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今回のPLANETSアーカイブスは、政治論集『民主主義を直感するために』(晶文社)や『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)の著者である哲学者・國分功一郎さんと本誌編集長・宇野常寛の対談です。後編で議論されるのは、言語の射程距離の変化と、カリフォルニアン・イデオロギー以後の国家に残された役割。そして、人間にとっての「言葉」の機能の本質とは?(構成:中野慧)

 ※本記事は、2016年 4月26日に放送されたニコ生の内容に加筆修正を加え、2016年6月10日に配信した記事の再配信です。

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放送日:2016年4月26日

「言葉」で語られる公共性はどこまで有効なのか

國分 ここまで政治の現状の話をしてきましたが、もうちょっと抽象的な未来の話もしてみたいと思います。宇野さんは言葉に関わっていてITにも関心があるわけですよね。で、ここまで話してきたことにも関連するんだけど、最近俺は、「もしかしたら、人間は言葉を喋らなくなるんじゃないか?」ということを考えているんです。いまは「密度の濃い」言葉が機能しなくなっている一方で、LINEとかではスタンプでコミュニケーションが取れているわけでしょう?
 イタリアの哲学者のジョルジョ・アガンベンが、去年出した『身体の使用──脱構成的可能態の理論のために』(みすず書房、2016年)という本のなかでけっこうショッキングなことを言っていた。近代以降、言語が人間の思考を規定するということがずっと前提になってきたが、それがいま消え去りつつあるって言うんです。俺は割とそれに驚いた。
 去年の夏にアガンベンの集中講義に出席して、彼と直接話をする機会があったんだけど、酒の席で彼は「人間は世界中でBad Languageを喋っている」って何度も言っていた。その後、彼の本を読んでそのことを思い出したんだよね。人はもう言葉と呼べるものを話さなくなりつつあるってことなんじゃないか。
 でも、よく考えてみれば、俺らが日常的に話している言葉って、密度が濃いものでも、深みがあるものでも何でもない、記号でしょ。「ああ、宇野さん、どうもどうも」とか、「だよね」「じゃあ、またね」とか。それは別に堕落したコミュニケーションじゃなくて、コミュニケーションというのはそういうものなんじゃないか。
 哲学の分野では、密度が濃い、深みのある言葉について、「言語のマテリアリティ(唯物論性)」なんて言い方をしてきた。言葉自体がゴツゴツした物質として存在しているというイメージですね。でも、そういうイメージって所詮はここ100〜200年の夢物語に過ぎなかったんじゃないか。もしそこで学者たちが夢見ていたものを「言葉」と呼ぶならば、まさしくアガンベンが言うように「言葉」は消え去りつつあるんじゃないか。
 だとすると、今日の話の前提には「言葉を届ける」ということがあったと思うんだけど、いったいどうしたらいいのかと途方に暮れてしまうわけです。さっき宇野さんは「言葉よりもモノとかスペックのほうが射程が長い」と言ったわけだけど、本当にそういうことが起こりつつあるかもしれない。宇野さんはAIにも詳しいと思うけど、AIも無関係ではない。漠然とした話なんだけど、どう思います?

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