「YOSHIKIクラシカル with オーケストラ2022 in JAPAN」を観た。

 僕は初日のステージに招待して頂いたのだけれど、凄まじく素晴らしくて、何度も泣いた。
 YOSHIKIのピアノとオーケストラやボーカリスト、そしてバレエなど音楽的構成や、1曲ずつ丁寧に作品の説明をするといった基本的なところは、何度も観たこれまでのYOSHIKIクラシカルとほぼ同じだったし、セットリストもわかりやすい流れだった。 
 けれど今回のステージで、僕はこれまでのYOSHIKIクラシカルにはない、特別な凄まじい感動を覚えた。 
 その衝撃ともいえる感動を僕なりに表現すると、美しさに溢れたクラシカルスタイルでありながら、ちょうど『X JAPANのステージの衝撃が加わったようなエネルギーがもたらす感動』だったのだ。
 
 ピアノとオーケストラによる、まさにクラシックのコンサートらしい豊かさと静かな美しさ。 
 だがそこにバンドスタイルによる大音響とメンバーの激しい動きがもたらす感動のような衝撃が、胸を震わせる。 
 なぜ今回のステージでこのような不思議なことが起きるのか。
 
 その理由が僕には痛いほどわかった。
 わかったから、終演後にYOSHIKI本人と会って、そのことをきちんと伝えた。 
 今回のブロマガはそのことを中心について書いてみたい。
 
 
 まずは今回のステージの魅力についていくつかポイントを書いていきたい。
 
 ライブが始まってすぐに感じたのはその完成度の高さだった。
 直前に首の痛みを覚えたという重いハンディを負いながらも、やはり2017年のカーネギーホールを始め2014年から世界中で数々の公演を重ねてきた実績や、つい先月に20公演を重ねたディナーショーもあってか、演奏や進行がとてもきれいで豊かな印象だった。
 オーケストラはもちろん、ゲストボーカルのBEVERLYとソプラノの嘉目真木子、牧阿佐美バレヱ団といったコラボレーションも大変クオリティが高く、ロックスターYOSHIKIとはまた別の「純粋芸術家YOSHIKI」ならではの高い音楽性がきちんと伝わる演奏だった。
 とりわけプロデューサーや音楽家として様々なボーカリストを見てきた僕にとって、BEVERLYの歌は驚くほど素晴らしいと感じた。
 ちょうど11年前の今頃、同じ国際フォーラムで行われた僕の大好きなデイヴィッド・フォスターのコンサートでBEVERLYと同郷であるChariceの歌に感動した時と同じような感動を覚えたのだ。
 彼女の素晴らしいパフォーマンスによって「Hero」や「Red Swan」といった作品の持つ楽曲としてのクオリティや美しさ、そしてアレンジにかかわらずYOSHIKIの生み出す曲が持つ原点としての音楽の凄さが、オーディエンスに正確に伝わるのがとても嬉しかった。

 
 
 それでは、このような今回のステージの音楽的な素晴らしさを、先ほど書いた『衝撃的で凄まじい感動』まで高めた理由について書いていきたい。 
 まず前提として、過去たくさん行われてきたYOSHIKIクラシカルの公演を4年ぶりに日本で行うことが決定し、YOSHIKI本人がその公演について考え始めたのは間違いなく5月より前だ。 
 8月のディナーショーも9月のクラシカルコンサートも、5月よりも前に決定している。
 
 そして5月。
 YOSHIKIは心から大切にしてきた母との別れという、とても辛い出来事と向き合うことになる。

 僕はYOSHIKIがまだ20代前半の頃に出会ってその才能に気づき、YOSHIKIの生み出す作品を深く理解しながら制作をバックアップしていくという役割からとても密接な関係にあったから、僕自身たまにお会いするお母様の人としての素晴らしさも、そのお母様がYOSHIKIに与える影響も、何よりYOSHIKIがどれだけお母様を大切にしているかということも、よくわかっていた。 
 だから僕は母を失ってしまったYOSHIKIがどれだけ苦しく辛い想いで日々を送っているか容易に想像がついたし、そもそも別れの前から、コロナ禍で母と会えない日が続いていたこの数年のYOSHIKIの悲しみも気になっていた位だから、僕は母との別れという人生の苦難が今後のYOSHIKIの活動に与える重い影響を考え、とても心配していた。 

 けれどYOSHIKIはこれまで、父を失った悲しみからロックを始め、HIDEとの別れの苦しみを抱えながら「Anniversary」を演奏して再びステージに立つ決意をし、HIDEに続いてTAIJIまでもが去ってしまうことで、世界を目指すというメンバーとの約束を果たす気持ちをさらに奮い立たせて、獅子奮迅して今のような世界的な場所に到達してきた。 
 だからきっとYOSHIKIは8月のディナーショーも9月のクラシカルコンサートも予定通り行うことを決意しながら、そのステージを支えてその内容に深い影響を及ぼすものが、何より母を失った悲しみとその想いであり、同じように過去に味わった悲しい別れであることを強く意識したに違いない。
 そして、そのことが今回のステージを観た人の特別な感動を呼び起こす結果となった。
 
 ただ・・・。

 大切な親との別れはどんな人にとっても辛く苦しいものだし、ステージに立つ人がその直前にとても悲しい出来事と出会い、その苦しみを何とか抑えながら素晴らしいステージを見せてくれるということは、決して特別なことでない。

 けれど、YOSHIKIの場合はさらに特殊な事実が存在している。
 
 それはYOSHIKIのこれまでの人生がもたらす、日本人音楽アーティストとしてはとても稀有な事実だ。
 
 YOSHIKIは1992年にXの東京ドーム3Days公演を成功させた後、ソニーミュージックとの契約を終了させて、海外進出のために活動拠点をロサンゼルスへ移した。
 そして世界的な活動を展開するために徹底して語学力を磨き、ショービジネスの本場アメリカで通用する、音楽活動に必要なあらゆる知識や常識、慣習から人間関係、そして何よりも高い音楽性とその表現に不可欠なものを、自ら所有するスタジオや機材を含めて全て身につける努力をずっと続けてきた。
 このような展開を成功した日本人アーティストがほとんどしない理由は日本の音楽業界の持つ特性にある。
 つまり日本国内で成功したアーティストはとても恵まれた境遇を手にするため、わざわざ誰も知らないインディーズアーティストのような活動からスタートしなければならない苦難の道を選択する理由が、ほとんどないからだ。

 しかしYOSHIKIはその苦難の道を選び、再びゼロからスタートした。
 ひたすら語学力の習得に務め、アメリカの最先端の機材を揃えたスタジオを持ち、地道に人脈を作り、何年も何年もかけて少しずつ前進を続けた。
 けれど、弁護士なしで英語による契約締結が可能なほどの語学力を身につけても、海外進出を目指すバンドそのものが解散し、大切なメンバーHIDEまで亡くしてしまう。
 どんなに気高い志と強い海外進出への想いがあろうとも、普通であればこの時点で先に進むことを諦めるだろう。
 バンドの未来が消え、大切な友だちを失ってしまっても、日本に戻ればアーティストとして生きていける。
 しかし、YOSHIKIはそのまま苦難の道を突き進むことを選んだ。 
 今回のステージでも素晴らしい演奏を見せてくれた、天皇陛下即位10年の奉祝歌として生み出した「Anniversary」の演奏からステージに立つ人生を決意し、新たに世界的な音楽活動を行うために「Violet UK」というプロジェクトの準備を進めた。
 今回と同じ国際フォーラムで「Violet UK」のメンバーやオーケストラと共演する形で「YOSHIKIシンフォニックコンサート2002」も行った。 
 ロサンゼルスという日本から遠く離れた場所で、孤独に自らの音楽を創り続けるYOSHIKIに力強い追い風が吹き始めたのは、解散してしまったX JAPANの音楽がネットによって広がり続け、いつの間にか世界中にファンが広がっていたという、その音楽の魅力が生み出した現象によるものだった。 
 これを受けて、あくまで限定的な活動として再結成されたX JAPANの音楽活動は、ネットでは味わうことのできない生演奏を目の当たりにするX JAPANのステージに熱狂する世界中のファンの存在と、そのファンが増え続けるという強いムーブメントにより、どんどん本格化していき、ワールドツアーを経てX JAPANとしての音楽活動はパーマネントなものとなり、30年以上前からの悲願だった「Xの世界進出」は現実となっていった。

 このような過程を経て世界というフィールドでYOSHIKIは前進を続けているのだが、YOSHIKI本人にとって茨の道はまだまだ続いているようで、母との別れの痛みもあるだろうが「世界の壁は厚くて心が折れそうになる時もある」といった趣旨の発言も、今回のステージではあった。
 X JAPANの米マディソン・スクエア・ガーデン公演、YOSHIKクラシカルの米カーネギーホール公演、X JAPANの英ウェンブリー・アリーナ公演と、3大殿堂制覇という快挙や、「ロックはX JAPANとYOSHIKIと共に息を吹き返す」とまで言われた「Coachella Festival」での成功を持ってしても、まだまだ道のりは遠い・・・と感じるほどレベルの高い世界的な活動。

 その長い道のりを、自分の生み出す音楽を信じ、常に自分と闘いながら1秒も無駄にすることなく歩み続けてきたYOSHIKIは、その道のりが日本人として稀有な分、他の日本人アーティストとは違うある事実を手にしていた。

 それは「YOSHIKI自身、その人生がそのまま芸術になっている」という事実だった。 
 
 もともとYOSHIKIの音楽は、YOSHIKIという人間そのものが作品やパフォーマンスに投影されるのが特徴だった。
 つまりオリジナリティの塊だ。

 そして、YOSHIKIが大切な人との別れという辛さや苦しみと向き合いながら、他の日本人アーティストが挑戦できないほど困難な道を歩み続けてきたのは、ひたすら「素晴らしい作品を生み世界中の人たちに届けたい」という想いの強さの結果だった。
 その凄まじいまでの「想いの強さ」が、常に新しい作品を生み出し、それをひたすら続けた結果、YOSHIKIの人生や自分と闘う日々が、そのまま芸術になっていたわけだ。
 
 
 YOSHIKIの人生には「苦難の道や大切な人との別れ」に加えて「作品やその姿から夢や勇気をもらいながらYOSHIKIを見守り支え続けてきたファンとの特別な絆」も重要な要素として存在している。
 だから、ファンの見守る中でありのままの姿を見せて今の自分自身と大切な作品を伝えるライブという空間には、感動が膨れ上がった奇跡のような時間が訪れる。
 今回もいきなり冒頭の「Tears」からそれは始まり、母を想って演奏したショパンのプレリュードや「Anniversary」へと続き、ついに「Without You」でピークを迎えた。
 YOSHIKI自身が芸術になっていることから生まれる、ピアノの音から滲み出る母への想い、そして父やHIDE、TAIJIへの想いと別れの悲しみなどが、音だけではなく映像も加わって観る人により強く伝わり、会場が感動の光で満たされる。
 その感動というのは、YOSHIKIの人生つまり過去から現在に至る全ての記憶やその時々の感情、そしてそこに関わってきたあらゆる人の想いなどが、そのまま音楽に変わっているために生まれる特殊なものだ。
 そしてそれを見つめて聴いているファンの感動が、また一つになって会場を満たしていく。
 
 この連鎖が、流れる音の豊かさや静かな美しさに、X JAPANのステージのような激しく強い激情を生み出していたのだ。
 
 僕もファンと同じように、泣きながらその奇跡の時間に身を委ねた。
 ショパンのプレリュードに込められた母への想いに打たれ、「Anniversary」の演奏を支えていた1999年のあの当日の記憶が蘇り、「Without You」で5人のメンバーと過ごした青春のような毎日が胸を覆い、涙が止まらなかった。
 そして「Without You」で迎えたピークがそのまま収まることなく続いたため、「紅」のメロディーに、出会ったばかりの頃のメンバーが話しかけてくる気がして泣き、続いて「ART OF LIFE」が始まると1990年の夏、YOSHIKIと二人きりでスタジオに篭ってデモ音源を作っていた幸せな時間や大変だったレコーディングの時間、そして完成した時の何とも癒えない気持ちが蘇り、僕は号泣していた。

 会場は完全に一つになっていた。
 ステージではオーケストラに包まれてYOSHIKIがピアノを演奏しているのだけど、もう演奏しているのがYOSHIKIなのか、会場全体がYOSHIKIなのか、僕にはわからなくなっていた。

 やがて最後の曲「ENDLESS RAIN」が始まり、僕はYOSHIKIと出会えた喜びに包まれていた。

 YOSHIKIと出会って間もない、1988年になったばかりのある日。
 命懸けで音楽と向き合っているYOSHIKIに、僕はある提案をした。

 「メジャーキーのバラード曲を生んで欲しい」
 
 それから数ヶ月、ちょうど34年前の今頃、YOSHIKIが生まれたばかりの曲をピアノで弾いてくれた。

 「ENDLESS RAIN」だった。

 今まで聴いたことがないのに、シンプルな美しさに満ちたサビのメロディーに僕は心打たれた。
 半年前「YOSHIKIはバッハやベートーヴェンのようにゼロから美しいメロディーを生むことのできる才能を持っているんだよ」と伝えた僕の想いが真実であることを、目の前にある美しいメロディーが物語っていた。

 ずっと出会いたいと思っていた、若い天才アーティストが僕の目の前にいた。
 
 そのYOSHIKIが今は世界のYOSHIKIになっている。
 見守っている会場には、全身全霊で音楽に懸けてきた結果、自分自身とその人生がそのまま芸術となったYOSHIKIと、誰ひとりとして約束を破ることなく静かに心で合唱をしているファン。

 そのファンの歌声が、幻のようで幻ではなく、はっきりと聴こえてくる。
 無観客ライブの時と同じように、奇跡のようなことが起きている。

 でも僕はそれがごく自然なことだと思って安心して泣き続けることができる。
 なぜなら、もうその時に僕はとても重要な「気づき」を得ていたからだ。
 ステージが終わったら、YOSHIKIにそれをちゃんと伝えよう、と思った。
 
 
 
 4年ぶりに会ったYOSHIKIは、首の痛みを感じさせない明るい表情で、いつものように「ああ、津田さん」と柔らかく微笑んだ。
 
 僕は素晴らしいライブだったこと、とても深く感動したこと、その感動を生んでいるのが「YOSHIKI自身とその人生が芸術である」という事実なのだと伝えて、だからこそ34年以上前の過去から今までの全てをYOSHIKIの音楽がひとつにしてくれて聴く人たちを幸せにしているんだ、と伝えた。
 
 4年前にも同じことを伝えたので、YOSHIKIは静かに頷いてくれる。

 そして僕はYOSHIKIにお母様との別れとその辛さ苦しさを悼み、深く想う気持ちを伝えて、自分にできることは何でもやるから、と約束した。
 
 もうこのような会話になると、YOSHIKIと僕はおそらく30年前に戻っているので、実は会話をしているようで会話も必要ないくらいに分かり合っている。
 
 でも僕は、今日のステージを観ていて初めて気づいたことを最後に丁寧に伝えることにした。

 このことはYOSHIKI自身も気づいていないかも知れないからだ。

 「よっちゃんが今回、お母さんとの別れでとても辛くて、でもその深い想いを全部音楽に託して今日のステージで奇跡が起きるのも、YOSHIKI自身や人生が芸術であることも、僕はね、そうなる理由がわかったの」と。

 「それはね、YOSHIKIが色々なことを常に大切にしているからなんだと思う。とてつもなく・・・」

 僕は確信したのだ。

 誰もが辛い別れをする。

 誰もが自分の目標に向かって頑張る。

 誰もがうまくいかないと自問自答をして、うまくいくと自信を持つ。

 ただ、YOSHIKIはどんなことでも尋常ではなく『大切に』する人だ。

 生きかたが並はずれて真剣だからなのだろうけれど、僕の知っているYOSHIKIは心で何かを見つめる時、それをとてもとても大切にする。驚くほど。

 きっとお父さんとの別れもそうだったのだろう。
 
 お父さんの記憶があまりにも大切だったから、小さなYOSHIKIは別れた辛さから音楽で生きる人生を始めた。

 HIDEがとてつもなく大切な存在だったから、亡くした痛みは決して癒えず、今も時々心の中で会話をする。

 TAIJIとの約束があまりにも大切だったから、傷だらけでも世界に向かって前進してきた。

 そしてお母さん。

 YOSHIKIはそのお母さんへの想いを、とてもとても大切にしてきたから激しい悲しみに前が見えなくなり、けれど何とかそこから立ち上がって、その大切さを全て音楽にして今日のステージを迎えたのだ。

 すべてYOSHIKIが「大切に」するからであり、その結果、YOSHIKI自身が芸術となったためにそれができるのだ。


 僕のそんなメッセージを、YOSHIKIは黙って聞いてくれた。

 無事に伝え終わると、僕たちはあの頃のように無邪気に楽しい会話をした。

 首が心配だったけれど元気そうだし、明るい表情のYOSHIKIは僕を心から安心させてくれた。

 そうして僕は、最近ずっとYOSHIKIに伝えたかった僕の決意をきちんと伝えて、その詳細を書いた手紙を手渡した。

 その決意は、もちろん前回このブロマガで書いた内容だ。

 遠くから全力でYOSHIKIを応援するために、僕が新たな動きを始めること。

 僕はそれを伝えるのが今日のステージを観た後で良かった、と思った。

 YOSHIKIへの想いがさらに強くなったからだ。

 そして決めた。

 僕もYOSHIKIのように、もっともっと「大切に」していこう、と。

 自分にとってかけがいのないものを「心から大切に・・・」

 そして最後に、34年前からずっと変わらない言葉をYOSHIKIに伝えて、僕は会場を後にすることにした。
 
 「よっちゃん、身体に気をつけてね・・・」

 YOSHIKIは嬉しそうに笑いながら、返してくれた。

 「ピアノ、もっと上手になるから!」

 今はもう世界のYOSHIKIなのに・・・僕は笑いながらYOSHIKIに手を振った。


 

 以上が、2022年9月17日、僕の過ごした「大切な」時間の話です。

 最後まで読んでくれてありがとう。

 これからも一緒にYOSHIKIを応援していきましょうね。 


 津田直士

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こちらの写真は終演後、YOSHIKIと話した後に撮って頂いたショット。
一緒にステージを観た、僕の音楽活動であるI.o.Youの水晶(ミア)と共に。水晶もしばらく立ち上がれないほど感動していました。

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