文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。エンターテイメント作家としてのイメージが強い円谷英二を、近代映画史の文脈の中に改めて位置づけつつ、円谷の同世代に「メカニズム志向」が共有されていたことを指摘します。
『バレエ・メカニック』から『狂つた一頁』まで
円谷が『フォトタイムス』に寄せた文章には「ホリゾント法に據るセッティングの研究」のような技術論が目立つが、そのなかにあって一九三三年十月号の『フォトタイムス』には、円谷の美学的関心のありかを示唆する文章が掲載されている。
フェルナン・レジェは、彼の「機械的舞踏」に於て、動的物体の発見に向かって、驚くべき一歩を踏み出した。
シナリオとか自然主義的、または劇的のアクションとかの代わりに実在の、そして造形的な形体。
彼は、物体の通常の意味などには気も止めずに、物体のただ造形的の価値の上にのみフィルムを建設しようとして理論的、お話的、象徴的な意味から、物体を完全に、離脱し、開放したのである。[26]
レジェは一九二四年に画家ダドリー・マーフィーとともに製作した『バレエ・メカニック』(機械的舞踏!)で名を馳せた。この二〇分弱のアートフィルムは、歯車やレバー、振り子、泡立て器等の日常の事物の合成映像によって作られた、いわば「抽象画的ドキュメンタリー」と評すべき作品であり[27]、撮影はマン・レイが担当した。この円谷の論評以前に、日本でレジェはすでに「機械の世界」の運動を捉えることによって「新興写真運動」に貢献した重要な芸術家と見なされており[28]、『バレエ・メカニック』の与えた衝撃の大きさがうかがえる。
円谷が技術者の見地から、この『バレエ・メカニック』の意義を「自然主義」や「劇的なアクション」からの解放として説明したのは、本質を突いた見解である。社会的現実にも演劇的約束事にも従属することなく、あるいは手垢のついた「物語」や「象徴」からも離れて、無機物の「バレエ」によって運動そのものを映像のパフォーマンスとして出現させること――、このレジェの前衛的な企ては、先述した一九二六年の『狂つた一頁』が精神病院での女性の「舞踊」で始まっていたことと綺麗に符合する。
近年再評価の進む『狂つた一頁』は、一八九六年生まれの衣笠貞之助監督が、川端康成、横光利一、片岡鉄兵、岸田國士の四人を含む「新感覚派映画聯盟」を結成して製作した前衛映画である。精神病院に収監された女性患者が牢獄のなかで踊り狂うという鮮烈な冒頭部に始まり、他の患者たちがそれにエキサイトする「観客」として登場する。自我を失くしたかのような女の運動そのものを示しつつ、その狂気が周囲にも感染していくというディオニュソス的(祝祭的)な運動が、そこでは映像化されていた。
ただし、『狂つた一頁』はいたずらにおどろおどろしい映画ではなく、アポロン的な造形感覚にも事欠かない。四方田犬彦の詳しい分析を借りれば、そこにはキュビズムやダダイズムの影響を思わせる抽象的な「円環」のイメージが増殖する一方で、それを切断するように、牢獄の鉄格子のような冷たい垂直線のイメージが多用された[29]。そもそも、『狂つた一頁』は凝りに凝った美術セットで名高い『カリガリ博士』(一九二〇年)の影響下にある「ドイツ表現主義的」な作品と見なされがちではあるものの、かつて蓮實重彦が指摘したように、その装置はむしろ普通の作りである[30]。『狂つた一頁』の「前衛性」は美術の仕事以上に、ディオニュソス的な激しさとアポロン的な冷たさを共存させながら、ときに「抽象画的ドキュメンタリー」にも近づくカメラの繊細な運動によって担保されていた。
そのことはまさに円谷によって的確に指摘されている。円谷は自らが助手として関わった『狂つた一頁』の画期的な新技術として「画面を飛躍的に表現する急速な移動パンや、パンワーギと称するキャメラを横に振って急速な場面転換、立体的な移動ショット等」に加えて「歪曲鏡の使用、フラッシュ・ダブル・エキスポージュアに依るビジョンの効果、波形移動の効果、シルエットの使用効果、小型模型の使用」を挙げながら、衣笠監督について「映画の技術的なコツを実によく知りぬいた演出家だと、技術家の立場から私はいつも敬服している」と評していた。円谷にとって、『狂つた一頁』は「日本映画の技術発達史」に屹立するテクノロジーの記念碑なのだ[31]。
歌舞伎の女形出身の衣笠監督はかえって演劇的映画から離れて、当時のヨーロッパの前衛とも共振する映画的映画を撮り、『狂つた一頁』の後に『十字路』という傑作も生み出すが、その前提として、円谷は衣笠自身にカメラマンの経験があったことを強調していた。円谷の考えでは、衣笠は何よりもまずカメラの性能を知り尽くした「技術者」なのであり、表現主義云々、主観描写云々はあくまでその高度な技術の後に続くものにすぎない――、むろん、この衣笠評から円谷自身の技術者としての密かな矜持を読み取ることも、十分可能だろう。
戦後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの印象が強いため、私たちはつい円谷英二をエンターテインメント志向の映像作家と見てしまいがちだが、それは大きな誤解である。映画固有の表現を追求した枝正義郎のもとで修行し、映像を人工的に「構成」することに習熟した技術者が、やがて『狂つた一頁』や新興写真のような前衛運動とも接近遭遇する――、この履歴からは戦後の「怪獣もの」のイメージには収まりきらない円谷のもう一つのモダンな顔をうかがい知ることができる。円谷自身、晩年には「私が怪獣映画ばかり作るように思われるのは心外」だとして、特撮の研究を始めたのは本来「映画をより芸術的なものにしたかったから」だと記していた[32]。裏返せば、日本の戦後とは、前衛が怪獣化し、娯楽化していった時代なのだ。次章で詳しく論じるが、この変転にこそ戦後サブカルチャーを読み解く鍵があると私は考えている。