ここにいるではないか!」

「……ありがとうございます」

 どう答えればいいのかよくわからなかったので、とりあえず礼を述べると、

「ならば、君達に尋ねよう!」

 オペラ歌手のような声を保ちつつ、降矢がもう一度私達の方を向きなおした。「このキャンパスを、一望できる場所などはないか?」

「一望? それって何の単位ですかぁ?」

 瞳を輝かせながら、新しい単位を創設するエリだった。

「……ええっと、このキャンパスをぐるっと見渡せる場所はないっすかね?」

 低姿勢で尋ねなおす降矢。

「ああ、そういう意味か。でも、なんでそんな事を聞くんですか?」

「そりゃあ、まぁ、一望したいからやん」

「なるほど」

 簡単に納得するエリ。実に汲みやすい女だ。「ええっと、それなら……」

 そこまで言った後、彼女はニタァっとした笑顔になって私を見つめる。 

 はっきりいって、物凄く嫌な予感がした。

「な、なんやねん?」

 こわごわと私が質問すると、

「確か、第三学舎の屋上なんかが、いいんちゃうかな? なぁ、ハマちゃん!」

 ……やっぱりそう来たか。本当に嫌な予感ほどよく当たる。ていうか、私が嫌な予感しか浮かばない、ネガティブな性格だからかもしれないが。

「お、屋上……」

 思わず唾を飲み込む私。

「あ、ええやん。そんな所があるんやったら、ぜひ俺を連れていってや! な! 今すぐ!」

 能天気な顔でせがむ降矢に対し、

「あ、でもハマちゃんはやめといた方がいいかなぁ!」

 エリはたまに見せる魔性の微笑みを浮かべた。「ここで待っとく?」

 完全なる挑発だった。彼女のこれらの言動は、私が極度の高所恐怖症だという事を充分に踏まえた上でのものなのだ。

 そう、私は幼い頃から高い所が苦手だった。今でも、絶叫系の乗り物などは死んでも乗らないという高尚な精神を貫いている。周りの友人からは、そのキャラからよく遊園地等に誘われたりもするのだが、その都度私の親戚に不幸が起こるという不可思議な現象が起きるくらい、この弱点はひどいものであった。

 ところが、エリからしてみれば、いつも自分を怒ったりたしなめたりしている私に対して、ほとんど唯一と言っていいほど優位に立てるチャンスだったりする。だから、こうやって頻繁に私を高い場所へと連れて行きたがるのだ。言うまでもなく、そこで怖がりまくる私を見て、溜飲を下げるのが目的だろう。全く、こしゃくなガキである。

「……別にいいで」

 そして、その幼稚な鬱憤晴らしに付き合ってやるのも、私の役目なのだった。「あたしも、一緒に行くわ」

 ――このような経緯で、我々は大学敷地内のちょうど真ん中に位置する第三学舎の屋上まで足を運ぶ事となった。全く、人生っていつピンチが訪れるのかわかったもんじゃない。

 二月の寒い冬風に身をさらしながら、エリと降矢は意気揚々といった様子で屋上までの階段を駆け上がった。その後に、死刑台への階段を歩くような足取りの私が続く。

 余談になるが、ここの屋上は手すりが驚くほど低い。そこまで長身ではない私の腰よりも低い柵しか設置されていないのだ。もっと言えば、それはこの大学の全ての建物に共通した現象であった。そういった危険すぎる設計も、私が屋上に来る事を忌避する理由の一つである。

「なるほど、確かによく見渡せるなぁ……って、どうしたん、綾香ちゃん?」

 私からすれば靴紐でバンジージャンプをするくらいデンジャラスな手すりに体を寄せながら、降矢は振り向いた。「そんなところに座ってたら、何も見えへんやろ?」

「……何も、見たく、ありません」

 階段の近くでしゃがみ込んでいた私が、たどたどしく答える。寒さとはまた別の要因によって、震えが止まらなかった。

「何も見たくないとは、えらく哲学的やね」

 興味深げにそんな私を見つめる降矢。「それは何故? この大学では、目で見たくないようなものが多いのかな?」

「いや、そんな、深い、理由じゃ、ない、です」

 我ながら情けない体たらくだった。「ただ、その、あたしは、高い所が、あまり好きじゃないので……」

「なんでよ~ハマちゃん! もっと手すりの近くまでおいでや!」

 完全に悪魔に体を乗っ取られたとしか思えないエリの発言。

「ありえへん!」

 私は対峙するエクソシストのような目付きで、彼女を睨みつけた。「もしあたしがそんな手すりを持つ時があるとしたら、それは飛び降り自殺をする時くらいのもんやろうな!」

 悪態だけはスラスラと喋れる自分に、少し感心した。

「飛び降り自殺やなんて、縁起の悪い事を言うなよ」

 苦笑しながら、降矢が私に近づいてきた。「でも、君がそこまで高所恐怖症だとは……人は見かけによらんなぁ」

「高い所が得意そうな見かけって、どんなヤツやねん!」

 もうなんだかやぶれかぶれだったので、完全にタメ口で話す私。

「いや、なんていうか、たくましそうに見えるからさ」

 その迫力に圧倒されたのか、少し後ずさりしながら、今度はエリの方を向く彼。「じゃあさ、愛理ちゃんが説明してよ」

「わかりました。要するにですね、ハマちゃんは高所恐怖症なんですけど、見た目がたくましいから、そうは見えないって事ですよね!」

「……その説明じゃなくってさ」

 困ったような表情になる降矢だった。どうも、私達は二人とも予想外に使えない人間のようだ。「この大学の全体像っていうか、建物の配置を説明してほしいねん」

「あ、そういう事ですか」

 拍子抜けしたような顔になる彼女に、拍子抜けしてしまいながら、腰を抜かしている私だった。

「よろしくね」

 すぐ隣にまで近づいてきたエリに、降矢は恭しく頭を下げた。

「はい、こちらこそ。……ええっと、ここから北の方角に見てですね、あ、北というのはあっちで、そこから見て左手が第四学舎で、その右、右っていうのはですね、北から見て東であり、まぁ五角形でいうと、右の方というか、まぁ右っていっても、後ろから見れば左になる訳で……」

 ――『サザエさん』のストーリーですら、まるで今回はドストエフスキーが脚本を書いたのかと思わせるくらい難解に解説してくれる異才の語り手、溝端愛理に、説明をお願いした降矢が馬鹿だったのだろう。

 私が代わりに説明すると、この『泉州大学』は、敷地が(正門から見れば)横に長い長方形となっている。その中に、五つの大きな建物があって、それはちょうどサイコロの五のような配置だった。実に安易な設計である。

 正門から見て、右下が第一学舎、左下が第二学舎、今私達のいる真ん中が第三学舎、左上が第四学舎、そして右上が第五学舎という風に、それぞれ名前が付けられていた。さらに、それらの建物の右手に大きなグラウンドがあって、一番左下、つまり第二学舎よりもっと左に、演劇部の部室である(そして、今回事件の舞台となった)プレハブがある。

 とまぁ、これが我が『泉州大学』の全体図だ。……スマートな説明とは言い難いが、少なくともエリのそれよりは簡潔にまとまったと自負している。

「……うん、なんとなくわかったわ」

 五分後、ようやく降矢が弱々しく頷いた。

「それでですね、第一学舎には、文学部と、サッカー部の部室と……」

「あ、そこまで詳しい説明はいらんで」

 再び語り始めたエリに対して、降矢は慌てた様子で両手を振った。「とにかく、だいぶ小さな大学なんやなぁ、失礼やけどさ」

「そうですよ! この辺では間違いなく一番小さな大学ですよ!」

 けして自慢するような事ではないのだが、彼女はさも嬉しそうに首を縦に振った。「だから、可愛い子を探すのなら、他の大学に行くべきですよ!」

 どうやら、エリは本気で彼が可愛い子を探す目的で今日この大学を訪れたと思っているらしい。なんて素直で、なんてアホな女の子なんだ。

「ちなみにさ、外部からの入り口は……」

「正門、つまり、第一学舎の正面にある大きな門と、グラウンドの近く、そして第五学舎の裏手にある小さな裏口の三箇所です」

 これ以上エリに説明させてはならぬと思った私が、即座に答える。「……そういう事でしょ?」

「そうそう。ふうん、ありがとう」

 想いにふけるようなポーズを取る降矢。

「でも、そんな事を調べてどうするんですか?」

 不思議そうな顔で、エリが訊いた。「あ、ナンパするのに最適な場所を探してるんですか!?

「違う! ……っていうか、今まで黙ってたんやけど、今日俺がここに来た本当の理由は、可愛い子を探しにじゃなくて、事件の捜査の為やねん」

「知ってますよ」

 驚きの声をあげようとしていたうちの相棒を差し置いて、私がクールに返した。

「そりゃあそうやな」

 降矢は照れくさそうに頭を掻いた。「誰だってそう思うって」

 そう思わない友達を持った私が、重ねて尋ねる。

「で、何か手掛かりは掴めましたか?」

「手掛かりかぁ。まぁ、掴んだような掴んでいないような……」

「犯人はわかりましたかぁ?」

 いつの間にか会話に参加できていたエリの問い掛けに、

「いや、これから推理するところやねん」

「推理! 降矢さんが推理!」

 おどけるように私が肩をすくめた。「これは驚きやな!」

「なんでやねん! 刑事やぞ! だいたい、こう見えても俺は大阪のシャーロック・ホームズって言われてるねん!」

「ははははは!」

 エリも腹を抱えて笑い始めた。「降矢さんとホームズじゃあ、“亀とスッポン”って感じですね!」

「じゃあそんなに変わらんやろ!」

 的確な指摘だった。「ともかく、推理のヒントを探す為に、わざわざこうやって変装までして大学に来た訳なんや」

「すぐに見破られる変装でね」

 やっと高所に少し慣れてきた私が、ゆっくりと立ち上がる。「でも、降矢さんに推理能力があるなんて、とても信じられませんけどねぇ」

「それは間違った認識やな。例えば……俺は、君達の学年を初対面で見抜いたやろ?」

「は? 何の事ですか?」

「ええぇ!? 忘れたん!? 俺の中ではなかなかのジャブやったんやけどなぁ!」

 彼は悲しそうに顔を歪めた。「ほら、初対面の時、二人に対して『君達は一回生かな?』って言い当てたやろ?」

「……そんな事もありましたっけ」

 なんとなくその情景を思い出した私が怪訝な顔で返す。「だけど、それは前もって誰かに聞いてたからじゃないんですか?」

「違う! あれは、綾香ちゃんと愛理ちゃんのバッグに付いていたネズミのストラップを見て、俺が推理したんや」

 そう言って私の鞄を指差す彼。

 ……降矢の言う通り、私とエリのバッグには、お揃いのネズミのストラップが付いている。随分昔、二人で難波へと買い物に行った時に購入した代物だ。

「某有名テーマパークのキャラクターではなくて、本当に普通のネズミやろ。でも、最近ネズミが流行っているなんて話は聞かない。じゃあ、何故二人ともネズミのストラップなんか付けてるんやろう。つまりそれは……」

「ああ、なるほどね」

 彼が何が言いたいのかは簡単にわかった。「つまり、“干支”だからって事ですか」

「そう! ……ていうか、綾香ちゃんは人のおいしい台詞を先に言ってしまうという悪い癖があるな!」

 降矢が悔しそうに舌打ちする。「まぁ、いいわ。もし二人が俺の推理通りネズミ年生まれの人間なら、飛び級でもしていない限りまず一回生って事になるやろ」

「けど、得生まれって可能性もありますよね?」

 私が意地悪な質問を投げかけると、

「……十二分の九なら、なかなか良い賭けやろ?」

 いけしゃあしゃあと述べる降矢であった。

「それを言うなら、だいたい大学の学年自体が四分の一ですからねぇ……」

 解せないといった顔をつくる私。「じゃあ、他には何かないんですか?」

「他って?」

「だから、他に降矢さんの推理能力でわかった事ですよ」

「そうやなぁ……」

 降矢はしばらく考え込むように首を捻った。

 しかし、やがて不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。

「あとは……愛理ちゃんはたぶん暑がり屋さんやな」

「え、うちが暑がり?」

 ポカンと口を開けて降矢を見るエリ。「それはなんで?」

「だって、事件直後、要するに俺達が始めて会った時に、愛理ちゃんは手袋をしてなかったやん。あんなに寒い夜やったのに、手袋もしないなんて、暑がりとしか考えられへん。……この推理はどうや?」

「ぶっぶ~!」

 してやったりといった表情でエリが叫んだ。「あれはね、ただ単にうちが手袋をなくしただけやもん!」

「手袋をなくした?」

 あっけにとられたように、気の抜けた声を出す彼。

「うん、片方だけ。だから、大学に来る前にもう片方も難波で捨てちゃったねん!」

「……そんな事までわかるかいな!」

 降矢が悔しそうに唇を噛む。

「じゃあねじゃあね」

 追い討ちをかけるように私が降矢に声を掛けた。「あたしについても何か推理できますか?」

「綾香ちゃんねぇ……」

 彼はやや疲れ気味に私を凝視した。「……あ、綾香ちゃんは豊満なボディをしているけど、胸は意外に小ぶりっぽいかな」

「ぜ、絶対に訴えてやる!」

 あまりの暴言に、私は激昂した。「変装した警察官が、大学に可愛い女の子を物色する目的で侵入したあげく、女子大生に対してセクハラ発言やなんて! これは、今から明日の新聞が楽しみやわ!」

「ちょ、ちょっと勘弁してや!」

 情けない表情で頼み込んでくる降矢。「今クビになったら困るねん!」

「なんでですか!? 愛する家族が嘆くんですか!?

「いや、俺は独身やけど……車のローンが残ってるねん、まだ」

「呆れたわ! そんな理由やなんて!」

 ますます気分を害された私は、エリに大声でけしかけた。「あんた! 今から新聞社に行こう!」

「え? あ、ああ、そうしようか」

 本気で応じる彼女を見て、さらに慌てた様子の彼は、

「そんなぁ! 何でもするから許してや!」

 と、悲痛な声をあげた。

「……何でもする、か」

 その言葉に、私が微笑む。「よし、何をしてもらおうかなぁ」

「一億円もらおうよ、一億円!」

 やっぱりエリは悪魔に体を乗っ取られたらしい。無邪気な笑みで『一億円! 一億円!』とわめく彼女を前に、『金銭的な理由からクビを避けたい人間に対して、その要求は意味がないやろ!』なんて合理的な突っ込みすら忘れて、少し身震いする私でもあった。

「鬼や……天使の顔をした悪魔や……」

 彼も、慄然とした顔で呟いた。

「では、こうしましょう」

 そんな中で、私は適当かつ、もっとも自分にとって望ましい落としどころを見つけた。「今回の事件に関する捜査の進展状況を、私達にできるだけ詳しく教えてもらえますか?」

「はぁ?」

 それは予想外の要求だったらしく、少しの間降矢は言葉を失ってしまった。「……そんな事を知ってどうするねん? だいたい、それはさすがにまずいっていうか……」

「最初は『事件についての話をしよう』って言われたんです!」

 精一杯乙女な声で、私が語り始めた。「だけど、屋上に着いた途端、『おまえの胸は小さいんじゃ、もっと他の女を紹介しろ!』って刑事さんに言われて……」

 涙ながらに語る私の演技が功を奏したのか、

「ごめん! 俺が悪かった!」

 平身低頭とはこの事だろう。「そんな事を言わんといてや! バイクのローンがまだ残ってるねん!」

「……なら、早く教えてくださいよ!」

 一転して、強く迫る私。「それが条件です!」

「いや、だからさ、俺達警察官には、守秘義務ってのがあってやね……」

「しかも、『俺が揉んで大きくしてやる!』って言われて、突然襲われたんです! ええ、エリも見てました」

「見てました!」

 エリが口を膨らませながら降矢を睨みつけた。化粧をバッチシしているだけあって、眉をつりあげるとなかなかの迫力だ。「ひどい! ハマちゃんにそんな事をするなんて!」

 感情移入が激しすぎて、半ば私の虚言を信じて始めたかのような危ない彼女だったが、なんにしても今は心強い援軍だった。

「ごめんなさいごめんなさい! 僕にはパソコンのローンが残ってるんです!」

「どれだけローンで買い物してるんですか!?

 呆れかえりながら、私はため息をついた。「とにかく、捜査について教えてくれないのなら、ネットでもこの一件を告発しますよ!」

 トドメの一言だった。少なくとも、論争は終了した。

 私の真剣な表情を見て、この要求が冗談でない事を悟ったのか、降矢は一転して黙りこんだ。そして、腕を組んで悩みこんでしまった。

 けれど、小さく頷いた後、

「ま、いっか」

 いつもの軽い調子で彼はそう言ったのであった。「君達からはどうせもっと話を聞きたかったし、その為にはある程度の情報提供もやむなしってヤツでしょうな」

「でしょう、でしょう」

 満面の笑みで私が同意した。

「それでは、事件について話そうか。まず……」

「ちょっと待ってください!」

 そのままの流れで語り始めようとした彼を、私が大声で止める。「なんだかお腹が空きましたねぇ」

「そう? 俺は別に空いてないけど」

「ここの学食って、なかなか美味しいんですよ!」

 私が再びニッコリと笑う。この台詞の真意を探る為には、たいして推理能力を必要としなかったらしく、

「それは……俺に学食を奢れって事?」

 すぐさま降矢が聞き返してきた。

「そういう事です!」

 元気良く応じる私。

「ちょっと待ってや。新たに条件増えてるやん!」

 必死に抗議する彼に対して、最後に私はこう言い放ったのだった。

「あ、うちの学食は、ローンが効かないのであしからず!」