俺の心は踏みにじっても、約束を踏みにじったりはしない女性らしい。
「……どうも、夜分遅く申し訳ございません。ちょっと用事が予想以上に長引きまして」
 その日の夜十一時頃、俺のスマホの受話口から聞こえてきたのは、紛れもなく夕方に相対した脅迫眼鏡娘の声であった。
「いや、気にせんでええよ。俺かって、三コール以内には出られんかったし……」
「まったく、万死に値しますね」
 さらっとひどいことを言ってのけた後、「杉田さんは、明日お暇ですよね? たとえ予定が入っていたとしても、それを延期したところで一向に差し支えありませんよね?」
 今度は決め付けるような質問を投げかけてくる彼女だった。
「まぁ、暇っちゃあ暇やけどさ」
 そう答えざるを得ない自分が情けない。
「では、朝の八時半に、『メゾン・ド・マドモアゼル』という喫茶店へ来ていただけますか?」
「どこやねん、それは?」
「奥旅亜大学から歩いてすぐの場所にあります。なかなか良い店ですよ」
「へぇ、そうなんやぁ……」
 わざと興味なさげに応じてやる俺。慇懃無礼な少女に対する、せめてものレジスタンスであった。ますます情けない。「ああ、そうそう。脚本とやらをちょっと読ませてもらったんやけど、あれって……」
「場所がわからなければ、駅前で歩いている誰かに聞いてください。結構有名な店でもありますから。……それでは、また明日。アデュー」
 わかりやすいくらい一方的に、電話は切られてしまった。暇だとは言ったけど、行くだなんて一言も言ってないのに。
 だいたい、早朝八時半集合だなんて、ここのところ極度の睡眠不足である俺からすれば、過酷すぎる集合時間である。その時間帯に起きているかどうかも怪しいってもんだ。
 ……果たして次の日の朝、夏休み初日だというのにラジオ体操が生で聞けるくらいの時刻に起床した俺は、二日酔いの脳を揺さぶり、重い瞼をこすりながら、奥旅亜大学へと向かうのであった。いよいよもって、情けない限りである。
 やけに空席が目立つ泉集駅発の電車に乗った結果、規定時刻の三十分前には『奥旅亜大学前駅』へと辿り着くことができた。このなんともストレートなネーミングが示す通り、改札を出るとすぐ目の前が、早苗曰く『まるで刑務所みたいに』無機質かつ巨大な奥旅亜大学の正門だった。道路を挟んで、わずか十メートルくらいの距離である。
 そしてその周辺には、学生向けだと思われる大衆食堂や本屋や衣服店が所狭しと並んでいた。きっとこの中に目的の店はあるのだろう。
 とはいえ、そこからはどの方向に向かえばいいのかすら見当がつかない有様だった。入り組んだ道の多い界隈だから、下手すれば迷子になってしまいそうである。だいたい、夏の太陽の下でのんびりと散歩できる体調ではないし、そんな時間的猶予もない。
 という訳で、早々に自力で探索することを諦めた俺は、田中育枝の言葉を信じて、近くを歩いていた人間達に突撃インタビューを敢行しまくった。情けなさここに極まり、である。
 やがて十分後、なんとか『メゾン・ド・マドモアゼル』とやらを見つけ出すことに成功した。しかしその結果、今度は瞼だけではなく気分まで重くなってしまう俺でもあった。何故ならば、件の喫茶店がひどく悪趣味なデザインの建物だったからである。
 蔦が絡まりついている古びれた廃洋館といった趣きの店に、どうして早朝から集まらないといけないんだろうか? そもそも、どうしてこの店はそんな早朝から営業しているんだろうか? まさか、本当に呪いの儀式でもとりおこなってるのだろうか?
 だけど、ここまで来た以上は、中に足を踏み入れない訳にもいくまい。意を決した俺が、勢い良く、おぞましい魔女がペイントされた『メゾン・ド・マドモアゼル』のドアを開ける。
 紫色の壁に囲まれた店内には、五人掛けのカウンター席と、大きめの木製テーブルが三脚あった。なおかつ、その内の二脚は、早朝だというのに、すでにスーツ姿の男性二人組と若い男女五人組によって占領されていた。
 妙に薄暗い照明やグロテスクな動物のオブジェが異様な雰囲気を醸し出してはいるものの、ちゃんと丁寧なメニュー表が存在しているし、上品なチョッキ姿に身を包んだマスターらしき初老の男性も、穏やかな笑みで一見客である俺を出迎えてくれている。少なくとも、事前に思っていたよりは変な店ではなさそうだ。
 それでも俺は、困惑したまま入り口付近で立ち尽くしてしまった。狭い店内をいくら見渡しても、茶色いお下げ髪の眼鏡娘を確認することができなかったからだ。おいおい、人に早起きさせといて、自分は遅刻なんかよ? 
「……杉田さん、こちらです」
 ところが、田中育枝はいた。平然とした顔で、木製テーブルの前に座っていた。「午前八時二十分。……理想を言えば、十五分前には到着してもらいたかったところですが、まぁ一応合格としておきましょう。今回は罰ゲーム免除です。残念ですね、ぜひ杉田さんのメイド服姿を見てみたかったのですが」
 背筋が凍るようなことを口にする彼女は、若い男女五人組のうちの一人であった。ちなみに、入り口から見て、一番奥の席に座っている。ちゃっかり自分で上座を確保したのか、それとも自然に上座をすすめられるほどの力を持っているのか。いずれにしても、その舌っ足らずな声といい、眼鏡の奥から放たれている冷たい視線といい、彼女は間違いなく、昨日俺を強制連行してくれた、あの女性だった。……いや、あるはずだった。
 というのも、である。その二点を除けば、彼女は昨日の脅迫犯とほぼ別人のようでもあったのだ。
「どうしたんですか、杉田さん。鳩が核兵器を食らったような顔して」
 それって一体どんな顔なんだろう? ていうか、そもそもそのシチュエーションで鳩の顔が残っていたりするのだろうか?
 なんてくだらないことを考えつつ、俺は改めて眼前の女性を観察してみた。
 肩までしかない黒髪に控えめのシャギーを入れて、青いTシャツにシックなパンツルックで決め込んでいる、いかにも現代風の彼女を。
 なるほど、昨日こいつが言っていた用事ってのは、美容院に行くことを指していたらしい。あるいは、服屋にも足を運んだ可能性がある。
 なんにしても、田中育枝が一晩で恐るべき変貌を遂げていたのは確かだった。道理で、すぐに彼女を見つけ出せなかった訳である。
「……いや、君の印象がちょっと変わってたから、驚いてたんや」
 俺がようやく言葉を紡ぎだすと、
「そうですか」
 特に興味なさげな顔で呟いてから、彼女は語気を強めた。「では、メンバーも全員集まったことですし、さっそくミーティングを始めましょうか」
「その前に俺も座らせてくれ!」
 急いで空いていた椅子に腰掛ける俺。このままだったら、本当に起立させられたまま進行されかねない。
 入り口から見て一番手前の席、言い換えるならば一番下座に座った俺に、田中育枝を除く四人の視線が集中する。
 もちろん、四人ともまったく面識のないメンバーであった。
「さて、まずは杉田監督から冒頭のご挨拶をお願いします。ちなみに杉田さんの、最初は爆笑を巻き起こし、途中はためになって、最後にはほろっと泣かせるといったスピーチには以前から定評がありまして……」
「いやいや、ちょっと待てよ」
 異様にハードルを上げる田中育枝を、俺が慌てて制止する。「ご挨拶も何も、俺はこれが一体どういうミーティングなのかすらよくわかってへんのやけど……」
「決まってるでしょ。月川先輩の自主映画を完成させる為のミーティングですよ」
 残念ながら、見下したような彼女の口調も、台詞の内容も、全てが予想通りだった。
「ってことは、ここにおるみんなは、君のその計画に賛同してくれたメンバーなんか?」
「ええ。……いや、それでは必ずしも表現が正確だとは言えないかもしれませんね。厳密に言えば、あたしも含めてここにいる五人は、『月川先輩の自主映画製作に当初から携わっていた』メンバーなんです」
「なるほど、ねぇ……」
 早口でまくしたてる田中育枝に、早くも圧倒され気味になる俺。「それにしても、監督がおらんようになったってのに、よくもまぁ四人も残ってくれたもんやな」
 まったく、ご苦労なことである。首謀者が欠けてもまだ映画製作を続けようという無謀な挑戦に付き合おうっていうんだから、よっぽど人が好いのか、もしくはよっぽど暇な連中なんだろう。
 ところが、無謀な挑戦の主は、意外な返答を返してきた。
「それも正確な表現とは言えませんね。……ありがたいことに、月川先輩が健在だった頃のメンバーは、全て残ってくれたのですから」
「はぁ? じゃあ早苗は、最初からたった六人で映画を作ろうとしてたんかよ?」
「失礼ながら、杉田さんは自主映画というものをよくご存知ないようですね」
 わざとらしく溜息をついた後、田中育枝は続けた。「商業映画と違って、自主映画――特に学生の自主映画なんて、極めて少人数で製作される例がほとんどなんですよ。失礼ながら、杉田さんはその辺についての認識が甘いと言わざるを得ませんね。なおかつ、失礼ながら、杉田さんはアホですね。失礼ながら、杉田さんは変態ですね。失礼ながら、杉田さんのファッションセンスは、なんていうか、その、厳しいものがありますね」
「 “失礼ながら”、という前置きがあったらなんでも言ってええ訳ちゃうぞ、こら!」
「それでは、杉田さんの疑問も解消されたようなので」
 俺の抗議を聞き入れる精神など、日本人の武士道精神並みに消え去っているのであろう眼鏡少女だった。「さっそくミーティングを開始したいと思います」
「ていうかさ……」
 一刻も早くミーティングとやらを開始したそうな彼女には申し訳ないけど、新参者としてはまだまだ確認しておかなければいけないことがあった。「とりあえず、みんなの紹介をしてほしいんやけど」
 俺はそう言いつつ、さっきから我々のやり取りを無言で見守っている残りの四人に視線を移した。このままだったら彼らのことを、『童顔チビっ娘』『強面メタボ男』『鼻につくイケメン』『場違いな癒し系美人』なんていう失礼な呼称で識別しないといけなくなる。
「おや、これは意外ですね。杉田さんの洞察力なら、みんなの素性くらいとっくにお見通しだと思っていましたが」
「どんな買いかぶりやねん……」
「わかりました。一人ずつ簡単にご紹介しましょう」
 軽く頷いてから、田中育枝は対面に座っている女性を指差した。「……まずは、マイク兼音声を担当している、吉峰(よしみね)実(み)良(ら)」
「おはようございます! はじめまして! グッドなモーニング! ナイスなミーチュー!」
 途端にその女性――すなわち、『童顔チビっ娘』こと吉峰実良が、右手を天に突き上げながら、堰を切ったかのように大声で喋り始める。「奥旅亜大学一回生の、吉峰実良っす! 気軽に『ミラ・シャフチェンコ・ドゴール大佐』って呼んでください! ……って気軽に呼べるかいな! 大佐相手に気軽に話しかけれるかいな! ってそっちかいな!」
 自分で言ったギャグに自分で突っ込んで、なおかつ自分で大笑いしている彼女は、ピンクのシャツにブラウンのダボパンを履いた、背の低い女の子であった。顔立ちも、かなり幼い。おかげで、俺と二つしか年齢が変わらないはずなのに、下手すれば女子中学生でも通用しそうにすら見えた。
「彼女は、奥旅亜大学の放送サークルに所属していましてね。だから、マイクごとあたしが連れ出してきたんですよ」
「ひどいなぁ、育枝は! それじゃあ物扱いやん! マイクがかわいそうやわ! ってそっちかい! タイソン級の勘違いやな、おい!」
「……実良、それくらいで満足?」
「うん、充分出しきった」
 あっさりと吉峰が首肯するのを確認してから、田中育枝は紹介を再開させた。
「続いて、実良の隣に座っているのが、雑用係の西村(にしむら)翔(しょう)さんです」
「……初めまして」
 『強面メタボ男』こと西村翔が、俺と目線を合わせないまま軽く頭を下げる。「奥旅亜大学三回生の、西村です」
 そしてすぐに、ジュースを黙々と飲み始める彼であった。自己紹介は以上って訳らしい。
 夏だというのに、真っ黒のTシャツと生地の厚そうな迷彩ズボンという暑苦しい格好をしている西村は、体型もまた暑苦しそうだった。ダイエットに興味がないのか、あるいは、あっても効果が出ていないのか。さらに身長も大柄で、丸顔なのに目つきだけがやたら鋭角なもんだから、ただならぬ威圧感すら漂っている。『雑用係』だなんて扱いを受けて平然としているのが不思議なくらいだ。
「ちなみに、三回生のくせして今年で二十四歳って点については、あまり触れんといてあげてください」
「……育枝ちゃんが率先して触れてるやんか」
 俺より三つも年上らしい男の呟きを無視して、田中育枝が指先を移動させる。
「で、西村さんの隣に座っているのが、徳(とく)永和(ながかず)哉(や)さん。彼も奥旅亜大学の三回生で、こちらは正真正銘、杉田さんと同い年です」
「ど、ども。徳永です。はじめ、まして……」
 『鼻につくイケメン』こと徳永は、かなりたどたどしい口調で俺に挨拶してきた。その点はなんだか純朴っぽくて、好感がもてる。
 もっとも、それ以外はほとんど好感がもてないような男でもあった。そりゃあ、タイトなデニムジーンズがばっちり似合っているスタイリッシュな美男子に、何を着ても似合わなくてパッとしない俺が、良い印象を抱くはずもないだろう。
「徳永さんには、準主役をやってもらう予定です」
「あの、その、頑張って、やらしてもらうんで、よろしく、たのんます、ね」
 とはいえ、やっぱり悪い奴には思えなかった。
「最後に、あたしの隣に座っているのが、里見華奈子(さとみかなこ)」
「どうも、奥旅亜大学一回生の、里見です」
 『場違いな美人』こと里見華奈子は、俺の方に体を向けてニッコリと微笑んでみせた。背後に向日葵が咲きそうなくらい、魅力的な笑顔である。青いワンピース調の爽やかな服装も、軽やかな声も、優しそうな瞳も、その全てがこの不気味な喫茶店にはおおよそ場違いだといえた。
「彼女にも、徳永さんと同じように、この映画で準主役を担当してもらうことになっています」
「あの、わたし、演技とか凄く苦手なんですけど、それでも精一杯やるつもりなんで、なるべく、その、優しくしてくださいね」
 自分の右腕をぎゅっと掴みながら、いじらしい顔で俺を見つめてくる里見。その完璧すぎる仕草が、かえって俺に『ほんまはこの子、演技がめちゃくちゃ上手いんちゃうか?』という疑念を抱かせる。
「……とまぁ、こんな感じですね。どうですか、杉田さん?」
「どうですかって訊かれても困るけど……まぁ、色々な面子が集まったもんやな」
 肩をすくめながら、率直な感想を述べる俺。「早苗がよっぽど強引に勧誘した結果なんやろうけどさ」
「とんでもない」
 即座に眼鏡少女が首を横にふった。「もし月川先輩が本気でスタッフを集めていたら、とてもこんな規模では済まなかったでしょうね」
「おいおい、そんなにあいつは大学内で恐れられてたんかよ?」
「恐れられていたというより、尊敬されていたんですよ。……この表現が硬すぎるならば、好かれていたと言い換えてもいいでしょう」
 好かれていた、ねぇ……。確かに、昔から早苗の周囲には人が集まりやすいという傾向があったし、他ならぬ俺もその内の一人なんだけどさ。
「でもさ、だったらあいつはなんで本気で人を集めへんかったんや? 人が多い方が、自主映画とやらも製作しやすいってもんやろうに」
「 “今回の映画は、『習作』みたいなもんやから”――月川先輩は、理由をそう語ってました」
 田中育枝はふっと俺から視線を外した。「だいぶ個人的な作品、とも言ってましたね。なので今回は、あえて身内だけで製作するつもりだったようです」
「……身内?」
「ええ。あたしと実良と華奈子は小学校時代からの友人ですし、西村さんと徳永さんは月川先輩と一回生の頃からずっと同じ学部で、しかも仲の良かった人達です。ほとんど身内といっても過言ではないでしょう?」
「なるほど……」
 納得しかけてから、すぐに俺はある疑問にぶちあたった。一見、全員が線で繋がっているようにも思えるけど、よく考えてみればこの説明だけでは……
「あ、そういえば」
 田中育枝は言った。「杉田さんの自己紹介がまだでしたね」
 拍子抜けしてしまった。てっきり、説明の補足があるものだと思ったのに。
「そうやったな」
 それでも、空気の読める俺は素直に応じるのであった。「ええっと、俺の名前は杉田光樹です。南波大学の三回生で、年齢は二十歳。あいつ――月川早苗とは、小学校時代からの友人で、三ヶ月前くらいから、その、なんていうか、一応付き合ってる……いや、付き合ってた、かな」
 現在進行形と過去形――俺と早苗に、この一ヶ月の間で起きた変化である。正確な表現とは、時に冷徹だ。
「では、全員の自己紹介が終わったところで、いよいよミーティングに入りたいと思います」
 そして田中育枝の口ぶりも、あいかわらず冷徹なものであった。「……そうそう。それに先駆けて、皆さんにお知らせしなければいけないことがあるんです」
「何? ……あ、ひょっとして育枝、彼氏でもできたん!?」と、吉峰。
「できてません」
 吐き捨てるような声が狭い店内に響き渡る。「できてません。できてません。できてません。できてません。できてません……」
「ごめん、育枝。実良が悪かったわ……」
 深々と頭を下げる古い友人の姿に満足したのか、
「それでは発表します。……あたしこと田中育枝、このたび杉田さんの監督就任に伴って、助監督に昇格することが決定いたしました」
 一転して、晴れがましい表情でそう述べる眼鏡娘だった。そもそも、俺はまだ『監督を引き受ける』だなんて一度も明言していないんだけど。
 とはいえ、彼女が昨日と同じ鞄を持参している以上、なおかつ、そこにまだファンシーな柄の封筒が入っているという可能性を否定できない以上、ここで何か言葉を挟むのはきっと得策じゃないんだろう。
「あの、さ、育枝ちゃん。決定って、その、誰が、決めたんかな?」
 代わりに、徳永が言葉を挟む。
「もちろん、あたしです」
「なるほど、了解、です」
 親指を立てて頷く徳永。なんだか、この場の権力構造が垣間見える光景であった。
「ちなみにさ、早苗が監督をしてた頃は、君は何を担当してたんや?」
 俺が質問すると、当の田中育枝ではなく、里見が口を開いた。
「ああ、なんか変な冒険家みたいな役職やったな、確か」
「ちょっと華奈子。あたしが一生懸命頑張っていた役職に対して、その言い草はないんとちゃうの?」
「なんやねん、わたしは事実を述べたまでやで。ていうか、それくらいで怒んなや、ひゃはははは!」
 高笑いを始める里見を見て、俺は自分の彼女に対する疑念が間違っていなかったことを確信する。やっぱり女って怖い。
「……で、結局のところはどんな役職やったんや?」
 険悪な雰囲気の中、俺が再度尋ねてみると、田中育枝はあっさりとこう答えた。
「『助々(じょじょ)監督』です」
「ほんまに奇妙な冒険を始めそうな役職やな、おい!」
 思わず俺も里見に加勢してしまう。「じゃあ、助監督は誰がやってたねん?」
「月川先輩です。先輩が、監督と助監督を兼任されていたんですよ」
「びっくりするくらい意味のない兼任やな……」
「とりあえず、皆さん脚本を机の上に出してください」
 何事もなかったかのように、淡々と議事を進行する田中育枝であった。恐らく、こんなやり取りは彼らにとってごく日常的なものなんだろう。
 他のメンバーにならって、俺も自分の鞄から赤いファイルを取り出す。
 と、そこでちょうど昨夜訊けなかったことを思い出した。
「この脚本、ちょっと短すぎちゃうか?」
 俺が手渡されたファイルには、三枚しか用紙が入っていなかった。つまり、わずか三ページの脚本だったのである。「いくらなんでも、この短さやったら映画として成立せえへんような気がするけど」
「短くて当然でしょう」
 そういった質問など想定済みだと言わんばかりに、即答してくる助々監督、もとい、助監督であった。「これは、『シーン1』だけの脚本なんですから」
「はぁ? ……それやったら、他のシーンの脚本もくれよ」
「そういう訳にはいきません。『次のシーンの内容を知っていると、それを意識した映画作りをしてしまうので、一シーンずつの脚本しか渡さない』――これが、月川先輩の意向でしたからね」
「いや、そういう映画監督がおるってはなんとなく聞いたことがあるけどさ……それって普通は、役者に限っての話やろ? 製作スタッフが全部の脚本を持ってへんやなんて、不都合なだけやと思うけど」
「いえ、スタッフも同じだというのが、月川先輩の意向だったのです。だから、ここにいる他のメンバーにも、『シーン1』の脚本しか渡していません」
 この田中育枝の台詞には、明らかな嘘と明らかな疑問点が混在していた。「そうですね、仮に月川先輩がこの場にいれば、その方針についての意見交換もできたでしょう。だけど、もうそれが叶わない以上、この方針を変える訳にはいきません。……絶対にね」
 今度は明らかな勘違いも混ざっていた。もし早苗がこの場にいたとしても、あいつは他人の意見に耳を傾けるような奴ではけっしてなかったから、きっとこの方針は堅持されていただろうさ。
「そうかい……」
 いずれにしても、そこに俺が意見する意味も、また必要もないようであった。
「さて、改めて説明するまでもないでしょうが、『シーン1』は大学内のキャンパスで撮影を行うことになります」
 田中育枝の言う通り、『シーン1』の脚本は奥旅亜大学が舞台となっていた。もう少し詳しく言えば、『キャンパスを歩きながら、ヒロインと一組の男女が会話する』といった場面である。
 もっとも、そこには心が突き動かされそうな台詞も、息を呑むような展開も存在していなかった。本気で、若い男女三人がどうでもいいやり取りを交わすだけのシーンなのだ。正直俺からすれば、丸々カットしたってよさげなシーンだったけど、
「具体的な時刻までは明示されていませんが、脚本を見る限り、午後一時くらいの撮影が好ましいとも思われます」
 残念ながら、真剣な表情で語る助監督には、そのつもりがまったくないみたいであった。
「要するに、午後一時くらいに全員が集合できる日を探せばええって訳やな」
「そういうこと」
 里見の言葉に軽く頷いてから、田中育枝は俺の方を向いた。「……ちなみに、杉田さんはいつがよろしいですか?」
「え、俺?」
 いきなり新参者に振られるとは予想していなかった。「いや、俺は別にいつでもかまわへんけど……」
「どこかの洋食レストランでバイトをしていると伺っていますが、そちらの方は大丈夫なんですか?」
 やれやれ、昨日出会ったばかりだというのに、どうしてこの女はそんなことまで知っているんだろう。ひょっとして、諜報部にでも所属しているんだろうか?
 とはいえ、あいにくこの口の悪いジェームス・ボンドでも嗅ぎつけられなかった情報があったようである。なので、ちょっと得意げに俺は教えてやった。
「大丈夫や。だって、そのバイトは先週クビになってもうたからな」
「おやおや、それはまたどうして?」
「店長をどついてもうたからや」
 さすがの田中育枝も、この事実には少々驚いたらしい。軽く目を見開きながら、
「杉田さんが、そんなに暴力的な人間だとは思ってもいませんでした」
 と、小声で呟く彼女であった。「月川先輩には、殴られっぱなしだったと聞いてますが」
「余計なお世話や」
 ていうか、早苗は大学でどんな話をしていたんだろう? なんで見も知らぬ後輩に、俺達の恥ずかしい関係を知られているんだ?
 だいたい、俺は全然暴力的な男じゃない。むしろ、これ以上にないってくらい平和主義者である。その証拠に、今まで一度たりとも他人と殴り合いの喧嘩なんかしたことはなかった。……少なくとも、先週までは。
「じゃあ、杉田さんはいつでもOKということでよろしいですね?」
「よろしいよ」
 悲しいことだが、大学が夏休みに入った以上、今の俺には何もすることがなかった。「たださ、ひょっとして、ほんまに一シーンずつ撮影するつもりなんか?」
「そうですけど、何か?」
「いや、この脚本を見る限り、『シーン1』の撮影にそれほど時間が掛かるとは思われへんのやけど」
「だったら、何シーンかまとめて同じ日に撮影した方が効率的だとおっしゃいたいんでしょうが、そうはいきませんよ。その為には、脚本をまとめてお渡しする必要もありますからね。それでは月川先輩の方針に背くことになってしまいます」
 かなり性格が捻くれているし、自分以外の人間を信用していないようにも見える田中育枝だけど、どういう訳だか、早苗に対してはひどく心酔している様子だった。
 もしかすると、自分よりもっと毒舌家で、もっと暴力的だった先輩に憧れを抱いていたのかもしれない。仮にそうだとすれば、なんとも末恐ろしいことである。
 やがて、俺を除くメンバーでスケジュール調整が行われ始めた。俺と田中育枝以外はバイトをしているみたいなので、調整は難航するかと思われたものの、意外にあっさりと撮影日は決まってしまった。
「という訳で、明後日の午後一時から、奥旅亜大学のキャンパスで『シーン1』の撮影を行うことに決定いたしました」
 田中育枝が、わざわざ持ってきた画用紙に大きく日時を書いて、全員に掲げてみせる。「皆さん、時間厳守でお願いしますね。メイド服は三着しかないので」
 メイド服が罰ゲームってのは鉄板らしい。
「……ところで、育枝ちゃん」
 ドスの利いた声で横槍が入った。「撮影許可みたいなのはいらんのか?」
「撮影許可?」
「ああ。いくら在学生やからって、キャンパス内で無許可で撮影するのは、さすがにまずいんとちゃうか?」
 イカつい風貌に似合わず、常識的な意見を述べる西村。
 それに呼応するかのように徳永も、
「そう、やね。怒られそう、やよね。最悪、停学処分とか、くらう可能性かって、あるかも……」
 こちらは、なよなよとした外見にふさわしい弱気な発言だった。
「その辺につきましては、一応、あたしが大学側にかけあってみるつもりです」
 二人に対して、議長が偉そうに腕を組みながら答える。「しかし、どうしても無理な場合は、西村さんと徳永さんに全裸で土下座してもらわないといけませんね。……それでも無理やったら、あたしのウィンクでなんとかします」
「オレらの全裸土下座は、育枝ちゃんのウィンクよりも価値が低いんかよ……」
 やりきれないように嘆く強面男を黙殺して、田中育枝は高らかにこう宣言した。
「さぁ、話もまとまったところで、朝食といきましょうか!」
 それを合図に、テーブルを囲んでいた面々が次々とマスターに料理を注文し始めた。ついでに俺も、恐る恐る『朝食Aセット』とやらを頼んでおく。
 果たして、数分後に運ばれてきた料理は、少量のナポリタンとトーストとサラダとコーヒーという、いたって普通の代物であった。どうやら、メニューまでもが悪趣味って訳ではないらしい。ほっと胸を撫で下ろす俺。
「いただきます!」
 そんな中、まるで小学生が給食を食べる時みたいに両手を合わせてから、さっさとスパゲティを食べ始める田中育枝であった。「……あれ、どうしたんですか、杉田さん? あたしをじっと見つめたりなんかして」
「……え?」
 気がつけば、俺はそんな彼女の仕草をじっと凝視してしまっていた。なので、慌ててはぐらかす。「……ああ、そうそう! ちょっと田中さんに訊いておきたいことがあるんやけどさ!」
「訊いておきたいこと? ああ、あたしのスリーサイズですか? ええっと、上から80……」
「ちゃうわ! ていうか、男子の前でそんなことをさらっと言うな!」
「え!? あなたは『笑点』の初代司会者だったんですか!?」
「その『談志』やなくて、男の子と書く方の『男子』や!」
「あ、もしかして今日のあたしの下着の色が気になったんですか?」
「それも全然ちゃうから!」
「じゃあ、下着のメーカーですか? いや、その、色だけならまだしも、みんなの前でメーカーを言うのはちょっと……」
 むかつくことに、ほんのり頬を赤らめやがる田中育枝の隣で、
「うわぁ! 下着のメーカーを知りたがるやなんて、これはまた斬新な変態っすねっ!」
 吉峰が、何故か嬉しそうな様子で俺の顔を覗きこんできた。「ちなみに、杉田さんはどこのメーカーやったら興奮するんすか!?」
「どこのメーカーなんかも興味あるか!」
 ついでに言えば、どこのメーカーだろうが興奮するさ。「……そうやなくって、俺が訊きたいのは、ヒロインをどうするんかってことや!」
「ヒロイン?」
 彼女が怪訝そうな表情で訊き返してくる。……いやいや、スリーサイズや下着のメーカーよりは全然まともな質問でしょうが。
「ほんまやったら、早苗がこの映画のヒロインを務める予定やったんやろ?」
 実際、昨日見せてもらった最終シーンとやらでは、早苗がヒロインを演じていた訳だしな。「でも……早苗はもうおれへんのやぞ。だったらどうするんや? ひょっとして、ヒロイン不在のままやっていくつもりなんか?」
「まさか。ちゃんと代役を立てますよ」
「代役? ……誰が代役をするんや?」
「あたしがやります」
 凛とした声を発した刹那、田中育枝は自分の顔から眼鏡を取り外してみせた。「……どうです? 月川先輩とあたしって、雰囲気が似ていると思いませんか?」
 初めて見る彼女の素顔は、なるほど、確かに月川早苗の面影を感じさせるものであった。
 他人の心の深層まで見透かすような瞳。
 猪突猛進な性格を示すかのようにはっきりと通った鼻筋。
 毒舌や皮肉を紡ぐには不釣合いで、それなのに力強さを想起させる口元。
 なおかつ、髪型だって傲慢な幼馴染とそっくりだった。
 ……いや、違う。きっと『そっくりだった』のではなく、『そっくりに仕立て上げた』のだろう。だから昨日の俺は、彼女からの電話を夜十一時頃まで待たなければいけなかったんだろう。
 さらにこのヒロイン候補生は、慎重かつ卑怯な女の子でもあるらしい。何故ならば、明らかに俺の表情、というよりも、そこに映し出されている感情を確認してから、こう言葉を続けたのだから。
「……あたしが月川先輩の代役を務めてもいいでしょうか、杉田さん?」
 挑戦的な眼差しに含まれていたのは、絶大なる自信と、微かな不安と、自分よがりな信頼。……そんなどうでもいい、あるいは最も根源的なところまで、田中育枝は尊敬する先輩と相似していた。
 ふと郷愁に駆られた俺は思わず、つい最近まで毎日のごとく口にしていた台詞を発してしまう。
 ――それはすなわち、月川早苗が常に望んでいた台詞でもあった。
「ああ、俺はそれで全然良いと思うで……」