何度も観ているうちに、映画『We Are X』が、サンダンス映画祭で編集賞を受賞した理由がわかってくる。
たった96分でX JAPANの壮絶な歴史を見せてくれること自体がとても凄いことで、それがなぜ可能なのか興味があるのだけれど、繰り返し観ていると、何でもないようなシーンやショットに、実は深い意味や効果があるような気がしてくる。
そもそもこの映画はドキュメンタリーだ。
だから、登場する映像は全てがリアルで、普通の映画のように、監督がイメージする映像を作り出すことはない。
そうすると監督は、そのリアルな映像の選択や紡ぎ方で、自分が感じとったX JAPANやYOSHIKIの本質を描き出すことになる。
だから、その編集を見つめることで、キジャック監督がX JAPANやYOSHIKIをどう感じとっているのかがわかってくる。
僕が初めてこの映画を観た時、何より感動したのは今のX JAPANとYOSHIKIの美しさだった。
ライブでの姿が美しく、オフの姿が美しく、YOSHIKIとTOSHIの関係が美しく、バンドの苦しみを共にしてきたファンが美しく、X JAPANの存在に心を癒される世界中の新しいファンとバンドの未来が美しい。
バンドにとっての『世界進出をするX』と同じように、1987年にXと出会った僕の胸に咲いた悲願が『世界に通用する日本一美しいバンド、X』だった。
だから、キジャック監督がX JAPANというバンドとその歴史を『美しさ』で切り取り、作品としたことに、僕は何よりもまず感動したのだ。
その『美しさ』と同じように全編を通して観る人に伝わってくるのは、自然体で無垢なYOSHIKIの人間性だ。
この映画のテーマが生と死であることは明らかだけれど、そのテーマを背負って永遠に消えない傷の痛みと闘いながら未来へ向かう、そんな映画の本質を担うのはYOSHIKIという1人の人間だ。
そのYOSHIKIが驚くほど無邪気で無垢だからこそ、この映画は普遍的な力を持っている。
つまり、キジャック監督はYOSHIKIの無邪気さや無垢な人間性に、X JAPANの歴史とその未来を見たのだと思う。
そう考えると、監督が膨大な過去の映像から選択したシーンの理由や、最近のYOSHIKIの何気ない仕草や表情から何を映像として切り取ったのか、といったことがわかってくる。
素顔のYOSHIKIをよく知っている僕にすれば、それは本来のYOSHIKIの姿そのものだし、その素顔にこそ、この壮大な映画の答えが全てあるわけだ。
このように見ていくと、『We Are X』という映画は、実はYOSHIKIという1人の人間を描くことで、彼にとって大切な全て、つまりバンドX JAPANとそのメンバー、ファン、音楽と人生、そして家族と別れることの痛みとその意味…を描き切っているのだとわかる。
X JAPANの歴史をたった96分で描くことが可能な理由も、やはりそこにある。
この映画は、X JAPANを描くのではなく、YOSHIKIを描くことでX JAPANの歴史を見せてくれているのだ。