1988年から1992年まで、Sony Musicの担当ディレクターだった僕は、Co-Producerとして「BLUE BLOOD」と「Jealousy」2つのアルバムを、メンバーと共に制作した。
1993年には、既にSony Musicとの契約は終了、XはMMGの所属アーティストだったが、Sony MusicとMMGの特別措置によって「ART OF LIFE」のレコーディングにも、レコーディングディレクターとして参加した。
拙著「すべての始まり」の帯にある『インディーズから東京ドームまでをメンバーと共に駆け抜けた』というフレーズの通り、当時は炎のような情熱で、Xというバンドに自分のすべてを懸けていた。
しかし、Xが日本で成功を納め、海外進出を念頭に活動拠点を海外へ移し、X JAPANというバンド名で新たな展開をスタートした時点で、僕はプロジェクトから離れ、ひとりのファンとして以降の活動を見守ることになった。
X JAPANに続く新たな才能を見つけて世に送り出すためにも、僕はSony Musicに残り、プロデューサーとしてアーティストプロデュースを続けていく道を選んだからだった。
★ プロジェクトを離れて日本に残り、「新たな才能を探す」という 選択をしたのはなぜだったのか、
教えて下さい。
また、新たな才能の可能性は、Xとは違うジャンルの中から見い出したい、という考えから、Xが切り開いた『ヴィジュアル系』というジャンルに関わる音楽関係者との接点もなくなり、純粋な1ファンとして X JAPANの活動を見守るスタンスへと、シフトした。
そうやって客観的にX JAPANというバンドを観るようになってから、プロデュースをしていた頃より更に強く感じるようになったことがある。
それは、メンバーの持つ『ピュアさ』だった。
Xのメンバーがどれだけピュアな人格なのか、共闘していた頃の僕はもちろん深く理解していたし、むしろそのピュアさこそがXというバンドの最大の武器だということも知っていた。
ただ、メンバーが海外へ向かって旅立った後、Sony Musicのプロデューサーとして改めて音楽業界内の実情を把握するために色々な状況を視察・確認した結果、あれだけピュアな人間の集まりがあそこまで大きな成果を上げた、ということがどれだけ奇跡的なことだったのか、深く思い知らされることとなった。
そして、以来たびたび、X JAPANのメンバーのピュアさに想いを馳せることとなった。
これから、「ピュアであること」の大きさとその深い意味を、X JAPANのメンバーのあり方から、見ていこうと思う。
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いわば一ファンだ。