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  • 第6話:夏の終わり

    2018-09-03 13:0023

    「あ、作りすぎちゃったや…」

     鍋にこんもりと残った夕飯のおかずを見て、私は顔をしかめる。こんな時によみがえるのは、いつも嬉しそうにご飯を掻き込む彼の姿だった。美味い、美味いなんて言いながらいつもクールな彼が無邪気な子供のようになる瞬間だ。

    「なんで、なの…」

     また涙が溢れてくるのを止められなかった。二人分の食事を作って、彼の訪れを待つことがこの夏休みの定番だ。今でも、彼がふと来てくれるんじゃないかという淡い期待が拭い切れなくて、そしてそれに気づいてしまってただただ切ない気持ちになる。

     彼が突然いなくなった。

     だだっ広いリビング。彼がいない夏休みはつまらなかった。メイクをするのも、お気に入りの服に着替えるのも彼に見せたいから。全部全部、私の行動は彼に向いてしまっていた。

     今日も連絡がないことを告げる携帯画面が恨めしい。

    「どこに行っちゃったんだろう…」

     会えないのなら、いっそのこと嫌いになってしまいたい。でも、やっぱりダメだ。嫌いなところをいくら探しても見つからない。考えないようにしよう。それなら、忘れよう。しかし、忘れようと思うたびに彼の存在の大きさに気づいてしまう。

     そろそろ22時。いつも彼とバイバイしていたぐらいの時刻である。私の日常には彼が刻まれすぎているみたいだ。深くため息をついて、ソファに座りこむ。


     と。ふと、リビングの郵便物の中に便箋が紛れていることに気づいた。

    「あれ、何だろうこれ…?」

     なんとなく手にとってみると、体に電撃が走った。彼の字だろうか。不器用で拙い文字が並んでいる。ふふ、と思わず笑みが零れる。

    「わぁ……」

     家の中の彼の痕跡が日々の積み重ねでどんどん失われていく中で、彼の手紙は嬉しかった。久々に笑顔になって、私は手紙を開く。が__


    ”きっと、この手紙を読むころには俺はいなくなってると思う。

    いきなりさびしい思いさせてごめんな。”


    出だしの数行で一気に涙が溢れる。これは、彼からの別れの手紙なのだと。この手紙を読んだら、本当に彼との関係に終止符が打たれてしまう。読みたくない。反射的にそう思った。来ない連絡を待ちながら、まだ終わらない関係に甘えていたい。でも…

    彼がいなくなった理由を知りたい。鼓動が高鳴るのを感じながら、私は手紙を読み進めた。


    ”お前のこと本当に本当に好きだった。あんまり、直接言うことは照れくさくて少なかったかもしれないけど。だから、こんな風にいなくなったりしたくはなかった。でも、事情を話そうと思う。

     きっと信じられないとは思うんだけど、夏の始まりにカブトムシ助けたの覚えてる?

     実は、俺、あのときのカブトムシだったんだ…なんでそれが人間になったんだって? 俺にもわからない。ただ、事実として言えるのはあの時お前に恋をしたことと、何故かそれによって人間になれたってこと。

     信じられないよな? 俺も信じられないよ。人間になったのもそうだけど、一目惚れしたお前とこんな風に幸せな毎日を過ごせるってことも。本当に幸せだった。ありがとう。

     お前は強いようで弱いから、残しておくの心配なんだよな。でも、そろそろ限界みたいだ。何も言わなくてごめんな。お前が悲しむ顔見たくないから、言えなかったんだ。本当にごめん…。愛してるよ”

    「ずるい、ずるいよぉ…」

     私は衝撃と悲しみとで泣きじゃくっていた。居なくなっても大好きだなんて。そんなこと言わないで欲しかった。それはある意味呪文で、私の脳裏に彼の愛してるが刻まれ続ける。

     カブトムシ…。本当なのだろうか。悪い冗談なんじゃないだろうか。俄かに信じがたく、私は子供のとき使っていた百科事典からカブトムシの項を探す。これが夢であってほしいと。

     そのとき。紙がはらはらと落ちてきた。

    「…?」

     相合傘だった。相合傘…。あの夏の海の日がよみがえる。あの日、相合傘を書いたことを思い出した。あの時は冷たかったけど、彼、本当は…。

     ぽたぽた頬を涙が伝う。ありがとう。本当にありがとう。

     カブトムシ。学名はTrypoxylus dichotomus septentrionalis Kono。寿命は、一カ月~二か月。

     秋の風が私の頬の涙を拭う。まるで私を慰めるかのように。その秋の風に微かな夏の残り香と、彼を感じる。

     夏の終わりと恋の終わり。終わってしまう夏を惜しみながら、いつまでもこの恋の余韻に浸っていた。

     
  • 第5話:異変

    2018-08-23 13:0012

    「わりぃ、もうお腹いっぱいかも…」

     箸を置きながら彼が言う。

     仕事の関係で夜に家を空けがちな親に内緒で、私たちはほぼ毎日一緒に夜ご飯を食べていた。毎日私が献立を考えて、スーパーに食材を一緒に買いに行き、彼がゲームをしている間に作ってあげるのが日課だった。ちょっとした新婚生活だ。

    「味、合わなかった? 苦手だった?」

     私が申し訳なさそうに聞くと、彼は慌てて首を振る。

    「すげー美味いよ。本当、料理上手だよな。でも最近、夏バテのせいか全然食欲がなくて…わりぃ…」

    「そっか、じゃあ明日はしっかりスタミナがつきそうなご飯にするねっ」

     私が言ったのを聞いたのか聞いていないのか、彼はどこか心ここにあらずといった表情のままテレビの前に寝転んでしまった。

     最近、そんなことが増えた。毎日毎日一緒にいるから、マンネリなのかと不安にもなったが、それとはどうも違うのだ。明らかに彼の元気がない。

    「ねぇ…」

    「…どした?」

     ワンテンポ遅れた返事と共に彼が振り返る。私の不安は頂点に達した。

    「最近おかしいよ。何かあったの?」

     はっとしたような表情をする彼。だが、それも一瞬のこと。いつもの柔らかい表情に戻って言う。

    「なんでもないよ。ごめんな」

    「なんでもなくないよ」

     言い終わるか言い終わらないかのタイミングで彼の言葉を遮る。口を噤んでいる彼に対して、ついつい感傷的になってしまったのだ。かつて感じたことのないぐらい、距離を感じる。

    「思ってることがあったら言ってよ! 絶対おかしいじゃん、出会ったころと違うじゃん」

    「ごめん…」

     一旦火がついた不満は止まらなかった。次から次へと、彼を責める言葉が出てきてしまう。

     彼を失いたくない。変わらずずっと大好きだ。この幸せが続いてほしい。

     その気持ちが、逆に私を焦らせる。感情的になるなんて嫌われるとわかっているはずなのに、なぜか止まらなかった。

    「何も話してくれない。付き合ってるのに、おかしいよこんなの。毎日一緒にいるのに、どうしてこんなに距離を感じるの…」

    「わりぃ、心配かけて。…ちょっと体調悪いかも。今日は帰るわ」

    「えっ…ごめん、ちょっと待ってよ…」

     そそくさと帰り始める彼を追いかけて慌てて私も家を出る。怒らせてしまったのだろうか。彼の寂しげな後姿からは、怒りの感情は感じられなかった。しかし、そんなに私に言えないことがあるのだろうか。

     いつも出かけるときは繋いでくれていた手もポケットの中。街灯も少ない住宅街、生ぬるい夏の夜を二人で無言で歩いていく。お互い思うことはあれど、言葉にするきっかけを失ってしまったような、そんな感覚だ。

    「さっきは、ごめんね…」

    「…いや、いいんだよ。さびしい思いさせてごめん」

     彼も素直に謝ってくれた。それでも、やはり事情を話してはくれない。彼はいったい何を一人で抱え込んでいるのだろうか。

    「信じるって決めたから…だから…あのね、よろしくね」

     足を止めて、私は彼に言った。精一杯の強がりだ。信じることしかできないなら、私は彼を信じよう。

    「ごめん…」

     彼がそう言いながら抱きしめた、瞬間だった。

     チャリン、と鈴の音とタイヤの滑る音。

    「危ない」

     夜道の向こうから自転車が来たのを見て、彼が私を抱き寄せてくれた…筈だった。

     ドサッ。私を守ろうとして、不意に左右のバランスを外した彼が倒れ込む。

    「危ないっ」

     キキーッ。ブレーキを踏んで急停止する音が閑静な住宅街に響くと、自転車が彼を大きく迂回する形で通り過ぎて行った。危ねぇよ、なんて言いながら自転車の主は夜道に吸い込まれていく。

    「どうしたの? 大丈夫?」

    「痛っ…よろけちゃったよ、ごめんな。気にしないで」

     そう軽く言いながら立ち上がろうとしたものの、また足がふらつく。必死で誤魔化していたが、私は気づいてしまった。

     不安は確信に変わった。彼は、私に隠し事をしている…。食欲がなかったり、何もないところで何度も躓いたり。

     彼がいなくなってしまうのではないか。不安で不安で、涙が溢れるのを止められなかった。

    「ねぇ…どうしたの…不安だよ…」

     泣き出した私を見て、いたたまれないような顔をしながら抱きしめる彼。

    「大丈夫、大丈夫だから…」

     まるで自分に言い聞かせるように、彼は何度もうわごとのように繰り返した。何度も何度も、私を強く抱きしめながら。

     脳裏にあの海の日が蘇った。さめざめと泣きだす私と、何も言わず私をただただ抱き寄せる彼を、もうすぐ秋を迎えようとする月夜が照らしていた。

  • 第4話:海デート

    2018-08-13 13:0010

    「おーい」

     彼が部屋の外でドアをノックしているのを見て、私は飛び起きた。

     時刻すでに午前6時。彼との集合時間である。

    「わぁああ、ごめんなさい…!」

    「ほらー、やっぱりお前寝坊するんじゃんかよー」

     今日は二人で海に行く予定だ。少し不貞腐れた彼も可愛いけど、早起きが苦手な彼を無理矢理海に誘ったのは私である。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

     そんな私の脳裏に、昨夜の回想が蘇る。

     午前三時に起きた私は、寝ぼすけな彼のためにサンドイッチを作っていた。慣れないながらもやっとのことで完成させた後、お弁当をしっかり包んで準備を済ませると少しだけベッドに横になった。横になった、筈だった…。

    「ごめん…。でもはい、これ」

     私は出かけるばかりに準備されたランチボックスを取り出す。

    「え、なにこれ! なにこれなにこれ、許す!」

     すごい勢いでランチボックスを開き、サンドイッチにかぶりつく彼。その嬉しそうな様子に私もほっこりする。

    「急いで準備する、ちょっと待ってて!」

     口の中を大きく膨らませながら、彼が頷く。オッケー、の合図とともに。そんな子供のままのような屈託のなさのある彼が大好きだ。

     

     海に着くと、最初は乗り気ではなかった彼も一気にご機嫌になっていた。

    「うみはーひろいなー!」

     二人で手をつなぎ、歌いながら浜辺を歩く。爽やかな青空とキラキラと陽の光を反射して輝く海。じりじりと照りつけるような日差しも苦にならないほど、私たちは思いっきりはしゃいでいた。

    「あ、ねぇねぇ一緒にジュース飲もうよ!」

     海の家のパラソルを指さしながら私が言う。オレンジジュースを選ぶ私に、子供みたいだなと笑う彼。幸せだった。1つのジュースに2つのストローをくれた海の家のおじさんは、きっと仕事ができる人に違いない。

    「ねぇねぇ、一緒に飲もうよ」

    「嫌だよ。恥ずかしいんだけど…」

     抵抗する彼に半ばストローを押し付けると、堪忍したのかやれやれと飲み始めてくれた。誰よりも格好良くて優しくて、自慢の彼氏だ。

    「お前、飲みすぎ! 俺の分ないんだけど!」

    「だって暑いんだもん、早いもの勝ち!」

     私たちは口ぐちに言い合いながら、夏の一日を満喫していた。




     楽しい時間は過ぎるのもあっという間である。

     いつの間にか夕暮れが訪れ、昼間にはあれだけ人の多かった浜辺もどこかひっそりと寂しげになってきていた。寄せては返す波を眺めながら、どことなくロマンチックな雰囲気にお互い照れてしまう。

    「ちょっと目閉じてて!」

     彼に言うと、私はその辺りに落ちていた小枝を拾って二人の名前を書き始めた。調子に乗って、相合傘もつける。さらさらと書きながらも、相合傘なんて久しぶりに書くなぁなんて指が照れるのを感じながら。

    「はい! もー、いいよっ! 見てみて! ほら、ずっと一緒にいてね」

     私は彼に微笑みかけた。きょとんとした表情の彼が浜辺に書かれた相合傘に視線を落とす。

     彼も、きっといつもの照れた様子で、「おう」なんて応じてくれるものだと思っていた。が。

    「……」

     彼は無言だった。寧ろ、端正な眉を顰めて何か言いたげな顔をしている。心ここにあらず、といった表情だった。

     こんな彼は初めてだ。うまく言葉をつづけられず、やっとのことで喉の奥から言葉を絞り出す。

    「ねぇ、どうしたの、急に…」

     夏のじっとりした暑さに唇が渇くのを急に感じながら、私は彼をじっと見つめた。

    「何でもないよ。ごめんな。なんか変な空気にさせて」

     ぽんぽん。彼はいつもの様子で、私の頭を撫でてくる。その手が、まるで世界中に熱気を奪われたほどに冷たいことに気づき茫然とした。そんな私の様子にも気づかず、遠い目で夕方の海を見つめる彼。高い鼻に、シャープな顎。その横顔は、不気味なほど整っていた。

    「大好きだから。うん、大好きだから…」

     急に抱きしめてくる彼。痛いぐらいに強く、強く。その不審さに気づきながらも、私に何も言わせないかのようにぎゅっと抱きしめる。

     彼のこのときの大好きが、悲痛な叫びに聞こえてならなかった。

     この夏の終わりに精一杯抵抗するかのように、蝉の鳴き声がただただ虚しく浜辺に反響していた。