宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマに、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談を3回にわたってお届けします。中編では、フェイク父性を胎内に囲い込むディストピア的な〈母性〉を超克する可能性を、高橋留美子と『この世界の片隅に』を手がかりにしながら議論します。
高橋留美子とディストピア化する〈母性〉
▲『母性のディストピア』
宮台 『母性のディストピア』で押井作品を通して論じられた高橋留美子は、僕にとって古くから大切な論点です。『サブカルチャー神話解体』(1992年連載)で書いた通り、70年代半ば以降の松本零士アニメブームに彼女は激怒します。「母なる女に見守られて孤独な男が旅をする」という十年遅れのモチーフが逆鱗に触れたのです。
▲『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』
『サブカル神話~』で引いた彼女の発言を読むと、60年代で廃れたはずの「母なる女/旅する男」という陳腐な図式が、「大宇宙という非日常」を舞台とすることで──謂わば包み紙を変えただけで──再発されて現に売れてしまっている事実に、フェミニズム的というよりも、創作者の倫理において反発しているのが分かります。
高橋留美子が嫌悪した「母なる女が身守る旅する男」図式は、宇野さんが批判する〈母性に庇護されたフェイク父性〉図式と同一で、僕が知る限り宇野さんと同じ苛立ちを最初に表明したのは高橋です。彼女は凡庸な図式の反復に対抗すべく、奔放に生きるラムを描きました。僕の言葉だと、母なる女=〈便所女〉、ラム=〈奔放女〉です。
最初に断ると、僕の言葉は性的に積極的な女が〈便所女〉と〈奔放女〉に分類される事実に注目したもの。僕の言葉が汚いのは〈便所女〉が大多数なのを告発するためです。〈便所女〉は高橋が嫌悪する「旅する男を身守る母なる女」で、宇野さんが批判する〈フェイク父性を庇護する母性〉です。こうして宇野さんと僕の問題設定は通底します。
『サブカル神話~』で示したように、(1)「旅する男を身守る母なる女」を切断すべく「大世界&非日常」の結合から「小世界&日常」の結合へとシフトした高橋に対して、(2)これをパロって「小世界&非日常」の結合へとエロ化したのがコミケ的二次創作で、(3)高橋世界の再解釈で「大世界&日常」の結合を持ち込んだのが押井守です。
▲『サブカルチャー神話解体』第3章 青少年マンガ分析編から
(なおローマ数字は、各象限が出現した歴史的順序)
僕の言葉で言えば、高橋留美子は、男視点の〈便所女〉に代えて女視点の〈奔放女〉の形象を持ち込んだのですが、宇野さんの問題設定に引きつければ、そのことで戦後=〈フェイク父性を庇護する母性〉を切断したのです。彼女はフェイク父性を退けるために、男視点にありがちな「大世界=大宇宙」と「非日常=戦争」を共に退けた訳です。
そんな文脈を持つ「小世界&日常」を誤読、「終わりなき日常=戦後のぬるま湯」と解釈したのが押井守です。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で彼は、「小世界&日常」という母の胎内で男はどう生きるか、つまり、去勢された男がいかに自己回復を遂げ得るかを考えた。高橋留美子がこの作品を嫌ったのは有名です。
すると、高橋が「小世界&日常」、押井が「大世界&日常」となるのは、必然的です。高橋も押井も「小世界での戯れ」を微に入り細に入り描きますが、高橋の場合は「小世界が閉じている」のに対し、押井の場合は「小世界の外に大世界がある」。そして「本当は歴史が大きく動いているのに、我々は小世界から出られない」となります。
宇野さんも御存じの通り、そもそも僕の「終わりなき日常」概念自体、「戦後のぬるま湯」への苛立ちという麻原彰晃的=オウム的な男視点を切断すべく、「まったりとした援交女子高生」という女視点を賞揚したもの。僕は〈まったり革命〉と呼んでいました。宇野さんがそれを〈フェイク父性を庇護する母性〉の切断という歴史的所作として再確認してくれて、感謝しています。
『サブカル神話~』と『終わりなき日常を生きろ』(1995年 )が典型ですが、僕は「男になる」「近代になる」という問題設定を否定します。その意味で僕の出発点は高橋留美子ですが、宇野さんの出発点が高橋留美子なのか押井守なのか微妙です。押井守的な男視点を否定しつつ、高橋留美子的な女視点を肯定する訳でもないからです。
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