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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第16回「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる【不定期配信】
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第16回「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる【不定期配信】

2017-06-01 07:00
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲームの持つ「非日常性」について検証しながら、学習効果によって獲得される「二次フレーム」という概念を導き出します。

    3-4-3.「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる

     前回までに、繰り返し述べてきたようにゲームを論じるために日常/非日常、現実/非現実といった要素がくっきりとキレイにわかれるということはない。分けようとすればするほど無理な議論をしなくてはいけない。
     しかし、日常/非日常をめぐる問題を扱うための論理を開発しなければ、我々はそれについて、まともに議論をすることもできない。前回、ゲームにおける「非日常」――とりわけ「マジックサークル」――を構成するいくつかの要素をリストアップした(時間的独立性、空間的独立性、虚構世界の独立性、ルール的独立性、参加者の判別可能性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性、外部への無影響、内部への無影響、参加の自由、退出の自由、独立した価値規範、可避性、非重要性)が、単に細かく分けただけでは、議論が際限なく細かくなるだけだ。
     これを扱うためには、細かすぎず、かといって粗すぎるわけでもない中間レベルの概念を操作的に定義することで議論をすすめていきたいと思う。

    *非日常の区分可能性:一次的現実と二次的現実を切り分けるもの

     素直に「非日常」という言葉の最低限の意味をとるのであれば、それごはんを食べたり、通勤・通学をしたり、排泄をする「この現実」を成立させているものとは、「別の現実」の現れを指す言葉だろう。
     前回、リストアップした要素のうち、およそ半分近くは、この「別の現実」の切り取りを可能にするための要素といえるものだった。具体的には次の7つである。
    • 時間的独立性
    • 空間的独立性
    • 虚構世界の独立性
    • ルール的独立性
    • 参加者の判別可能性
    • 意味的独立の共有可能性
    • 情報の判別可能性
     議論が紛糾しがちなのは、これらのうちのどれか一つでも不成立ならばそれは「日常と非日常が曖昧になっている」と言いうるのか。それとも、一つでも成立していれば「日常と非日常が区分け可能である」と言いうるのか。という点だ。
     ためしに上記の基準に沿って「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いについて考えてみよう。
     まず「このゲームは日常と非日常の境界が曖昧で、ゲームが現実を侵食した」という言い方を支持できるだろうか?時間的独立性や、空間的独立性、参加者の判別可能性などといった複数の要素が不成立となっているという点で『ポケモンGO』では日常と非日常の区別が曖昧になっているという言及は妥当である。
     他方で『ポケモンGO』を遊ぶときも、ゲームと現実の境目は区分け可能な形でも提示されていると言いうる。虚構世界の独立性、ルール的独立性、意味的独立の共有可能性、情報の判別可能性といったいくつかの要素は一般的なゲームと同様のかたちで成立しており、ほんとうに区別が付けられないということはないからだ。
     『ポケモンGO』はいくつかの基準では非日常と日常の境目を侵食しているといえるし、別のいくつかの基準ではまったく問題なく両者は区分け可能であると言いうる。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。確かに言いうることがあるとすれば、「『ポケモンGO』は非日常と日常の区分けを曖昧にしたか?」という問いにYESかNOの二択で答えは成立しないということだ。
     YESかNOの二択で語ることができないならば程度問題として片を付けるよりほかない。この程度問題をなるべく丁寧に論じるための概念としてこの「区分可能性」に属する諸要素がそれぞれどのような状態にあるかということを論じることによって区分けの問題はある程度の粒度で整理できるだろう。
     また、この区分可能性によって切り分けられる「日常」の側を一次的現実、「非日常」の側を二次的現実という述語を割り当てることにしたい。

    *あらためて「遊びの堕落」の問題を整理する 

     さて、ここまで議論を確認したところで、あらためてカイヨワの指摘した「遊びの堕落」という論点について考えていきたい。
     プロのボクシングが遊びではないのではないかという指摘をどのように考えることが可能だろうか?
    まずプロボクシングやプロの将棋の棋士の場合、これらは周囲の人間からすれば区分可能性の問題はほとんど存在しない。たとえば、プロボクサーが、ボクシングをするとき、その時空間は明確に区分可能な場所となっている。プロレスラーの悪役などが場外乱闘をしはじめると、そういった時空間はやや曖昧性を帯びてくるが、基本的にはプロボクサーや棋士といった人々がゲームをするときの時空間はくっきりと区別をつけることができる。
     もっとも、本人たちにとってはこの区分可能性はもう少し曖昧になる。たとえば、日々のトレーニングや勉強の時間も彼らにとってはゲームの延長だと捉えることもできるだろう。ただし、その場合もリングの内側/外側、試合中の時間/試合外の時間という区分線自体が崩壊するわけではない。
     では、何がプロボクシングや、棋士の日常と非日常を接合してしまっているのか?区分可能性が問題なのでないとすれば、問題とされているのは、むろんそれ以外の要素だ。
     第一に、ゲームの内部から外部への影響は大きい。ゲーム内での勝ち負けは当事者の年収やキャリアに直結する。プロボクサーにとって、ゲームという行為は日常生活を成立させるうえで極めて重要なものになる。
     第二に、ゲームをはじめる自由、ゲームから退出する自由は、転職でもしない限りゲームをいつはじめて、いつやめるかを気ままに決めることができるわけではない。参加の自由と、退出の自由は大きく制限されている。
     こういった形で、プロボクサーや、棋士にとってのゲームは区分可能性以外の非日常性の要件の多くを満たさない。(注1) つまり、カイヨワの言う「遊びの堕落」とは非日常性の区分可能性についての指摘ではなく、それ以外の要件についてのものである、ということだ。
     別の言い方をすれば「好きなことを仕事にすべきではない」といったようなよく聞く人生訓の含意は、ある特定の「好きな」行為について、参加の自由・退出の自由を制限し、所得への影響をもたらすことをやめておくべきだと言っているということでもある。


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