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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第7回 概念の中心性――分けることとつなぐこと【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.648 ☆
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第7回 概念の中心性――分けることとつなぐこと【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.648 ☆

2016-07-21 07:00

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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
    第7回 概念の中心性――分けることとつなぐこと
    【不定期配信】 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.7.21 vol.648

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    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第7回です。言語では定義できない複雑怪奇な〈ゲーム〉という概念。そのモデルを、中心を持つ同心円の構造から、不均一なネットワークへと転換。ハブ的な〈複数の中心性〉、さらにはハブが変化する〈動的なネットワーク〉を措定することで、〈ゲーム〉という概念を捕捉するための新しい方法論を提示します。


    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。


    2−3.概念の中心性――分けることとつなぐこと

    2-3-1.概念を分類しないこと(統合できること)の意義について

     何かしらの事象について、分析し、論じようというとき、その内実を細かく区分けし、分類することこそが分析であるかのように語られることがある。特にコンサルタントの方が書いた「ロジカル・シンキング」などのテキストでは、MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exahusitive/相互に排他的な項目)な分類をすることが何よりも分析という行為の初歩であるかのように語られていることが多い。そして、極端な場合には、ある概念を分類せずに論じることが愚かだとみなされることもある。
     意思決定支援ツールや、ある種の論理的分析においてMECEな分類は確かに有効なシーンはしばしばあるだろう。しかし、概念を考えるうえで、MECEな分類は、有効な側面はあるが、万能なわけではない。そもそも、分類というのはMECEだけではなく、様々な分類についての概念があり[1]MECEだけが重要だというのは、過剰なMECE信仰であるといっていいだろう。そして、そもそも我々にとって、「分類をする」ということだけが、事象を精密に知るための方法であるのかどうか。まずそこから問い直してみたい。
     そもそも「分類が可能である」ということは、すぐさま「分類して認識すべき」であるということを意味しない。我々は、数多くの日常概念/日常行為を、曖昧なまま、曖昧に使用することで、日々を生きている。それは必ずしも愚かであるということではなく、我々はその曖昧なものによって、そのままコミュニケーションをとることができるということでもある。
     たとえば、意味論を専門とする松本[2]は、多義語についてある概念が、統合可能であるということと、分離可能であるということが同時にありうるということについて述べている。たとえば「つかむ」という語について言えば、次の二つの文が同時に成立可能であることを指摘している。
    a. この記事の趣旨は何とかつかめた。もっとも、物じゃないから、本当につかんだわけじゃない。
    b. この記事の趣旨は、沼のウナギと同じくらい、つかみにくい。

     前者aの文では、「つかむ」という語は分離して把握されている。一方で、後者bの文では、同じ語が、統合した形で使われている。同じ語が、分離できると同時に、統合も可能であるということは一見、ちぐはぐな現象に見えるかもしれないが、これは「つかむ」という語が分離できると同時に、統合も可能であるという両方の性質をもっているということを示しているに過ぎない、という。すなわち、意味の認定に階層性が存在するということを示しているということだという[3]。
     これは、たとえば日本語の「遊び」という語について考えてみれば、次のような事例を挙げることができるだろう。
    c.太郎は、将棋で遊ぶのは好きだったが、女遊びは苦手だった(分離テスト)
    d.太郎は、将棋でも、女でも遊んだ。(統合テスト)

     日本語での「ゲーム」という語は、「遊び」という語と比べると、相対的に多義性は強くないため、このようなセンテンスは作りにくいが、語の意味のブレが、一定の概念の階層性を示すという点については、すでにリンダ・ヒュージの挙げたルーウィ・ルールの事例で論じた通りだ。
     「ゲーム」や「遊び」という語はその意味をさらに切り分けて論じることは可能であるが、同時に、日常生活のなかで、複数の意味をもったまま、そのまま運用し、コミュニケーションを取ることが必ずしも困難ではない語である。
     その意味で、「ゲーム」や「遊び」といった語は、松本が言うところの「概念の階層性」を持っているということができるだろう。
     何かを分析する、というときに、どうそれを分類するかということに注目がされがちだが、ある概念の意味が統合できる、ということはその概念のもう一つの重要な側面だ。何かを分割したり、分類したりするのではなく、その繋がりについて考えていくことが、その概念のありようをうつしだすこともある。それは「分類」によっては把握できない、概念の構造だ。[4]


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