これまで私は、殺害当日に共同通信にコメントし、またその2日後にダイヤモンドオンラインに追悼文を寄せた以外、基本的に彼女については語らないできた(一部を除く)。
ダイヤモンドオンラインでも触れたが、その理由は、私の書く文章はその内容を問わず、ツイッターやネットでの心無い言葉が書き込まれ、結果として、彼女の評判を傷つけることにつながると考えたことが一番だ。
案の定、そうしたメンションが私のPCに溢れだした。いつものことだが、何も知らない人に限って、知ったかぶりをして、他者の中傷をしてくる。そして、それは大抵、不正確で欺瞞に満ちたものだ。
今回もまた心無い人々がそうしているのだろう。
さらに彼らの大半はきまって匿名である。卑怯な匿名による誹謗は何も生み出さないし、むしろ日本の社会を悪くしてきた一因のひとつでさえあると私は考えている。
そうしたメディアや一部ジャーナリストばかりの日本の言論空間に対して、ほとほと嫌気がさしたのはいうまでもない。
だが、それは決して最近のことではない。昨年4月の「ジャーナリスト休業宣言」はそのためのものだったし、もっといえば、記者クラブ批判を開始した10年前からそうだったのだ。