文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。円谷が「モダニズム的な飛行機」を愛しながら「反モダニズム的な怪獣」を共存させた流れを追いながら、その後継者としての宮崎駿についての議論を通じて、戦後日本の美学を「怪獣の時代」として総括します。
円谷英二と「崇高」な国策映画
ところで、本多が「記録」にこだわったのは必ずしも彼個人の趣味に留まるものではない。なぜなら、『太平洋の鷲』や『ゴジラ』を支えたドキュメンタリー志向は、すでに戦時下の日本映画において高揚していたからだ。特撮には大正期の枝正義郎らによる映画的技術の探求から戦時下のプロパガンダに到る発展のプロセスがあったが、ドキュメンタリー(記録映画)も戦争をきっかけにして大きく飛躍した。特撮とドキュメンタリーはともに、戦争を苗床として成長した「技術」なのだ。
そもそも、大切な家族を戦地に送り出した戦時下の観客にとって、身内が映っているかもしれないドキュメンタリーやニュース映画は戦場とのかけがえのない「絆」となった[14]。このきわめて真剣で注意深い観客の登場、さらに戦争のもたらす知覚的なインパクトのために、ドキュメンタリーは劇映画の想像力を凌駕するようになった。例えば、今村太平は一九三九年に、亀井文夫監督の『上海』や『南京』、内田吐夢監督の『土』、田坂具隆監督の『五人の斥候兵』といった同時期の記録映画――当時は「文化映画」(ドイツ語のKulturfilmの訳語)と呼ばれた――に言及しながら、こう述べている。
最近の日本映画の大きな問題はやはり記録と劇の問題である。記録映画的方法は主として事変ニュースを土台としてにわかに発展した。多くの劇映画は、戦争ニュースにとりまかれることによって急にみすぼらしくなった。[15]
三〇年代後半以降、ドキュメンタリー的手法は劇映画に着々と「浸潤」していった。本多の師匠の山本嘉次郎監督も、生まれたての仔馬の立ち上がる経過を高峰秀子演じる少女の家族がじっと見守る『馬』の印象的な一場面から、戦争ニュースと劇映画を融合させた『ハワイ・マレー沖海戦』の爆撃シーンに到るまで、戦時下の東宝で撮った映画では事実の記録というポーズを手放さなかった。『ゴジラ』の源流の一つは、これらの動物や戦争を題材とした「記録映画」にあるだろう。
この時期のドキュメンタリーの活性化は、日本に限らず世界的な傾向である。特に、ナチスの対外宣伝に貢献したレニ・リーフェンシュタールの映画は、事実の記録を華麗な映像詩に仕立てた。ヒトラーに感銘を与えたリーフェンシュタールの監督・主演作品『青の光』(一九三二年)には、水晶や山岳をモチーフとするドイツ・ロマン派的な美学に加えて、戦時下の円谷英二が「青空にそびえ立つポプラの葉裏がきらきら光る並木道を静かに駅馬車の通う感傷的な場面」と評したさり気なくも美しいシーンがある[16]。風景の「自生的」な立ち現れを鋭く捉える、彼女のこのリュミエール的な技術は、やがてナチズムの美学として組織化され、ナチスの党大会を記録した『意志の勝利』(一九三五年)やベルリン・オリンピックの記録映画である『民族の祭典』(一九三八年)を――すなわちドイツの力と美をアピールする「全体主義芸術」の最大の成功例を――生み出すことになる。
さらに、円谷自身の特撮も『ゴジラ』以前に「崇高」な風景に関わっていた。リーフェンシュタールの師であり、ナチスの支持者であったアーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』に参加した円谷は、バックグラウンド・プロジェクションのかつてない多用によって、早川雪洲、小杉勇、原節子ら主要キャストを現地に連れて行くことなく、ある程度までスタジオで撮影を間に合わせることができた[17]。四方田犬彦が言うように、「大自然の脅威と火山の噴火」と「恋人たちの激情」の重なり合う『新しき土』の浅間山噴火口の場面は、ファンクによる「ナチスドイツ的な映像の修辞学」の具現化であったが[18]、このナチス的な美学を首尾よく完成させるのに、円谷の技術は大きな助けになったわけだ。